城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年六月一六日            関根弘興牧師
                第一ペテロ一章一〇節〜一二節
ペテロの手紙連続説教4 
   「待ち望んだ救い」

 10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。(新改訳聖書)


この手紙は、様々な試練を味わっている人々に対して、「どんな時にも神様の恵みの中にとどまっていなさい」と励ますために書かれました。
 前回の箇所では、ペテロは、信仰の試練は精錬された金よりもすばらしい値打ちのあるものだ、と記しました。そして、8節、9節で、こう書いています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」
 この手紙の宛先の人々は、人としてこの地上を歩まれたイエス様の姿を実際に見たことはありません。しかし、弟子たちを通して伝えられた救い主イエスを信じることによって、罪を赦され、新しく生まれ、主と共に歩む人生を始めました。そして、どんな試練の中でも、内側から湧いてくる喜びを味わうことができるようになったのです。ペテロは、それは「たましいの救いを得ているから」だと言います。
 前回、お話ししたように、この「たましいの救い」とは、ただ心が救われたということではなく、生き方そのものが救われたということです。神様に背を向け、罪責感や死への恐れや将来の不安や虚しさを抱きながら生きる生き方から、神様とともに平安と喜びと希望を持って生きる生き方へと変えられたということなのです。
 そして、ペテロは、その「救い」がどんなに尊いものであるかを知ってほしいという思いから、今日の箇所を書き進めているのです。

1 福音が伝えられた経緯

 彼はまず、「神様が恵みによって救いを与えてくださった」という福音が、どのようにして手紙の宛先の人々にまで伝えられていったのかを説明しています。

(1)旧約聖書の預言者たちに示された

 まず、10節から12節の前半までは、旧約聖書の預言者たちについて説明しています。
 10節ー11節に、こう書かれていますね。「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」
 この言葉の内容を詳しく見ていきましょう。

@「預言者たち」とは

 「預言者」というのは、「神様のことばを預かって、人々に伝える者」という意味です。狭い意味では、とくにその使命を専門に行っている人々を預言者と呼びますが、広い意味では、神様から示され教えられたことを語る人々は皆、預言者であると言えます。例えば、牧師も、聖書を通して神様の言葉を語っているわけですから、預言者であるということもできるわけですね。
 今日の箇所でペテロが言っている「預言者たち」も広い意味で言われています。イザヤ、エレミヤなどの専門的な預言者たちだけでなく、神様から様々なことを示されたアブラハムやモーセ、王や祭司たちなども含まれていると考えられます。

A「あなたがたに対する恵みについて預言した」とは

 ペテロは、彼らが「あなたがたに対する恵みについて預言した」と書いていますね。これは、どういうことでしょうか。
 救いは、人が何か立派なことをしたり、素晴らしい功績をあげたことに対する報酬や褒美として与えられるのではありません。弱く、欠けだらけで、神様に逆らうようなことばかりしてしまう私たちに、神様は、無条件で救いを与えてくださるのです。それを聖書では「恵み」と呼びます。そして、その救いをただ感謝して受け取ることが「信仰」です。私たちは、神様が与えてくださる救いの恵みを、ただ「ありがとうございます」と信頼して受け取るだけでいいというのですね。
 その恵みについて、神様は、旧約聖書の初めの創世記から、旧約聖書全体を通して、いろいろな人々に示してくださいました。神様に逆らってしまった最初の人アダムに対しては、アダムの子孫から救い主が生まれることを示唆する約束を示してくださいました。また、イスラエルの先祖となるアブラハムに対しては、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」(創世記22章18節)と約束しておられます。それ以降も、神様は「あなたがたは、自分の力で神の基準に達して救いを得ることはできない。だから、わたしは、あなたがたを救うために将来、救い主を送る計画を立てている」ということをいろいろな形で、様々な人々に示されました。そして、その人々は、いつか来られる救い主について、熱心に尋ね、細かく調べ、書き記したのです。

B「キリストの御霊が、キリストの苦難と栄光をあかしされた」とは

 そして、「自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされた」とありますね。これは、どういう意味でしょうか。
 「キリスト」とは、「救い主」という意味のギリシヤ語ですね。ヘブル語では「メシヤ」といいます。神様の救い主についての啓示は、最初は漠然としたものでした。アダムの子孫の中のアブラハムの子孫から生まれることが示されていましたが、その後、アブラハムの子孫の中でも、ユダ部族のダビデ王の子孫から生まれるということがわかってきました。救い主についての詳しい情報が少しずつ明らかにされていったのです。そして、その来たるべき救い主は、苦難と栄光を受けることになるということが示されたのです。
苦難とは、もちろん十字架のことです。旧約聖書のイザヤ書53章には、キリストが人々の罪を背負って苦しみを受ける姿がはっきりと預言されています。また、詩篇22篇には、キリストの苦しみと、それに続く栄光についての預言が記されています。 イエス・キリストは、私たちの罪を購うために苦しみを受け、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活し、天に昇り、永遠の御座について、すべてを支配する王として栄光を受けられましたが、実際にその出来事が起こる何百年も昔から、そのことが預言されていたのです。
 預言者たちがキリストの苦難と栄光を預言したのは、自分の知識や知恵によるものではありませんでした。ペテロは、「彼らのうちにおられるキリストの御霊がキリストの苦難と栄光を前もってあかしされた」のだと書いていますね。
 これを読んで、「旧約聖書の時代には、キリストはまだ来ていなかったのに、キリストの御霊があかしされたというのはおかしいのではないか」と疑問に思う方がいるかもしれませんね。しかし、キリストが旧約聖書の時代にはいなかったというのは誤解です。聖書の教える神様は、父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体の神様です。イエス・キリストは、神が人として来てくださった方です。ですから、キリストは、天地創造以前から存在しておられる方であり、旧約聖書の時代にも、父なる神と聖霊と一体となってみわざをなしておられたのです。ですから、ペテロは「キリストの御霊」と呼んでいますが、それは「神様の御霊」とか「聖霊」と読み替えることもできる言葉なのです。預言者たちが、神様の救いの恵みについて、熱心に尋ね調べているとき、神様の霊が彼らにキリストが将来受けるべき苦難と栄光を示してくださったということなのですね。

C「自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕」とは

預言者たちは、神様の恵みや救い主について熱心に調べ、神様から示されたことを詳しく書き記しましたが、それは、「自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であった」とペテロは書いています。「聖書が書かれたのは、あなたがたのためなのですよ」と言っているわけですね。預言者たちが、丹念に調べ求め、そして、神様が彼らに示してくださった救いの約束は、それを聞いた人たちのためにあるのだというのです。
 イエス様は、ルカ10章24節で弟子たちにこう言われました。「あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」確かに、旧約時代の人々は、実際に自分の目で救い主イエス様を見ることも、その説教を聞くこともできませんでした。ただ、神様の約束を信頼し、将来必ず来られる救い主を待ち望みつつ生きていたのです。
 また、イエス様は、ヨハネ8章56節-58節で、ユダヤ人たちにこう言われました。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」神様は、アブラハムに「あなたの子孫から救い主が生まれ、すべての民はその救い主によって祝福される」という約束をお与えになりました。アブラハムは、その救い主の訪れを信じ、期待して大いに喜んだのです。
 ヘブル11章13節には、アブラハムをはじめ、信仰に生きた人々について、こう書かれています。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」
 旧約聖書の人々は、救い主を実際に目撃することはありませんでしたが、やがて救い主が来られることを確信して待ち望み、それを喜びとして歩んでいたのです。イエス様が「アブラハムは、わたしの日を見て、喜んだ」と言われたのは、将来の救い主イエスの到来を実際に見るかのように確信していたということなのですね。
 預言者たちは、救い主の到来を確信していました。そして、後の人々も同じ確信が持てるようにするため、また、後の人々が救い主が実際に来られたときにお迎えする準備ができるようにするため、旧約聖書を書き記しました。それが、神様が彼らに与えた使命だったのです。
 
(2)新約時代の弟子たちによって告げ知らされた

さて、12節の後半に、「そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです」と書かれていますね。
旧約時代の人々が待ち望んでいた救い主が、いよいよ来られました。そして、人として私たちとともに生活し、御自身の姿を通して、私たちに恵みとまことに満ちた神様の愛を示し、救いのみわざを成し遂げられたのです。
 そのイエス様といつもともにいて、イエス様の姿や言葉を直接見聞きした弟子たちが、「旧約聖書で預言されていた救い主がついに来られました。この方を信じるだけで、救われます」という福音を全世界に宣べ伝えるようになったのです。そして、その福音は、この手紙の宛先である小アジア地方の人々にも届き、各地に教会が建てあげられていきました。
 イエス様の福音を宣べ伝えていった弟子たちは、自分たちの考えや知恵や力によってではなく、「天から送られた聖霊によって」語ったとペテロは書いていますね。ペテロ自身もその一人でした。
 イエス様は、十字架と復活によって、救いのみわざを完成されたあと、天に昇り、今度は、もう一人の助け主である聖霊を信じる一人一人に送ってくださいました。
 そのことをはっきり示す出来事がペンテコステ(五旬節)という大きな祭りの日に起こったと使徒の働き2章に記録されています。弟子たちがエルサレムのある場所に集まって祈っていると、聖霊が一人一人の上に下り、皆が聖霊に満たされて、他国の様々な言葉で神様の大きなみわざを語り始めたのです。それ以来、ペンテコステは「聖霊降臨日」と呼ばれ、教会の誕生日とされています。
 弟子たちは、聖霊を受け、聖霊に教えられ、導かれながら、世界中に福音を宣べ伝えていくようになりました。そして、聖霊によって示されたことを書き記しました。それをまとめたものが新約聖書です。
 先ほど、旧約聖書は、キリストの御霊によってあかしされたことを書き記したものであるとお話ししましたが、新約聖書も天から送られた聖霊によって示されたことが書き記されているのです。ですから、旧約聖書も新約聖書も神様によって書かれたものであるということができるのですね。
 第二テモテ3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」と書かれています。聖書はすべて「神の霊感」によって書かれたものなのです。
 聖書は、旧約三十九巻、新約二十七巻、合わせて六十六巻の書物からなっています。そして、千五百年に渡って、約四十名の人々によって書かれました。その人々が「神の霊感」によって書き記したというわけですが、それは、恍惚状態になって、自分の意志と関係なく手が勝手に動いて書いた、という意味ではありません。それぞれが自分の意志で、自分で考えて、自分の知恵や力を用いて書いたのですが、その背後に神様の啓示や教えや導きがあったということなのです。彼らは、神様のことを知りたいと願い、熱心に尋ね、細かく調べていきました。その過程の中で、神様御自身が働きかけ、教え、気づかせ、それぞれの文学的な才能や知識や経験を用いて書かせてくださった、ということなのです。
 たとえば、旧約聖書の最初の五書を編纂したのはモーセだと考えられています。モーセは、不思議な経緯によって、生まれて三ヶ月目にエジプトの王女の養子となり、四十歳までエジプトの宮廷で生活しました。当時のエジプトは世界最大の国で、政治的、法律的、文学的な資料が豊富にあったはずです。そのエジプトの宮廷で、モーセは当時の最高の教育を受けたことでしょう。その一方で、モーセの生みの母がモーセの乳母として雇われたので、モーセは幼い頃から、アブラハムや先祖たちに示された神様の様々なみわざや約束について聞かされて育ちました。しかも、モーセは、四十歳の時に大きな挫折を経験し、八十歳まで荒野で生活をしていく中で、謙遜を身につけ、神様に忠実に従う者、神様と親しく語り合うことのできる者となっていったのです。だからこそ、神様から創造のみわざや律法について示していただき、それを書き記すことができたわけですね。
 ですから、聖書の「著者」は神様御自身であり、神の霊感によってそれぞれの書物を書き記した人々は、聖書の「記者」と呼ばれるのです。
 旧約聖書も新約聖書も神様が私たちのために与えてくださったものです。ですから、聖書の言葉には力があり、私たちに救い、平安、希望、喜びを与えることができます。また、私たちをきよめ、訓練し、成長させることができるのです。そして、私たちは、聖書を通して、神様の深い愛と恵みの素晴らしさを味わうことができるのです。

2 御使いたちも見たいと願うほどの救い

 そして、その救いは、「御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」とペテロは書いていますね。
 この「はっきり見たい」という言葉は、「首を前に突き出してのぞき込む」という意味の言葉だと言われています。神様が私たちに与えてくださった救いは、御使いが首を前に突き出して何としても見たいと思うほどに不思議で驚くべき素晴らしいみわざだというわけですね。
 ルカ15章10節で、イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」と言っておられます。一人が救われることは、御使いたちが大喜びするほど素晴らしい出来事だというのですね。
 私たちは、イエス様の救いがどれほど素晴らしいものなのか、あまり意識していないかもしれませんね。でも、イエス様の救いは、御使いたちが首を突き出して見たがるほどに素晴らしいものだということを、あらためて覚えていきたいですね。

 ペテロは、今日の箇所で、救いは、神様の恵みであり、福音(良き知らせ)であり、御使いが熱心に見たいと願わせるほどに素晴らしいものだと書きました。
 私は、これを読んで、教会が語るべきことの中心はいつも福音であるということを改めて思わされます。説教には、様々なスタイルがあるでしょう。説教者によって雰囲気も口調も違います。しかし、伝えるべきメッセージの中心は、いつも、福音です。もちろん、聖書の中には、神様のさばきや警告についても記されていますから、それも、そのまま語る必要があります。しかし、そういうさばきや警告やその他すべてのものを含めて、聖書が語っていることの中心は、イエス・キリストを信じることによって救われるという神様の恵みの福音なのです。
 先週、「信仰生活を続けていくと、信仰は、よりシンプルになっていく」というお話をしましたね。教会の礼拝も同じです。説教者は、いつもこのことを心に留めていなければならないと思っています。福音のメッセージは、御使いたちがどうにかしてはっきりと見たいと願っているものなわけですからね。
 私は今回の説教を作っているとき、「私が語る福音のメッセージを、御使いは聞きたいと願っているだろうか」と考えてしまいました。「あの牧師の話は、ただ難しいだけで興味がない」と思われたら、ペテロが語り、またこの手紙の宛先の人たちが聞いた福音からは離れてしまっているということですね。
 イエス様の十字架と復活によってもたらされた福音には、感動があります。愛されている喜びがあります。赦されている安心があります。永遠を見つめて生きる希望があります。
 ペテロが「天から送られた聖霊によって福音が告げ知らされた」と書いているように、私も丹念に聖書を調べながら、天から送られた聖霊によって福音を語らせていただきたいと願っています。そして、そうやって語られた福音こそが、人を変え、人を救い、死んだ者を生かすことができるのだと確信しています。
 今日、集った一人一人が、このイエス様の福音に生かされていることに改めて感動し、すばらしい救いが与えられていることを喜びながら、新しい週を歩んでいけますように。