城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年八月四日             関根弘興牧師
                 第一ペテロ二章四節〜八節
ペテロの手紙連続説教9 
   「尊い、生ける石」

 4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、8 「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(新改訳聖書)


 前回の箇所で、ペテロは、「あなたがたは、朽ちない種によって新しく生まれたのだ」だ記しています。だから、新しく生まれた者にふさわしい生き方をしていきなさいというのです。 私たちが生きていくためには、衣食住が必要ですね。
 前回の箇所では、ペテロは「衣」と「食」について記していました。
 まず、「衣」については、「悪意」「ごまかし」「偽善」「ねたみ」「悪口」を脱ぎ捨てて、生まればかりの赤ちゃんのようになりなさいと言っています。しかし、丸裸で無防備の状態になってしまうわけではありません。なぜなら、私たちが新しく身につけるものがあるからです。ローマ13章14節でパウロが「主イエス・キリストを着なさい」と言っているように、私たちは、古い衣を脱ぎ捨てて、主イエス・キリストを着るのです。悪意ではなく善意を、ごまかしではなく誠実を、偽りではなく真実を、ねたみではなく敬意を、悪口ではなく励ましや慰めの言葉を身につけていくものとされているのです。それこそ、朽ちない種によって新しく生まれた者にふさわしい衣です。
 それから、「食」についてですが、ペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」と記していましたね。「純粋な、みことばの乳」こそ、私たちの食物です。この言葉は、直訳では「混じりけのない理にかなった乳」という意味です。つまり、神のみことばこそ、最も理にかなったものであり、私たちを生かし育むための栄養をすべて含んでいるものだ、というわけです。その混じりけのないみことばの乳は、どんな味でしょう。詩篇34篇8節に「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである」とあるとおり、みことばの中に、私たちは、主の恵みふかさを味わうことができるのです。
 前回は、衣食住のうちの「衣」「食」について学びました。今日の箇所では、こんどは「住」がテーマになっています。詳しく見ていきましょう。

1 尊い、生ける石


 今日の箇所で、ペテロは、主イエス・キリストが「選ばれた、尊い、生ける石」であり、霊の家を建て上げるための礎の石である」と説明していますね。「霊の家」とは、キリストを信じる私たち一人一人であり、また、キリストを信じる人々の集まりである教会のことです。キリストこそ、その礎石だというのですね。この礎石について、ペテロは、どのようなことを言っているでしょうか。

(1)人に捨てられた石

 まず、ペテロは、4節で「人には捨てられた」、また、7節では「家を建てる者たちが捨てた石」と言っていますね。人々は、「この石は何の役にも立たない」と思ったというのですね。家を建てる時にも、「この石は使いものにならない」と捨てられてしまったというのです。つまり、人々は、イエス様は、自分の人生を築くために何の役にも立たない、むしろ邪魔になるだけだと思い、イエス様を無視したり、取り除こうとしたというのです。
 
(2)礎の石

しかし、実は、人々に捨てられたイエス様こそが、実は、神様に選ばれた尊い生ける石であり、礎の石だったのです。
 そのことが旧約聖書にも預言されているということを説明するために、ペテロは、旧約聖書の「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった」という言葉を引用しました。
 これは、詩篇118篇の引用ですが、詩篇118篇21節-23節に、こう書かれています。「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」
 家を建てるプロと言われる建築家が捨てた石が礎の石となるというのですから、私たちの目には不思議なことですね。神様は、実に不思議な方法で、私たちに救いと人生の土台を提供してくださったというのです。つまり、この詩篇の言葉には、聖書のすばらしい福音が記されているのです。
 救いを得るためには、また、人生の土台を築くためには、自分が努力して、正しい生活をし、善行を積み重ね、修行し、立派な功績をあげ、犠牲を払わなければならない、と考えるのが普通ですね。つまり、自分自身が土台とならなければならない、と考えるのです。しかし、その自分自身があてになりませんね。弱く、脆く、くじけやすく、ぐらついてばかりいます。努力にも限界があるし、失敗や欠けもたくさんあります。そんな土台の上に建てたものは、すぐに崩れてしまいそうですね。
 しかし、聖書は、イエス・キリストが土台になってくださると教えています。イエス様だけが、神様に選ばれた、決して揺らぐことのない、確固たる礎となることのできる方だというのです。
 イエス様は、人に捨てられ、十字架につけられ、死なれました。それは、私たちの身代わりとなって私たちの罪の罰をすべて引き受けてくださるためでした。しかし、三日目に復活されました。それによって、イエス様が神から遣わされた救い主であることが証明され、イエス様の十字架によって私たちの罪がすべて赦されたことが確証されました。また、イエス様が、信じる一人一人に永遠のいのちを与えてくださり、私たちが神様の子どもとして新しく生まれることができるということが保証されたのです。
 そして、このイエス様が私たちの新しい人生の土台となってくださるのです。イエス様は、永遠の存在者であり、決して変わることのない方です。この方を土台となってくださるなら、私たちの人生は、決して揺るがされることはないのです。
 ですから、6節でペテロは、「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」という旧約聖書の言葉を引用していますね。これは、イザヤ28章16節の引用です。「だから、神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。』」
 パウロも、この言葉を引用して、ローマ10章11節で「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と書いています。口語訳聖書では、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と訳されています。
 イエス様を礎として信頼して生きていけば、決して失望させられることはありません。失望感を感じることはあっても、失望に終わることはありません。大きな揺れがあって慌てふためくことはあるでしょうが、土台が揺らぐことは決してありません。ですから、いつも心の奥底に平安を持って生きていくことができるのですね。

(3)つまずきの石、妨げの岩

 さて、イエス様をより頼む人々にとっては、イエス様は、何よりも確実な土台ですが、依り頼まない人々にとっては、イエス様は、「つまずきの石、妨げの岩」になるとペテロは書いていますね。なぜでしょうか。
 福音書を読むと、イエス様に反発する人々がいました。特に当時の宗教指導者たちは、イエス様を十字架刑にするよう求めるほど憎んでいました。彼らは、数え切れないほどの細かい戒めを守り、儀式を形式的に行うことによって、神様に喜ばれ、受け入れられると考えていました。それに対して、イエス様は、「あなたがたは、外側だけ取り繕う偽善者だ。あなたがたの内側は罪と汚れに満ちている。それなのに、自分たちが神に選ばれていると高慢になっている。」と厳しく言われました。その一方で、彼らが罪人と見なしている人々に対しては、イエス様は、「わたしのところに来なさい。休ませてあげます。わたしを信じるなら罪を赦され、救われます」と語りかけました。
 また、イエス様は、安息日にも病や体の不自由な人々をいやされましたが、宗教指導者たちは、「安息日には、いっさいの仕事をしてはならない。治療行為も仕事だから安息日の戒めを破っていることになる」とイエス様を批判したのです。
 そして、イエス様を十字架につけて、「イエスは自分自身を救うことができなかった」とあざけり、イエス様がよみられた後も、「復活などあるはずがない。馬鹿げている」といってかたくなに否定したのです。
 彼らにとっては、イエス様は、自分たちの生き方や考え方をを邪魔する石にしかすぎませんでした。彼らだけでなく、昔も今も、イエス様に対して同じような態度を取る人はたくさんいますね。
 ペテロは、8節で「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです」と書いていますね。
 聖書は、旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで、「あなたがたは、自分の力で自分を救うことはできない。だから、神様が救い主を送ってくださる。イエス様こそその救い主だ。だから、イエス様を信じれば、救われる」ということを教えています。しかし、自分の力で救いを得ることができると思っている人々や自分には助けは必要ないと思っている人々は、そのみことばを受け入れることができないのです。
 彼らが「そうなるように定められていた」とペテロが書いているのは、彼らに選択の余地がなかったという意味ではありません。神様は、彼らがそのようにイエス様につまずくことをあらかじめご存じだったということです。
 しかし、彼らにも、いつでも選択の余地が与えられています。もし、自分の本当の姿に気づき、向きを変えてイエス様のもとに向かおうとするなら、イエス様は喜んで迎え入れてくださるでしょう。
 ペテロは、自分の経験を思い出していたのかもしれません。ペテロ自身、以前は何度もイエス様につまずきそうになったことがありました。それどころか、「イエス様を知らない」と三度も否定してしまったことさえありました。そのようなつまずきを経験したペテロだからこそ、イエス様につまずくことの愚かさや虚しさをよく知っていたのではないでしょうか。だからこそ、すべての人に対して、4節にあるように「主のもとに来なさい」と強く呼びかけているのでしょう。

2 生ける石として、聖なる祭司として

 さて、ペテロは、イエス様を礎石として生きる私たちに、5節で二つのことを教えていますね。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」ということ、そして、「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」ということです。

(1)生ける石として

 日本では、木の家が普通ですが、聖書の舞台となった地方では、石を積み上げて家を建てます。イエス様を礎の石として据え、その上に霊の家が築き上げられていくわけですが、私たちもその家を築くための石となることができるというのですね。
 「霊の家」というのは、次に「祭司」という言葉が出て来ますから、「神殿」のことだと考えられます。
 神殿は、神様の臨在しておられるところです。エルサレムの神殿は、神様の臨在の象徴であり、人々は神殿に来て礼拝し、ささげものをし、祈りました。今は、目に見える神殿はありません。でも、パウロは、第一コリント3章16節でこう言っています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」また、エペソ1章23節ではこう言っています。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」つまり、私たち一人一人の中に、また、教会の中に神が臨在されておられるのですから、どちらも神の神殿であると言えるのですね。
 今日の箇所では、ペテロは、神に生かされている私たち一人一人が集まって、神が満ちておられる場所である教会を建て上げていくようにと勧めているのです。

(2)聖なる祭司として

そして、ペテロは、一人一人が聖なる祭司としての役割を果たして生きなさいと勧めています。祭司の大切な役割の一つは神様にいけにえをささげることです。ペテロは、「イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」と記していますね。「神に喜ばれる霊のいけにえ」とは何でしょうか。

@自分自身

 ローマ12章1節にこう書かれています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
 パウロは、ここであえて、あなたがたの「からだ」を神にささげなさいと書いていますね。創世記2章には、神様が人を土の塵から造られたと記されています。私たちは、スーパーマンのような強靱な存在ではなく、もろく壊れやすい弱い存在として造られたわけです。それは、神様に依り頼み、また、互いに助けあうことが必要な存在だと言うことです。そういう弱いあなた自身のからだを神様に喜ばれるいけにえとしてささげなさい、というのですね。
 神様に喜ばれるとは、神様に受け入れられるという意味です。神様は、義なる神様ですから、罪ある者を受け入れることはなさいません。私たちは本来、神様に受け入れられる存在ではありませんでした。
 しかし、第二コリント5章21節には、こう書かれています。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」神様は、罪のないイエス・キリストを遣わし、そのキリストが私たちの身代わりにすべての罪の罰を十字架上で受けてくださいました。それによって、私たちは、神様の前に罪がない者と認められ、神様に受け入れられる者とされたのです。
 ですから、神様に喜ばれるいけにえとして自分をささげるとは、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられた救いをいただき、赦され、愛されていることを確信して生きていくことです。そして、私たちが、もろく弱いままの自分をささげていくとき、神様は、大いに喜んでくださるのです。ゼパニヤ3章17節にこう書かれているとおりです。「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」

A賛美

ヘブル13章15節にこう書かれています。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
 神様は、私たちの賛美を大いに喜んでくださいます。
旧約聖書のソロモン王の時代に、神殿が完成し、盛大な奉献式が行われました。そのとき、不思議なことが起こったのです。第二歴代誌5章13節ー14節にこう記されています。「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」人々が一つとなって賛美したときに主の栄光が現れたのです。また、詩篇22篇3節には、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とあります。
皆さん、もし、神様が本当に生きておられ、共にいてくださることを味わいたいなら、心から賛美をささげてみましょう。私たちは毎週礼拝で賛美をしますが、それは説教前のウォーミングアップではありません。神様が今ここにいてくださることを味わう大切な時なのです。
 使徒の働き16章には、ピリピの町に宣教に行ったパウロとシラスが逮捕され、むち打たれ、投獄されたときのことが記されています。傷が痛み、鎖に縛られていましたが、彼らは、神に賛美していました。すると、突然、地震が起こり、牢のとびらが全部開いて、鎖が解けてしまったのです。それを見て、牢の看守とその家族はイエス・キリストを信じました。
第二歴代誌20章には、南ユダ王国のヨシャパテ王が敵の大群に包囲された時の出来事が記されています。力の差は歴然としていてとても勝ち目はありません。ヨシャパテは、民と共に主に向かって必死に祈り求めました。すると、神様は、こう言われたのです。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。・・・この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」
 この言葉を確信したヨシャパテは、民と相談して、不思議なことをしました。聖歌隊を編成し、武装した者たちの最前線に立たせ、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美させたのです。すると、どうでしょう。「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたたとき、主は伏兵をもうけて、敵を襲わせたので、敵は打ち負かされた」と書かれています。
 私たちは、主への賛美を通して、主の臨在と大いなるみわざを味わうことができるのです。
 
 キリストを身にまとい、みことばの乳をいただき、自分を主に委ね、賛美と祈りをささげ、喜びつつ、教会を建て上げる生ける石として、また、神様に仕える聖なる祭司として、生かされていきましょう。