城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年七月二一日            関根弘興牧師
               第一ペテロ一章二二節〜二五節
ペテロの手紙連続説教7 
   「福音のことば」

22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。(新改訳聖書)


 前回の箇所では、イエス様を信じて生きるとは、新しいいのちが与えられ、神様との新しい関係をもって、新しい自由の中で歩んでいくことだということを学びました。また、ペテロは、私たちはイエス様の尊い血によって贖われたのだと記していましたね。「贖い」とは、奴隷たちを「身代金を払って釈放する」「身請けする」「買い戻す」という意味があります。私たちは、「父祖伝来のむなしい生き方から」、つまり、神様を知らず、自分の存在の価値や生きる意味を見いだすことのできないむなしい生き方から贖い出されたのです。そして、イエス様が私たちのためにいのちを捨ててくださるほど、神様が私たちを愛し、価値ある者として見ていてくださっているということを知りました。私たちは、神様の専用品として、何をするにも神様の栄光を現しながら生きていく者とされたのです。また、私たちの信仰と希望は神にかかっている、とペテロは記していましたね。神様は、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられました。死を打ち破り、永遠のいのちを与えることのできる神様が私たちの信仰と希望を保証してくださっているのです。ですから、何があっても安心して生きていこうではありませんか。
 さて、今日の箇所は、その続きです。
 
1 真理に従う

 まず、ペテロは、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と記していますね。

(1)真理とは

 「真理」とは、何でしょうか。辞書を引くと「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。不変なるもの」と書かれていました。「真理」は正しく不変なるものです。時や場合によって変わってしまうようなら真理とは言えませんね。
 では、ペテロがここで言っている真理とは、何でしょうか。聖書は、真理についてどのように教えているでしょうか。

@神様ご自身

 この「真理」と訳されている言葉は、聖書の他の箇所では、「真実」とか「まこと」とも訳されています。
 詩篇では、神様について、この言葉がよく使われています。 「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。」(詩篇57篇10節)
 「その恵みは私たちに大きく、主のまことはとこしえに。ハレルヤ。」(詩篇117篇2節)
 「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(詩篇25篇5節)
 神様こそ真理に満ちておられる方、真理そのものなる方だと聖書は教えているのです。ですから、旧約聖書をよく知っている人が「真理に従いなさい」と言われたら、「天地を創造された神様ご自身に聞き従いなさいということだ」と理解したのです。

Aイエス様ご自身

 また、新約聖書では、ヨハネ14章6節で、イエス様ご自身が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言っておられます。いつもイエス様と共にいたヨハネは、ヨハネの福音書1章14節で「この方は恵みとまことに満ちておられた」と記していますし、旧約聖書を熟知していたパウロは、エペソ4章21節で「まさしく真理はイエスにあるのです」と記しています。
 神の御子であるイエス様は、父なる神と同じく真理そのものの方なのです。

B聖霊

 また、イエス様は、聖霊について、次のように言っておられます。
 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15章26節)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16章13節)
聖霊は、真理の御霊であり、私たちをすべての真理に導き入れてくださるというのですね。
 
つまり、聖書の「真理に従いなさい」という教えは、「父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三位一体の神様に従いなさい」ということなのですね。
 真理なる方は決して変わることがありません。ヤコブ1章17節には「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」とあります。また。ヘブル13章8節には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」とはっきりと記されています。
 ペテロが「真理に従う」と言ったのは、決して移り変わることのない真理そのものなる三位一体の神様に従うということです。この神様に従って生きさえすれば、私たちは、何があっても安心して歩み続けることができるのです。

(2)従うとは

 では、「従う」とは、どういうことでしょうか。
 「従う」とは「服従」「従順」という意味ですが、盲目的に何も考えずに服従するということではありません。
 神様は、私たちに自由意志を与えてくださいました。私たちには、神様に従う自由も、従わない自由もあるのです。
 たとえば、神様が扉をたたく音を聞いて、「はい、いま開けます。どうぞお入りください」と応じるか、それとも無視して扉を閉じたままにしておくかは、私たちが決めることなのです。 神様は、いつも「わたしに従って来なさい。あなたがたをいのちの道に導こう」と呼びかけてくださっています。その呼びかけに応答して生きていくこと、それが聖書の教える「従う」ということです。
 「真理に従う」とは、聖書を通して語られる神様のことばに応答して生きていくことなのですね。
 そういう従順な生き方の模範を示してくださった方がいます。それは、イエス様御自身です。
 ピリピ2章6節-8節には、こうあります。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
 また、ローマ5章19節には、こう書かれています。「すなわち、ちょうどひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(イエス様)の従順によって多くの人が義人とされるのです。」
 初めの人アダムが神様のことばに従わなかったために、神様と人との麗しい関係が断たれ、神様のみこころとかけ離れた生活をするようになってしまったと聖書は教えます。「罪人」とは、「的外れの生き方」をしている人という意味です。神様に従わないために、真理がわからなくなり、真実の愛や本当の価値や生きる目標を見失い、虚しいものに頼り、欲望のままに自分勝手な生き方を続け、その結果、様々な混乱、争い、苦しみ、悩みの中で生きている状態なのです。その意味では、私たちも、自分を見れば、確かに罪人だなと思いますね。
 しかし、私たちをそんな状態から救い出すために 神様は、御子イエスを私たちと同じ人として送ってくださいました。
 イエス様は、身をもって神様に従う模範を示してくださいました。神様の御計画に従い、私たちの代わりに罪の罰を受けるために十字架の死にまでも従ってくださったのです。
 このイエス様の従順こそが、私たちに救いをもたらすことになったのです。
 ローマ10章17節で、パウロはこう言っています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」私たちの代わりにイエス・キリストが十字架にかかってくださったので、私たちの罪はすべて赦されました。また、イエス・キリストは、死からよみがえり、今も生きておられるので、私たちを永遠のいのちを持って生かし、いつも私たちと共にいて導いてくださいます。
 その救い主イエスについてのみことばを聞き、応答することから信仰生活は始まるのです。
 このイエス様を救い主として信じ受け入れることによって新しく生まれ、罪赦された義人として神様との関係を回復し、イエス様の姿を模範として神様のみことばに従って生きていく、それが「真理に従う」ことなのですね。

(3)真理に従う結果

 さて、真理に従うことによって、私たちはどのように変えられるのでしょうか。ペテロは、今日の箇所で、二つのことを言っていますね。

@たましいを清める

ペテロは、ここで「たましい」という言葉を使っていますね。人が何かを語り行動するとき、その背後には必ず、その人の考え方や方向性があります。たとえば、「私は神様の助けは要らない」と言う言葉の背後には、「私は神様に頼るような弱い存在ではない」という考え方があるわけです。あるいは、「自分の人生は自分でコントロールしなければならない」と無意識に思っているのかも知れません。どんな人の主張や行動にも、その背後には、その人特有の考え方、方向性があるんです。そのように人を動かす力、思索とか考え方、方向性、そういう人間の奥底にあるものを、「たましい」とか「霊」と言うことがあります。
 ペテロがここで言っている「たましい」もそのような意味でしょう。真理に聞き従うことによって、一人一人の心の奥深くにあった思考や考え方や方向性が清められていくのだというのです。
 そして、「清める」とは、「聖なるものとする」という意味で、いつもお話していますように、「神様の専用品とされていく」ということです。
 ですから、「たましいを清める」とは、「私は神様の専用品なのだから、それにふさわしく生きていきたい」「神様にすべてをおまかせしよう」「神様のみこころにそって生きていこう」という思いを心の奥深くに持つようになり、それに基づいて語り、行動するようになっていくということなのです。
 つまり、「たましいを清める」とは、以前とは違う価値観を持つようになるということです。神様のことを思い、神様のみこころを求め、神様のものとしてどう生きていくのかを考えながら歩んでいく者となっていくのです。

A愛に生きる

それから、ペテロは、真理に従うことによって、「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と記していますね。
 「偽り」とは、「演技する」「仮面をかぶる」という意味です。真理に聞き従うなら、表面的に愛するふりをするのではなく、心から愛するようになるというのです。
 また、ペテロはわざわざ「兄弟愛」という言葉を使っていますが、「兄弟」とは、お互いに父なる神の子ともとされ、兄弟姉妹となった人々の間の愛ということです。つまり、神の家族である教会の中で見いだされる愛ということですね。
 ところで、「愛」と言う言葉を聞いて、不安や罪悪感を感じる方もいるのではないでしょうか。「私は愛が足りません」「私は愛することができません」と言う方がよくいます。それは、「私はどうしてもあの人を好きになれない」とか、「私はあの人の言動や価値観が受け入れられない」というような意味で言っていることが多いのではないでしょうか。
 しかし、聖書の教えている「愛」とは、単なる感情ではありません。また、納得できないのに無理に受け入れることでもないのです。
 イエス様は、ヨハネ13章34節で「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。ここで、イエス様が「愛しなさい」とお命じになっているのは、「愛する」ことは、意志を持って行うことだからです。私たちにとって大切なのは、イエス様の真理のことばに従って、「意志的に」愛そうとしていくことなのです。
 イエス様は、マタイ5章44節で、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。
 「敵」というのは、自分と意見や立場の違う人、自分を批判する人などのことです。そういう人は、兄弟姉妹の中にもいますね。そういう相手を好きになるのは難しいですね。なかなか赦せないこともあります。それで、葛藤してしまうのですね。
 しかし、それでも、あえて意志をもって愛の行動を起こすことはできます。相手の最善を願って、神様の祝福を祈ることができますし、相手に必要なものを与えたり、笑顔で挨拶することもできるでしょう。それは、「偽りの愛」ではなく、相手を愛そうとする意志から出ているのです。時には、互いに理解し合うために率直な話し合いの場を設けることや、相手を戒めることが必要な場合もあるでしょう。
 パウロとバルナバは、共に伝道旅行をした親しい仲間同士でしたが、あることについて激しい反目となり、互いに別行動をとるようになったことがありました。意見が違ったのです。しかし、その後もお互いを尊重し合っていました。兄弟愛とは、いつも波風立たせず仲良く過ごすということではないのです。
 聖書は、「互いに愛し合いなさい」「互いに赦し合いなさい」と繰り返し命じています。それは、私たちがなかなか愛したり赦したりできない者だからですね。でも、その聖書の真理に従って、意志的に愛そう、赦そうとしていくとき、神様は、私たちに愛し、赦すことのできる力を与えてくださいます。そもそも、愛そう、赦そうと思えるのは、私たちの内側が新しく変えられたからです。神様が私たちを新しく造り変え、愛せる者へと成長させてくださっているのです。ですから、その神様を信頼し、意志をもって、愛に生きていこうとするなら、必ずそれは実現するのです。感情は後からついてきます。
オランダ人のコーリー・テン・ブームは、第二次世界大戦中にユダヤ人を自宅にかくまった罪でナチスの収容所に入れられ、厳しい生活を送りましたが、戦後、各地を回って神の愛と赦しを宣べ伝えていました。ある講演会が終わったとき、笑顔で握手を求めてきた男性がいました。それは、自分を苦しめた収容所の看守だったのです。相手は気づいていませんでしたが、コーリーは激しい怒りに圧倒されました。しかし、「イエス様、私はこの人を赦すことができません。どうか、あなたの赦しを私に与えてください」と祈りつつ、やっとのことで相手の手を握り返したとき、内側から愛があふれてきて、電流のように相手にも伝わっていくように感じたそうです。コーリーはこう記しています。「主が私たちに『敵を愛せよ』と言われる時、その命令に添えて、愛そのものをも与えてくださるのです。」
 私たちが真理に従って愛そうと一歩踏み出すとき、神様が愛を満たしてくださいます。そして、私たち兄弟姉妹が互いに愛し合うことによって、神様の愛がすべての人に示されていくことになるのです。
 ヨハネ13章35節でイエス様がこう言っておられるようにです。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 「偽りのない兄弟愛」こそ私たちが真理に従っていることの証明になるのですね。

2 福音のことば

 それから、ペテロは、23節からこう書いていますね。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」
 私たちは、朽ちない種から新しく生まれました。その「朽ちない種」とは、「神のことば」です。
そして、ペテロは、イザヤ40章6節-8節の有名な言葉を引用しています。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
 人は弱くもろい存在です。人間の作りだした栄光も、はかないなくもろいものです。
 しかし、私たちは、朽ちない種から生まれました。自分の頑張りや努力や知恵や知識によるのではなく、決して朽ちることのない種である神のことばによって生まれたのです。
 ミカンの種を蒔けば、ミカンがなります。リンゴの種を蒔けばリンゴが実ります。朽ちることのない神のことばが蒔かれれば、朽ちることのない実が実るのです。どんな実でしょうか。パウロは、第一コリント13章13節で、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と言いました。また、ガラテヤ5章22節ー23節では「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いています。
 ただし、種を蒔いてすぐに実がなる訳ではありませんね。時間がかかります。栄養や配慮や保護が必要です。それは私たちも同じです。大切なのは、福音の種がすでに蒔かれているという事実です。そして、成長させてくださるのは神様ご自身です。前回お話しましたように、私たちの信仰と希望は、いつも神様にかかっているのです。私たち、栄光から栄光へと変えられていき、花を咲かせ、豊かな実を実らせていきます。一人一人がそれぞれの実を実らせていただくのです。
 ペテロは、これが福音のことばだと言っていますね。それは、真実のことば、愛のことば、慰めのことば、恵みのことばです。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでるひとつひとつのことばによる」とお語りになりました。私たちも、この福音の言葉に生かされながら、今週も真理に従う者として歩んでいきましょう。