城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年七月二八日            関根弘興牧師
                 第一ペテロ二章一節〜三節
ペテロの手紙連続説教8 
   「いつくしみ深い方」

 1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。(新改訳聖書)

 前回の箇所で、ペテロは、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と記していました。
 「真理」とは、三位一体なる神様ご自身のことであり、「真理に従う」従うとは、聖書を通して語りかけられる神様の言葉に応答していくことです。そして、真理である神様に聞き従うとき、私たちのたましいは清められていきます。それは、私たちの言葉や行動のもととなっている心の奥底の考え方や方向性や価値観が変えられていくということなのですね。また、神様に愛されていることを知ることによって、偽りのない愛を抱くことができる者へと変えられていくのです。
 そして、ペテロは、「あなたがたは、朽ちない種によって新しく生まれたのだ」と書いています。朽ちない種とは、神のことばです。私たちは、草や花のようにもろい存在です。私たちが自分の熱意や努力で作り出す栄光もはかないものです。しかし、私たちは、イエス・キリストを信じれば救われるという神のことばを信じた時、朽ちない種によって新しく生まれたというのです。今は、朽ちることのないいのちによって、新しく生かされているので、内側から成長し、朽ちることのない実を実らせていくことができるようになったのですね。
 さて、今日の箇所では、ペテロは、新しく生まれた者がどのように成長していくのかということについて記しています。

1 脱ぎ捨てるもの

 まず、1節に「あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と書かれていますね。
 この「捨てて」と訳されている言葉は、「脱ぎ捨てる」という意味で、「裸になる」ということなんですね。生まれたばかりの赤ちゃんは、裸で生まれてきますね。ペテロは、ここで、「朽ちない種である神のことばから生まれた赤ちゃんのように裸になりなさい」と言っているわけです。
 私たちは、新しく生まれた者なのに、以前の古い価値観や考え方や感情を身につけたままでいることがあるのですね。しかし、それは、新しく生まれた者にふさわしくないから、脱ぎ捨ててしまいなさい、とペテロは言っているのです。ペテロがここで「悪意」「ごまかし」「偽善」「ねたみ」「悪口」を挙げていますが、それらをすべて脱ぎ捨ててしまいなさい、というのです。これらのリストを見ると、ひとつひとつが自分を正当化するために装う武器のようなものです。

@悪意

 私たちは、だれでも不正や不条理な出来事に遭遇すると、その相手に対して悪い感情を抱きますね。それは、とても自然のことです。イエス様も、神様のみこころに反する人々に対して激しく怒られたことがありました。それは、ペテロがここで言っている「悪意」とは違います。
 ペテロの言う「悪意」とは、相手に害が及ぶことを願ったり、相手に良くない結果がもたらされることを望んだり、そうなるように行動しようとする思いを指しています。自分を傷つける人に対して、そのような思いを持ってしまうことはありますね。しかし、その思いに支配されてしまうのではなく、意志をもって脱ぎ捨てなさい、とペテロは教えているのです。

Aごまかし

 この「ごまかし」という言葉は、「だます」とか「あざむく」という意味にも使われます。自分自身のことを考えてみてください。実際は、弱い存在なのに、強そうに見せたがることがありますね。本当は、不安なのに、平静を装うこともあるでしょう。実は、罪意識があるのに、必死に自己正当化しようとすることもありますね。自分のそのままの姿を見られたくないので、何とかしてごまかそうとしてしまうのです。それは、他の人や神様に対してだけではありません。自分自身に対してもごまかし、自分をあざむいているということがありますね。
 しかし、神様は、私たちのありのままの姿をすべてご存じです。その上で愛してくださっています。また、神様は私たちが自分で隠したくなるような内側の汚れた部分にも光を当ててきよめてくださいます。ですから、まず神様の前で、ごまかさずに正直にありのままの自分を出していくことが大切なのです。
 エペソ5章13節ー14節にこう書かれています。「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」
 私たちがありのままの自分を神様の前に出すときに、神様は、それを光に変えてくださるのです。

B偽善

 「偽善」という言葉は、「仮面をかぶる」「演技をする」という言葉から生まれました。
 「ごまかし」と似ていますね。「ごまかし」は、自分の内側にあるものを隠そうとすることですが、「偽善」は、外側を良く見せようと取り繕うことです。この二つはとてもにていることですね。
 私たちは、外見を取り繕うとする傾向がありますね。しかし、ペテロは、いつも誠実で正直でいなさい、と伝えたいのです。私たちのクリスチャンライフは、嘘くささがあってはいけないのです。立派な信仰者であるかのように見せかける必要はありません。人に見せるために奉仕する必要もありません。人の評価に関係なく、自分が心から進んでできることをすればいいのです。苦しいときは、「苦しいです。できません。助けてください」と言えばいいではありませんか。辛いときには、「主よ、どうしてこんなことが起こるのですから」と訴えればいいではありませんか。
 第一サムエル16章7節に「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。心を見られる主の前で、正直に誠実にありのままの姿で歩んでいきましょう。

Cねたみ

 私たちは、すぐにねたみを感じてしまいますね。教会の中でもねたみは生まれてきます。
 ねたみは、相手の祝福や成功を喜べません。また相手が自分より優れていることを知れば知るほど、耐えられなくなってしまうのです。人をねたんでいると、自分自身も決して平安を得ることができません。また、ねたみは、悪意を生み出し、相手を傷つける方向へと向かわせることになるのです。
 旧約聖書のサムエル記に書かれていることですが、イスラエルの初代の王様は、サウルでした。その当時、ペリシテ人がイスラエルに戦いを仕掛けてきました。両軍の陣営が対峙しているとき、ペリシテの陣営から巨人の戦士ゴリアテが出て来て、一対一の勝負を挑んできました。しかし、イスラエルの兵は、ゴリアテを恐れ、戦意喪失状態になっていたのです。そこに登場したのが羊飼いであったダビデでした。ダビデは、このゴリアテと一騎打ちすることを自ら願い出ました。そして、いつも使っている石投げ器で石を投げ、ゴリヤテの眉間に命中させ、その一撃で見事にゴリヤテを倒してしまったのです。ダビデは一躍ヒーローになりました。そして、女性たちは黄色い声でこう叫んだのです。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」これは、この国にダビデとサウルがいれば安心だという意味にとることのできる歌ですが、サウルはこの歌を聞いて激怒しました。サウルは、ダビデの勝利を喜ぶどころか、ダビデに対して激しいねたみを持つようになりました。そして、ダビデが自分の王位を狙っているのではないかと疑い、何度もダビデを殺そうとしたのです。
 サウルは、なぜこれほどのねたみを持ったのでしょうか。サウルは、以前、神様の命令に従わずに叱責されたことがありました。素直に謝らずに自己弁護と自己正当化しかしませんでした。その結果、心の奥底に罪責感や、自分は神様に愛されていないという不安や不信感を抱いていたのではないでしょうか。だから、ダビデが祝福されているのを見て喜ぶことができなかったのです。
 私たちは、まず、自分が神様に愛され、赦されていること、神様が最善の道へと最終的に導き、必要なものを備えてくださっていること覚えることが大切です。そのことをうなずくことが出来ると、他の人と比較してねたんだり、ひがんだりすることがつまらないことだとわかってくるのですね。
 ねたみほど、非生産的なことはありません。教会は競い合う場所でも、比べ合う場所でもありません。それぞれが神様に充分に愛され、それぞれにふさわしい場や役割を与えられているのですから、お互いの存在を喜びあう群れでいたいですね。

D悪口

 私たちは完全ではないので、誰でも言葉で失敗するものです。ヤコブは、3章2節でこう書いています。「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」
 もしかしたら、ペテロも、自分が悪口で失敗した経験を反省し、祈りを込めて「すべての悪口を捨てなさい」と書いているかもしれませんね。
 悪口は、普通は、相手に面と向かっていうのではなく、蔭で言いますね。だから、陰口ともいいます。本当は、もし何か気になることがあったら、直接相手に正直に率直に話すほうがいいですね。もしそれができないなら、黙って神様におゆだねするほうがいいでしょう。相手がいないところで悪口を言うことは、教会の親しい交わりを破壊していくことになるからです。悪口は、悪口を言われる人だけでなく、悪口を言う自分自身も、悪口を聞かされる人々も害していくのです。

 さて、ペテロが捨てるべきこととしてあげた悪意、ごまかし、偽り、ねたみ、悪口は、クリスチャンになってからも捨てるのが難しいものですね。自分を守りたい、自分を正当化したいという無意識の思いから、ついそういうものに陥ってしまうのです。しかし、ペテロは、それらのものを捨てなさい、と言っています。もし自分の悪意やごまかしや偽りやねたみや悪口に気づいたら、意志を持って捨てていく必要があるというのですね。
 そういうものを捨てても、私たちは、丸裸で無防備の状態になってしまうわけではありません。パウロは、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着なさい」と教えています。私たちは、古い汚れた衣を脱ぎ捨てて、主イエス・キリストを着るのです。キリストのように、悪意ではなく善意を、ごまかしではなく誠実を、偽りではなく真実を、ねたみではなく敬意を、悪口ではなく励ましや慰めの言葉を身につけていくのです。それが、朽ちない種によって新しく生まれた者にふさわしい衣なのですね。
 まず、ありのままの自分を正直に出しましょう。神様がキリストの衣を着せてくださるのですから。

2 みことばの乳

 さて、次にペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」と言っています。  「純粋な、みことばの乳」と訳されている言葉は、直訳では、「混じりけのない理にかなった乳」という意味です。「理にかなった」という言葉は、ローマ12章1節では「霊的な」と訳されています。つまり、神様の霊によって与えられたみことばこそ、最も理にかなったものであり、私たちを生かし成長させていくものなのだということなのですね。
 赤ちゃんが飲むお乳には、赤ちゃんの成長に必要な栄養がすべて含まれていますね。神様のことばには、私たちの成長に必要なものがすべて含まれているのです。
 そして、ペテロは、ここでわざわざ「純粋な」「混じりけのない」という言う言葉を使っています。神様のことばは、ごまかしもあざむきもない、徹底的に誠実であり真実であることばであるということです。だからこそ、私たちかを生かし、養う力があるのです。だから、私たちは、みことばを慕い求めていくのですね。そして、食事は食いだめができませんね。ですから、継続が必要なのです。こうして礼拝を通して、自分で聖書を読むひとときを通して、継続的に純粋な理にかなった神様のことばをいただくでのす。
 ところで、 ペテロは、「それによって成長し、救いを得るためです」と記していますね。「成長し」というのはわかりますが、「救いを得るため」というのはどういうことでしょうか。私たちは、イエス様を信じた時に、もう救いを得たのではないのでしょうか。
 もちろん、私たちは、イエス様を信じ受け入れたときに永遠の救いが与えられました。ですから、すでに救いを得ているのです。
 ペテロがここで言っているのは、みことばの乳を慕い求めていくとき、自分に与えられた救いが揺るがない確信となり、永遠の救いに生かされていることをより深く理解し、神様の恵みの中に生かされていることをより深く知るようになる、という意味なのです。
 新約聖書では、「救い」の三つの状態について説明がされています。

@「あなたは救われた」

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2章8節)
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(第一ペテロ1章8ー9節)
 私たちは、イエス様を信じ受け入れたとき、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、救われました。前回お話ししたとおり、朽ちない種から生まれたのです。このことを「新生」といいます。

A「あなたは救われ続けている」

 この手紙の1章15節に、こう書いてありましたね。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」聖なるものとされるとは、神様の専用品とされるということです。私たちは、この世から神様の専用品として取り出され、生かされています。救いの恵みの中に守られ生かされていくのです。様々な誘惑や試練があっても、救われ続けて歩んでいきます。そして、神様の専用品としてふさわしい者へと成長していくのです。これを「聖化」といます。

B「あなたは救われるだろう」

 第二コリント3章18節には、こう書かれています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 私たちは、最終的に主と同じ栄光の姿に変えられると約束されています。これを「栄化」と呼びます。

 私たちは、新しく生まれ、恵みの中を歩み、栄光の姿に変えられていきます。これがクリスチャンの生涯です。そして、その目的のために最も理にかなっているのが、神様のみことばなのです。

3 いつくしみ深い方

そして、ペテロは、「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」と書いていますね。これは、詩篇34篇8節の引用です。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」口語訳聖書では、「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである」と訳されています。
 みことばの乳をいただきながら生きることは、主がいつくしみと恵みに満ちた方であることを味わい知りつつ生きることなのですね。
 詩篇34篇は、ダビデが、サウル王に命を狙われ逃亡生活を送っている最中、気が狂ったふりをして危うく難を逃れたときに作られた詩です。順風満帆な時でなく、自分には何の落ち度もないのに命を狙われるという理不尽な出来事のまっただ中で、ダビデは「主の恵みふかきことを味わい知れ」と書いたのです。ということは、私たちも、人生のどのようなときにも、主の恵みふかさを味わい知ることができるということですね。だからこそ、目先の出来事や状況に左右されることなく、いつも理にかなった純粋な恵みのみことばに養われていくことが大切なのです。
 旧約聖書のアモス書8章11節-12節に、こう書かれています。「見よ。その日が来る。・・・神である主の御告げ・・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」
 人間は、時々高慢になり、「神の声など聞こえるはずがない。神が語りかけることなどなにひとつない。神などいない」と言い出すことがあります。しかし、神様のことばは、いつも与えられています。聖書を通していつも語られているのです。問題は、人間の側でそのことばを聞こうとも受けようともしないことです。それは、みことばを聞くことの飢饉です。飢饉は、人々を飢えさせてしまいます。養いを奪ってしまうのです。
 私たちは、豊かなみことばが与えられていることを感謝し、礼拝の中で、また、日常生活の中で、みことばの乳を慕い求めていきましょう。そして、今週も主の恵みの広さ深さを味わい知ることができますように。