城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年七月七日            関根弘興牧師
               第一ペテロ一章一七節〜二一節
ペテロの手紙連続説教6 
   「神にかかっている」

17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。(新改訳聖書)


 イエス様を信じて生きるというのは、新しいいのちを与えられ、神様との新しい関係をもって、新しい自由の中で歩んでいくことです。
 前回は、新しくされた私たちがどのように生きていけばいいのかということを学びました。心の帯を引き締め、神様から引き離そうとするいろいろなものに酔ってしまうことのないように目を覚まし、将来もたらされる恵みをひたすら待ち望みなさい、とペテロは教えていましたね。また、自分の判断に頼るのではなく、神様に全き信頼を置き、神様の言葉を判断基準として生きていくことが大切であるということも学びました。
 それから、ペテロは、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」と記していますが、「聖なるものとなる」というのは、自分の努力で神様の完全性に到達しなさいとか、道徳的に完全で良心の汚れの何一つない人になりなさいという意味ではありません。「聖なるもの」とは「区別されたもの」という意味があります。神様は聖なる方ですが、それは、神様がこの世からも、罪や汚れからも完全に区別されたお方であるという意味です。そして、私たちが「聖とされる」というのは、「神様の専用品として区別される」という意味です。私たちは、この世に生きていますが、神様のものとされているという意識を持って歩んでいこうと、ペテロは教えているわけです。
 さて、今日は、その続きで、新しくされた私たちの生き方について、さらにいくつかのことをペテロは教えています。

1 公平にさばかれる方を父と呼ぶ者として

 まず、17節にこう書いてありますね。「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」

(1)公平にさばかれる方

私たちの信じる神様は、公平にさばかれる方です。「公平」とは、「えこひいきがない」ということです。
 旧約聖書の第二歴代誌19章7節で、ヨシャパテという王様が、各地方で裁判官のような働きをする「さばきつかさ」たちを任命したとき、こう言いました。「今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。私たちの神、主には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」
 もし、神様が、不正があって、えこひいきがあって、わいろを取るような方なら、とても信頼することはできませんね。神様が公平な方であるからこそ、私たちは、心から信頼し、人生を委ねていくことができるのです。
 公平にさばくのが、どれほど大切なことかは、スポーツのことを考えたらすぐに理解できると思います。たとえば、サッカーの試合で審判が賄賂をとって不正やえこひいきをしたらどうでしょう。どんなに選手が頑張っても、その試合は最悪のものとなるでしょうね。反則をしても何の警告もせず、そのままやりたい放題にさせていたら、試合は成立しませんね。
 私たちは、人生というフィールドで生きています。その中で様々なことが起こります。反則や不正も争いも起こります。しかし、公平で正しい審判である神様がいてくださるので、安心して思い切りプレーしていくことができるわけです。

(2)恐れかしこんで過ごしなさい。

 審判が公平なジャッジをしてくれるなら、私たちは、その審判を敬い、審判の判断に従う必要がありますね。
 ヨシャパテ王は「今、主への恐れがあなたがたにあるように」と言いましたし、ペテロも、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい」と教えています。ここで言われている「恐れる」とは、「怖がる」という意味ではありません。「畏れ敬う」ということです。 神様は公平にさばかれる方ですから、私たちは、その神様のことばを尊重し、ルール違反にならないように注意していくことが大切なのです。時には、納得できずに抗議することがあるかもしれません。詩篇の作者のように、「なぜ、こんなことが起こるのですか」「なぜ、不正が見逃されているのですか」と神様に訴えることもあるでしょう。公平な神様は、その訴えを聞いてくださり、正しい判断をしてくださいます。ですから、神様を畏れ敬いながら、安心して思い切り与えられた人生を歩んでいきましょう。

2 贖いだされた者として

それから、18節ー19節には、こう書かれています。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

(1)贖い出された

「贖い」とは、聖書を理解する大切なキーワードの一つです。奴隷たちを「身代金を払って釈放する」「身請けする」「買い戻す」という意味があります。
 ですから、「贖い」は、銀や金によって行われると考えるのが普通でした。たとえば、ギリシャのアポロ神殿の中にこのように記されている碑文があるそうです。「女奴隷の身代金は三ミナ半である。」一ミナは百デナリに相当するので、三ミナ半は三百五十デナリです。一デナリは一日分の労賃ですから、つまり、女奴隷の身代金は約一年分の労賃と同じということになりますね。つまり、奴隷の状態から贖われるためには、多額のお金が必要だったということです。
 
(2)先祖伝来のむなしい生き方から

 この手紙の宛先の人たちは、奴隷だったわけではありません。しかし、奴隷と同じように不自由で束縛された状態だったので贖い出される必要がありました。では、どのような状態から贖い出されたのでしょう。ペテロは、「父祖伝来のむなしい生き方から」と書いていますね。父祖伝来というのですから、人間は、歴史が始まって以来ずっとむなしい生き方を続けてきたのだ、とペテロは言っているわけです。それは、まことの神様を知らずに生きてきたということです。そのために、自分の存在の意味や生きる目標を見失い、むなしい生き方になってしまっているということなのですね。ここで言われている「むなしさ」とは、人間の歴史を覆う黒雲のようなものですね。人は、どのようにしてむなしさを取り除いていくのか、これが一人一人にとっての大切な問いですね。
 しばらく前に、ラジオ番組の「世の光」にお便り届きました。「朝、朝食作る。おいしいでもなければ、ありがとうでもない。夜夕食を作る。おいしいでもなければ、ありがとうでもない、ああむなしい」という内容でした。読んでるほうもむなしくなりますね。
 「私は何のために生きているか」「どこから来て、どこへ向かうのか」「私には愛される価値があるのだろうか」と、私たちには絶えずむなしさが襲ってくるのですね。
 
(3)キリストの尊い血によって

そのようなむなしい生き方から贖い出すことができるのは、銀や金ではありません。ペテロは、「銀や金のような朽ちるものにはよらず」と書いていますね。銀や金は大切なものですが、人間がずっと昔から抱えてきた「むなしさ」から解放されるためには、何の役にも立たないというわけです。
 では、何によってむなしい生き方から贖い出されることが出来るのでしょうか。ペテロは、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです」と書いていますね。本当の救い、解放、自由は、キリストの尊い血によるのだというのです。
 「血による贖い」というのは、旧約聖書を読むと理解することが出来ます。
 旧約の時代は、人間が犯した罪を贖うために動物のいけにえが捧げられていました。その動物は、人の身代わりとして捧げられたのです。そして、その動物の血によって、罪のきよめがおこなわれました。しかし、動物のいけにえは不完全なものですから、繰り返し何千何万もの動物が捧げられても、完全な贖いを成し遂げることはできなかったのです。
 そこで、神様は、救い主イエスを遣わしてくださいました。そのイエス様が、私たちの身代わりとして、動物ではなく、御自身を捧げてくださいました。イエス様は、神様と同じ本質を持った方であり、罪も汚れもないきよい方です。そのイエス様が御自身を完全ないけにえとささげてくださいました。完全ないけにえですから、繰り返し捧げる必要はありません。そして、その血は、すべての人を完全に贖い出すことができるものなのです。
 イエス様は、マルコ10章45節こう言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」罪も汚れもないイエス様御自身が私たちのために「贖いの代価」となってくださったのです。
 パウロは、ローマ3章23節ー24節でこう記しています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」また、ガラテヤ3章13節では、こう書いています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」
 神様の律法を守ることができず、滅びに向かっている私たちのためにイエス様が御自身をささげて贖ってくださいました。それによって、私たちは罪と死から解放され、神のみ前で義とされ、罪のないものとされ、神様との親しい関係に入り、神の子としての身分が保証され、神の民としての本当の自由の中で生きることができるようになったのです。別の言葉で言うなら、完全な救いの中に歩むことが出来るようなったのです。それは、先祖伝来のむなしい生き方から解放されたということです。
 では、イエス様の贖いによって、私たちは、むなしい生き方から解放されて、どのような状態になるのでしょうか。

@愛され赦されていることを知る

 父なる神様は、私たちを愛するがゆえに、私たちを深くあわれみ、愛する御子を十字架にかけることまでして贖い出してくださいました。そのイエス様の十字架を通して、私たちは、神様に愛され、赦されていることを知ることができるのです。
 ある人が、「主イエス様が流された血は、神の心の血であり、神の心の涙なのだ」と言いました。
 クリスチャン・シンガーの岩渕まことさんが作った「父の涙」という曲があります。

    「父の涙」
 心にせまる父の悲しみ
 愛するひとり子を十字架につけた
 人の罪は燃える火のよう
 愛を知らずに今日も過ぎて行く
   ※十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
    十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

 消して揺らぐことのない愛と赦しの中に生かされていることを知れば、もはやむなしい生き方を続けることはなくなりますね。

A自分自身の価値を見いだすから

イエス様の十字架を通して、私たちは、自分がイエス様がいのちを捨ててくださるほどに価値ある存在だということを知ります。
 神様は、イザヤ43章4節でこう語りかけてくださっています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
 神様が私を価値あるものとして見ていてくださると知ると、勇気が湧いてきます。自分自身を大切にするようになります。そして、神様の愛に応えて、生きていこうという思いを持つようになるのです。
 ヨハネは、第一ヨハネ4章11節でこう記しています。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」一人一人が価値のある存在であることを認めることによって、私たちは互いの存在も認め合い、愛し合っていくことができるようになるのですね。その時、むなしさは消え去っていきます。

B生きる目的を知るから

 イエス様の十字架の血によって贖われた者は、神の栄光ために生きるようになります。
 パウロは、第一コリント6章20節でこう書いています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」ここで言われている「買い取られた」は、「贖われた」という意味です。イエス様という代価を払って神様に買い取られた私たちは、神様ののものとなり、神様の栄光を現すことのできる者にされたのです。なんと名誉なことでしょう。
 ただ、誤解しないでください。「神の栄光を現す」とは、立派なことを行うとか、功績を立てるとか、何か特別なことをすることではありません。
 パウロは、第一コリント10章31節では、このように記しています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」
 私たちは、日常生活のすべての中で神の栄光を現す者とされています。食べたり飲んだりすることは、誰も毎日行っていることですね。そんな些細な一つ一つの中にも神様の栄光のために生かされているという自負を持とうではありませんか。健康な時もあるし、病の中で苦しむ時もあります。しかし、苦しみや悲しみの中でも、正直に主に呼び求めながら、なお、主の栄光のために生かされていることを信じて進んでいきましょう。
 気負う必要はありません。毎日の中に主の支えと守りを信じ、歩んでいくときに、神様が栄光を現してくださるのです。

3 キリストをよみがえらせた神を信じる者として

 さて、ペテロは、21節で「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです」と記していますね。
 キリストは、私たちを贖うために十字架にかかって死なれましたが、神様は、そのキリストをよみがえらせ、すべてのものを支配する王としての栄光をお与えになりました。私たちは、その神様を信じているのです。何と力強いことでしょう。
 パウロは、ローマ10章9節でこう記しています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
 イエス様は死を打ち破ってよみがえられました。私たちは、イエス様を死者の中からよみがえらせることのできる神様を信じているのです。
 そして、第一コリント6章14節で、パウロは「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます」と言っています。
 神様は、私たちをもよみがえらせてくださいます。困難があります。苦しみもあるでしょう。死も襲います。この世に合っては艱難がたくさんあります。しかし、私たちは、よみがえらえせてくださる神様を信じているのです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」とイエス様が言われたとおり、私たちは、死んでも生きることのできる力強いいのちによって生かされているのです。
 そして、ペテロは、「あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです」と書いていますね。
 もし「あなたがたの信仰と希望は牧師にかかっている」と書かれていたら、私は逃げ出してしまうでしょうね。また、「信仰と希望はあなたの頑張りにかかっている」と書かれていたら、とても無理だと思ってしまいますね。
 しかし、感謝なことに、私たちの信仰と希望を支えているのは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた生ける神様なのです。神様が保証してくださっているのですから、決して揺らぐことのない永遠に確実な信仰と希望を私たちは与えられているのですね。
讃美歌二八〇番に「わが身ののぞみは ただ主にかかれり」とあるとおりです。
 この讃美歌にあるように、「私の信仰と希望は、神様にかかっている」と告白しながら、今週も歩んでいきましょう。