城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年六月三〇日            関根弘興牧師
                第一ペテロ一章一三節〜一六節
ペテロの手紙連続説教5 
   「聖なるものとされる」

13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(新改訳聖書)


 イエス・キリストを信じることによって救いが与えられるという福音は、はるか昔から旧約聖書の預言者たちによって預言され、記録されていました。また、いよいよ救い主イエス様が来られてからは、福音は、イエス様の弟子たちによって世界中に伝えられ、新約聖書に記されました。そして、そのように福音が示され、伝えられ、記されていく背後には、聖霊の働きがあったのだということを前回学びましたね。ペテロは、イエス様による救いは、神様の恵みであり、福音(良き知らせ)であり、御使いが身を乗り出して熱心に見たいと願うほどに素晴らしいものなのだと記しています。

1 新しく造られた者

 では、イエス様による救いとは、どのようなものなのでしょうか。第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。イエス様を信じ受け入れるとき、古い自分が死んで、新しく造られた者になるというのですね。と言っても、外観や性格がまったく変わって別の人間になるという意味ではありません。では、何が新しくされたのでしょうか。

@新しいいのち

 ヨハネ3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。
 イエス様を信じる時、私たちは永遠のいのちを与えられて新しく生まれるのです。
 いのちの源である神様から離れていた時、た私たちは死んだ状態でした。腐って滅びていくしかない状態だったのです。しかし、イエス様を信じることによって神様のいのち、永遠のいのちが与えられました。このいのちは、私たちの内側をきよめ、成長させ、愛、喜び、平安、誠実などの良き実を結ばせ、キリストのような愛とまことに満ちた姿へと変えていく力があります。また、このいのちを持つことによって、私たちは、死を乗り越え、いつまでも神様とともに生きていくことができるようになったのです。イエス様が、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われたとおりです。

A新しい関係

 私たちは、神様のいのちを与えられて、神様の子どもとして新しく生まれ、神様との親しい関係を持つことができるようになりました。以前、神様と断絶し、自分勝手に歩んでいたときには、迷いや虚しさや不安の中にいましたが、イエス様を信じ、聖霊が一人一人の内に宿ってくださった今では、神様に「お父さん」と親しく呼かけることができ、父なる神様の愛や恵みを豊かに受けることができます。また、いつも神様とともに歩むことができるようになったのです。

A新しい自由

 私たちは、様々なものに束縛されていました。死の束縛、自分でしたくないことをしてしまう罪の束縛、たたりや罰を恐れる宗教的、律法的束縛など、いろいろな束縛の中にいました。しかし、イエス様は、自由を得させるために、私たちを解放してくださったのです。
 魚は水の中にいる時にこそ、自由に生きることができますね。もし魚が「私は水の中だけに束縛されているのはいやだ。もっと自由になりたい」と言って、水の外に飛び出したらどうでしょう。自由に泳げ回れなくなるし、息ができなくなって死んでしまいますね。魚は水の中でこそ本当の自由を得ることができるのです。
 それと同じように、人は、神様の愛の内に留まっているときにこそ、本当に自由に、自分らしく、伸び伸びと生きることができます。
 パウロはガラテヤ5章1節でこう書きました。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」
 ただ、誤解しないでいただきたいのですが、「自由」は、「放縦」とは違います。自由だからといって何をしてもよいわけではありません。
 パウロは、第一コリント10章23節ー24節でこう書いています。「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」
また、ガラテヤ5章13節ではこう書いています。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」
 私たちは、強制されて仕方なくではなく、心から進んで神様を愛し、隣人を愛することができる自由が与えられました。すべてのことはしてもよいのです。しかし、有益でないことや徳を高めないことをしない自由、自分の利益を求めず他人の利益を求める自由、愛をもって互いに仕え合う自由を与えられているのです。

2 新しく造られた者の生き方

 さて、そのように救われて、新しく造られた私たちが、どのようなことを心がけて生きていったらいいかということを、ペテロは今日の箇所で教えています。

@心を引き締める

 当時の人々は、上から下までつながっている長い衣をまとっていました。ですから、何か仕事をするときは、腰に帯を締めて、衣が邪魔にならないようにしました。日本では、着物で仕事をするときに襷をかけますが、それと同じようなものですね。 「心を引き締め」と訳されている言葉は、直訳では「心の帯を引き締め」と訳せます。私たちは、ただ漫然と生活していると、いつのまにか後退してしまうような者なんですね。ですから、ペテロは、心の帯を引き締めなさいと書いているのです。「今週も主を礼拝することからスタートしよう」「今日も主を信頼して歩んでいこう」と心の帯を引き締めていくことが大切なわけです。
 それから、「心」というのは、「思考」とか「知力」という意味の言葉でもあります。ですから、「心を引き締める」とは「自分の判断に帯を締める」という意味だと理解することもできるのです。
 私たちは、毎日様々な判断をして行動していますが、その判断がキリストによって新しくされた者としての判断となっているだろうか、その判断が神様に仕えることになるだろうか、相手の最善となるだろうかということを、自分に与えられた思考や知力を用い、聖書の言葉と照らしながら点検していくこと、また、それを習慣化していくことが大切です。
 もちろん、判断に迷うことはたくさんあるでしょう。そのときは、「神様、私の判断が間違っていたら教えてください」と神様に委ねつつ進んでいきましょう。みこころなら開かれるし、みこころでなければ閉ざされます。
 また、神様は、間違いや失敗をも益に変えてくださいます。ですから、いつも心を引き締めて、神様に信頼つつ歩んでいきましょう。。

A身を慎む

 この「身を慎む」という言葉の本来の意味は「酔っ払ってない」ということで、「はっきりと目を覚ましている」ということです。といっても、二十四時間寝ないで何かをしていなさい、ということではありません。
私たちの周りには、私たちを誘惑し酔わせてしまうものがたくさんあるように思います。何かの思想に酔ってしまう、一人の人物に酔ってしまう、偏った聖書解釈に基づく教えに酔ってしまうことなどがあります。昔も今も、私たちの心を虜にし、酔わせ、結果的にキリストから離してしまうものがたくさんあるのです。だから、ペテロは、一時の熱狂や流行にたやすく酔ってしまうことがないように、と忠告しているのですね。
 聖書は、いつかは世の終わりが来る、その時にキリストが再び来られる、だから、キリストがいつ来られてもいいように目を覚ましていなさい、と教えています。
 ところが、当時から、クリスチャンの中にも、「世の終わりはまだまだ来ないから、自由を謳歌しよう」といって放縦な生活に走ってしまう人がいました。
 そういう人々に対して、イエス様は、マタイ24章で二種類のしもべのたとえ話をなさいました。良いしもべは、主人が留守の間、任された仕事を忠実に果たしたので、主人が帰ってきたときに大いに賞賛されました。しかし、悪いしもべは、主人は当分帰ってこないと思って任された仕事をせずに勝手に飲み食いして酔っ払っていたので、厳しく罰せられたという話です。いつキリストが来られてもいいように、身を慎んでいなさいという教えです。
 また、逆に、「世の終わりがもうすぐ来るから、もう働く必要などない」といって日常生活を放り出してしまう人もいました。彼らは、キリストが再び来られるという再臨の教えを極端に解釈した教えに酔ってしまっている状態だったのです。
 そういう人々に対して、パウロは、第一テサロニケ4章11節でこう書いています。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」これは、「身を慎みなさい」と同じ意味ですね。
 クリスチャン生活は、決して現実離れしたものではありません。現実をしっかり見つめながら、戸惑いや葛藤を覚えることもあるでしょうが、聖書の約束をしっかりと心に留めて生活していく、それが目覚めている者の生活なのです。

Bひたすら待ち望む

 それから、ペテロは、「イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と書いていますね。
 「イエス・キリストの現れの時」には二つの意味があります。一つは、神の子イエス様が人としてお生まれになったクリスマスです。もう一つは、十字架で死んで葬られ、三日目に復活し、天に昇られたイエス様が、この世の終わりに再び来られるという再臨の出来事です。
 イエス・キリストの現れの時には、必ず豊かな恵みがもたらされます。クリスマスは、神様が素晴らしい救いのみわざを私たちのもとにもたらしてくださる時でした。では、再臨の時には、どのような恵みがもたらされるのでしょうか。もはや苦しみも悲しみもない新しい天地がもたらされます。そして、私たちは、イエス・キリストと同じ姿へと完成され、いつまでも主とともに生きることになるのです。
 この手紙が書かれた当時、少しずつ忍び寄る迫害の不安がありました。様々な苦しみや困難もありました。そうした試練の中にいる人々に対して、ペテロは、「将来、素晴らしい恵みが現されるのだから、それを待ち望んで生活していきなさい」と励ましたのです。
 私たちの毎日には失望も挫折も心配もありますが、主がもたらしてくださった救いの恵みがいつも注がれています。そして、私たちは、将来、もたらされる恵みを待ち望みつつ歩んで行くことができるのです。

C従順な子どもとなる

14節に「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず」とありますね。
 ペテロは、「以前あなたがたは無知であった」と書いていますが、これは、聖書の神様について無知であったということです。神様のことを知らなかったのですから、神様が人に対して何を願い求めておられるのかもわからなかったわけです。今ここにおられるほとんどの方も、教会に来るまでは、神様のことなど考えもしなかったでしょう。また、「神様」と聞いて八百万の神様を想像することはあっても、天地を創造し、愛と恵みに満ちておられる神様を想像することはなかったでしょう。
 そして、ペテロは、「あなたがたは神様を知らなかったので、さまざまな欲望に従って生きていた」と言っていますが、これは、「自分の願いのままに生きていた」「ただ自分の欲することに自分の生活をあてはめて生きていた」「すべての判断基準は自分にある生き方をしてきた」という意味です。神様を知らなかったのですから、それは、当然かもしれません。
 しかし、聖書の神様を知ったらなら、どうでしょう。神様を知っても、私たちの中に起こる欲望が消えてしまうわけではありません。おいしいものを食べたい、おしゃれをしたい、レジャーを楽しみたい、旅行に行きたい、私たちは、いろいろな願いを持ちますね。ペテロは、そうした楽しみをすべて否定することがクリスチャンとしての生き方だと言っているわけではありません。そうではなくて、自分の生活を自分の思いと考えだけで満たすのではなく、愛と恵みに満ちた神様が教え諭してくださることを生活に当てはめ、判断基準として生きていこう、ということなのです。それが「従順な子どもとなる」ことです。赤ちゃんがお父さんの腕の中で安心して抱かれているように、神様に全き信頼を置き、神様の恵みの中に自分のすべてを委ね、神様の言葉を判断基準として生きていくのです。
 箴言3章5節ー8節には、こう書かれています。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。」

D聖なるものとされる

 そして、ペテロは、15節ー16節でこう書いています。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」
 この中に引用されている神様の言葉は、レビ記11章45節に書かれています。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」
 「聖なるものとなる」というのは、自分の努力で神様の完全性に到達しなさいとか、道徳的に完全で良心の汚れの何ひとつない人になりなさいという意味ではありません。
 「聖」とは「区別されたもの」という意味があります。神様が「わたしが聖であるから」と言われるのは、神様がこの世からも、罪や汚れからも完全に区別されたお方であるということを意味しています。そして、私たちが「聖とされる」というのは、「神様の専用品として区別される」という意味です。
 私たちは、イエス様を信じた時に、すでに聖なるもの、神様の専用品とされています。ですから、ペテロがここで「聖なるものとされなさい」と言っているのは、「あなたがたは、すでに聖なるものとされているのだから、どんなことがあっても、そのことを深く確信して歩んで行きなさい」という励ましの意味が込められているのです。
 クリスチャンとは、この世に生きてはいるけれど、天の国籍を持ち、神様に愛され、神様に取り分けられた者として、この世の基準ではなく、神様に従って生きている者なのです。
 ところで、先ほどのレビ記11章45節に、「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから」とありますね。
 ここには、私たちが聖なるものとされる目的が示されています。一つは、「わたしは、あなたがたの神となるため」、つまり、天地を造られた神様が私たちの神となってくださるためです。そして、もう一つは、神様が御自分を「あなたがたをエジプトの地から導き出した主」だと言っておられるように、神様が救いを与えてくださるお方だということを私たちが知り続けるためなのです。
 ですから、聖なるものとされるというのは、神様に対して「あなたは確かに私の神です」「あなたは私を救い出してくださる主です」と告白しつつ生きていくことなのですね。
 パウロは、ローマ8章31節ー32節で、このように書いています。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 この一週間も、いろいろなことがあるでしょうが、心を引き締め、身を慎み、将来の希望を見つめつつ、神様にすべてを委ね、毎日の生活の中で神様の救いのみわざを味わいながら、聖なるものとして歩ませていただきましょう。