城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年八月一一日             関根弘興牧師
               第一ペテロ二章九節〜一〇節
ペテロの手紙連続説教10 
   「神の所有とされた民」

 9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(新改訳聖書)

 前回の箇所では、人々に捨てられ十字架につけられたイエス様こそが、実は、神様に選ばれた尊い生ける石であり、礎の石だったということを学びました。永遠に変わることのないイエス様が私たちの人生の土台になってくださるなら、何が起こっても大丈夫ですね。ですから、ペテロは「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」という旧約聖書の言葉を引用して、読者を励ましたのです。
 また、イエス様を信じて生きる私たち一人一人も、神様の目から見て、尊い生ける石とされています。イエス様という礎の石の上に一人一人が積み上げられ組み合わされ、神様を宿す神殿として建て上げられていくのです。神様は、弱くもろい私たちを選び、それぞれ大切な役割を担う生ける石としてくださいました。ですから、私たちは、弱くもろいままの自分をそのまま神様におまかせして神様に用いていただきましょう。また、私たちを用いて神の家を建て上げてくださる神様に賛美をささげていきましょう。

 さて、これまでペテロの手紙を毎回少しずつ読み進めてきましたが、一つの大きな特徴があることを皆さんはお気づきになったでしょうか。
 それは、ペテロが何かを説明するときに、必ず旧約聖書を引用しているということです。「旧約聖書の約束がイエス様によって成就した」ということを示すことが、ペテロがこの手紙を書いた大きな目的のひとつなのですね。つまり、「イエス様こそ、旧約聖書に預言され、私たちがずっと待ち望んでいたまことの救い主なのだ」とペテロは旧約聖書を引用しながら一生懸命説明しているわけです。
 イエス様は、いきなり現れて「わたしが救い主だ。信じなさい」と言われたのではありません。神様は、遙か昔から入念な準備をして、イエス様が本当の救い主であることを私たちが理解し、信じることができるように、旧約聖書の中にたくさんの予告や説明を記しておいてくださいました。ですから、旧約聖書は、今はもはや必要のない書物なのではありません。今でもイエス様が救い主であることを証明する大切な書物なのです。 また、旧約聖書に記されている様々な約束は、今に生きる私たちにも当てはまるものとして与えられています。「旧約聖書は、私にはあまり関係無いのではないか」と思っている方がおられるかもしれませんが、そうではありません。旧約聖書は、私たちに神様の素晴らしい約束を教えてくれる書物なのです。
 さて、今日の箇所は、この手紙の前半の総まとめのような内容が書かれていますが、ここでもペテロは旧約聖書の言葉を引用して説明しています。詳しく見ていきましょう。

1 神の民と呼ばれる人々

@旧約時代の神の民

 旧約聖書で「神の民」と呼ばれるのは、イスラエル民族です。 最初の人アダムとエバは、神様にそむき、自分勝手な道を進んだために、神様との関係もお互いの人間関係も破壊され、罪と死の束縛の中で歩むようになりました。そして、世界に悪がはびこり、人々は苦しみや争いや様々な問題に苦しむようになったのです。そんな人々を救うために、神様は、まず、アブラハムという人物をお選びになりました。そして、「わたしのことばに信頼して生きるなら、わたしは、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたによってすべての人々が祝福されるようにしよう」と約束なさいました。このアブラハムの子孫がイスラエル民族です。神様は、まずアブラハムとその子孫を見本として選び、神様に聞き従って神の民として生きることがいかに幸いであるかをすべての人に示そうとなさったのです。
 アブラハムの時代から約四百年経ったとき、イスラエルの民は、エジプトで奴隷生活を強いられ苦しんでいました。そこで、神様は、モーセという人物を選び、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地へと導いていかせました。その途中、シナイ山で、神様はモーセを通して律法をお与えになるのですが、その時、出エジプト記19章5節ー6節で、神様は、民にこう告げられました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」また、申命記7章6節でモーセは民にこう語りました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」
 このように、旧約聖書ではイスラエル民族が「わたしの宝」「祭司の王国」「聖なる国民」「宝の民」と呼ばれています。選民とはイスラエルの民のことだったのです。ただし、それには条件がありました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」という条件です。 ところが、旧約聖書に記されているその後のイスラエルの歴史を見ると、イスラエルの民は神様の声に逆らい、契約を破ってばかりいました。その結果、人は、自分の力では神様の命令に従うことはできないし、神の民となることはできないのだということが明らかにされていったのです。

A新約時代の神の民

 しかし、ペテロは、今日の箇所で、イスラエル人だけでなく、イエス様を信じるすべての人々に対して、躊躇なく、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と書いていますね。「あなたがたは神の民とされているのだ」と大胆に宣言しています。それは、神様との新しい契約が与えられたからです。
 旧約時代の契約は、「自分の力で律法を守れば神の民になれる」というものでした。しかし、私たちにはその契約を守ることは不可能です。神様は、そのことをわからせた上で、新しい契約を与えてくださいました。それは、「イエス様を信じるだけで神の民になれる」という契約です。イエス様が、私たちの代表として、律法の求める要求をすべて満たしてくださり、私たちの罪を背負って十字架についてくださり、復活によって完成してくださった契約です。私たちの側で果たすべき要件はありません。ただ、イエス様を信じるだけで、無条件に救いが与えられるという、神様の一方的な恵みによる契約なのです。
 ですから、新約聖書では、「神の民」とは、イエス様を信じるすべての人を指しています。国籍も、人種も関係ないのです。

2 神の民の特徴

 さて、ペテロは、今日の箇所で神の民について、様々な言い方をしていますね。

@選ばれた種族

まず、「選ばれた種族」とありますね。私たちは、神様に選ばれたのだというのです。
 「選ばれた」という言葉を聞くと、何か特別の才能や能力があるから選ばれたとか、立派な人物だから選ばれたとか、功績があったから選ばれたというようなイメージを持ってしまいがちですが、神様が選ばれたのは、そういう基準によるのではありません。
 パウロは、第一コリント1章27節ー31節でこう言っています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」
 「神様は、この世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者や見下されている者、無に等しいものを選ばれた」というのですね。これは、「お金持ちや能力や才能のある人や成功している人は選ばれない」という意味ではありません。自分が自分の力では神様の基準に達することができない弱い者、愚かな者であることを知り、自分が神様の前では無に等しいことを自覚している人こそ、神様に選ばれるのだということなのです。
 旧約聖書で神様がイスラエルの民をお選びになったのも、彼らが特別に優れていたからではありませんでした。むしろ、彼らが少数民族で、神様の助けがなければ立ちゆかないような民だったからです。神様はあえて弱い者を選び、御自分の栄光がはっきりと現されるようになさったのです。ところが、イスラエルの民は、自分たちだけが神に愛され選ばれたと誤解して、自分を誇り、他の民族を見下していました。その姿を神様は大いに嘆かれたのです。
 私たちも神様に選ばれた者ですが、だからといって自分が優れているかのように勘違いして高慢になったり、他の人を見下したりしないように気をつけましょう。「誇る者は主を誇れ」とあるように、弱い私たちを愛し、救ってくださった主だけを誇りにしていきましょう。
 それから、「選ばれた」という言葉を聞くと、選ばれない人がいるというイメージを持ってしまいがちですが、神様は、えこひいきはなさいません。すべての人に救いの道を示して招いておられます。その招きに応えた人は選ばれた人、招きを拒否する人は選ばれない人ということなのです。つまり、すべての人が神様の招きに応えてイエス様を信じさえすれば、「選ばれた種族」になることができるのです。

A王である祭司

 「王である祭司」という言葉は、口語訳聖書では「祭司の国」と訳されています。また、別の訳では「王の系統をひく祭司」とも訳されています。祭司は、神殿で神様に民のとりなしをし、いけにえをささげる役割を担っていました。そして、神様は、王の王なるお方です。私たちはこの王の系統をひく祭司とされているというのです。それは、いつでもどこでも自由に神様に直接祈り、求め、礼拝をささげことができる者であるということです。また、王の心を心として、人々に神様のみこころを伝えていく者であり、また、人々のために神様にとりなしを祈ることのできる者でもあるということなのです。

B聖なる国民、神の所有とされた民

 「聖なる」と「神の所有とされた」は、同じことを意味しています。「聖なる国民」というのは「神のものとして特別に取り分けられた国民」という意味で、つまり、神様の所有とされた民なのですね。
 神様は、完全に聖なる方ですから、少しでも罪や汚れのあるものは受け入れることはお出来になりません。では、なぜ罪や汚れのある私たちが、聖なる神様の所有となることができるのでしょうか。それは、神様が遣わしてくださった救い主イエス様が、十字架によって私たちの罪も汚れもすべて贖ってくださったからです。それによって、私たちは罪も汚れもない者と認められ、聖なる者、神様の専用品として生きることができるようになったのです。
 私たちは、この世に生かされているけれど、この世のものでなく、神様のものとされている民です。そのことを喜び、誇り、深く感謝しつつ生きていこうではありませか。

3 神の民とされたことの意味

 では、神様が私たちを神の民として選んでくださったのには、どのような意味があるのでしょうか。

@みわざを宣べ伝えるため

 まず、9節に「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」とありますね。。
 神様は、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださいました。
 ヨハネは、第一ヨハネ1章5節でこう記しています。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」神様御自身が光りなのですね。
 光は、明るく照らすものです。光が差し込めば暗闇はなくなりますね。また、光はいのちと健康の源になります。道徳的な意味では、正しさを意味することもあります。知恵や知識を意味したり、将来の希望を意味することもありますね。つまり、光は、私たちが生きていく上で無くてはならないものなのです。 ペテロもヨハネも、神様がそういう光の性質をすべてもっておられる方だということを知っていました。神様は、いのちの源であり、知恵と知識の源であり、暗闇を照らし、歩むべき道を示し、希望を与えることのできる方です。私たちは、常に、この光なる方との交わりの中に歩むことができるのです。
 そして、感謝なことに、神様の方で「ご自分の驚くべき光の中に私たちを招いてくださった」のです。神様は、やみの中でさまよっているような者を呼び続け、招き続けてくださいます。その呼びかけの方向に進んでいくと、いつのまにかすっぽりと光の中に入れられるのです。
 イエス様と出会う前のことを思い出してください。以前はイエス様のことなど何も知りませんでした。しかし、私の人生はこのままでいいのだろうか、真理が必要だ、消えることのない光が必要だと思ったはずです。そして、聖書を通して、礼拝を通して、神様が私たちに呼びかけ、招いてくださっていることを知りました。そして、単純にイエス様を救い主として信じ受け入れたとき、イエス様は、私たちを罪と死の束縛の暗闇から、永遠の救いの光の中へと移してくだったのです。それは、神様にしか出来ない驚くばかりの恵みのみわざです。
 クリスチャンになってからも、私たちは、やみの中に入り込んでしまうことがありますね。いろいろな問題が起こり、病も経験します。まるで出口が見えないトンネルに入ってしまったかのような辛い経験もすることもあります。しかし、そんな暗闇の中にあっても、神様は、私たちに呼びかけ、愛といやしの光の中へと招いてくださるのです。
 それから、ペテロは、「すばらしいみわざ」と記していますが、「すばらしい」とは「不思議」という意味です。また、「みわざ」と訳されている言葉は「卓越」(excellent)という意味です。つまり、神様のみわざは、なんとも不思議で巧みで卓越したものだというのです。
 伝道者の書3章11節に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とありますが、私たちに与えられた救いの恵みを考えれば、その通りだと頷くことが出来るでしょう。また、救われたときだけでなく、私たちの毎日の生活の中にも、この不思議で卓越した主のみわざが行われていることを確信して歩んでいきたいですね。
 そして、ペテロは、私たちが神の民とされたのは、このすばらしいみわざを宣べ伝えるためだと言っています。
 マタイ10章27節で、イエス様はこう言われました。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」これは、ただ、街頭で大声を出してふれ回りなさいということではありません。私たちが暗やみの中で経験した主のすばらしいみわざを、自分の内にだけ留めておくのではなくて、他の人々にも分かち合っていきなさいということです。必要なときに、適切な方法で分かち合っていきましょう。

A神様との関係を回復するため

それから、10節で、ペテロはこう書いていますね。「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
 この言葉は、旧約聖書のホセア書が背景となっています。
 ホセアは、紀元前八世紀に登場した預言者で、「愛の人」「旧約のヨハネ」と呼ばれています。ホセアの妻ゴメルは、不貞によって子供を宿すのですが、ホセアは、その妻と子を愛を持って受け入れたのです。
 このホセアの家庭生活は、神様とイスラエルの民との関係を象徴的に表しています。本当の神様に背を向けて他の神々に走っていたイスラエルを、なおも愛し受け入れる神様の姿が表されているのです。
 ゴメルは、不貞の子を産みました。ホセアは、神様の命令に従って、そのうちの一人には、「ロ・ルハマ」(「あわれみを受けない」という意味)、もう一人には、「ロ・アミ」(「わたしの民でない」という意味)という名を付けました。これらの名前は、神様に背を向けるイスラエルの民に対する神様のさばきを象徴的に示すものだったのです。
 しかし、その後、神様は、いつかイスラエルの民が神様のもとに帰り、神様と真実のちぎりを結ぶ時が来るという希望のメッセージをホセアにお与えになりました。そして、その時には「ロ・ルハマ」(あわれまない)が「ルハマ」(あわれみを受ける)と呼ばれ、「ロ・アミ」(わたしの民でない)が「アミ」(わたしの民)と呼ばれるようになると言われたのです。つまり、神様に背を向けて自分勝手に歩んでいった民を、神様は、「再びあわれみ、わたしの民とする」と言われたのです。 ペテロは、このホセヤ書を引用をして、「あなたがたは、以前は、神様からロ・ルハマ(あわれみを受けない)、ロ・アミ(わたしの民でない)と呼ばれるような者だったけれど、今は、ルハマ(あわれみを受ける)、アミ(わたしの民)と呼ばれる者となった」と記しているわけです。ホセヤ書に記されている回復の預言が、今、自分たちの身に起こっているのだと説明しているのですね。
神様は、私たちを愛し、また、私たちが神様を愛することを切に願っておられます。私たちと愛の関係を回復するために、神様は私たちを選び、神の民としてくださったのです。

 イエス様との出会いは、神様と私たちの関係を一変させます。私たちの行いや功績によってではなく、ただ神様のあわれみによって、神様は、私たちを御自分の光の中に招き入れ、永遠に変わることのない神様との愛の関係を回復してくださるのです。「あなたは、わたしが選んだ王である祭司、聖なる国民、わたしの専用品だ。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださる神様を信頼し、自信と誇りを持って歩んでいきましょう。