城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年九月一日              関根弘興牧師
              第一ペテロ二章一八節〜二五節
ペテロの手紙連続説教12 
   「イエス様の模範」

18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(新改訳聖書)


 旧約の時代、神の選びの民とは、イスラエル民族をさしていました。神様は、すべての人を救うために、まずイスラエル民族を選び、彼らを通して、神様の偉大さ、愛の深さ、正しさ、あわれみの豊かさ、みわざの素晴らしさをお示しになったのです。しかし、イスラエルの民は、自分の力で、神様に聞き従い、神様の恵みを受け取り続けることができませんでした。旧約聖書に記された彼らの歴史を通して、人の努力には限界があること、また、人は内側が根本的に変えられない限り、神様の選びの民としてふさわしい生き方をすることが出来ないのだということが明らかになっていったのです。
 神様は、そのことを明らかにされた上で、救い主イエス様を送ってくださいました。このイエス様を信じる一人一人は、神様のいのちをいただいて内側が新しく生まれ変わり、神様によって神様に選ばれた民としてふさわしい者へと成長させられていくというのです。
 ですから、ペテロは、この手紙の中で、イエス・キリストを信じる一人一人が神に選ばれた種族、神の所有とされた民なのだと記しています。そして、前回の箇所では、この世の中で、神の民として、どのようにふるまい、生活していけばいいのかということを教えていましたね。
 私たちを神様から引き離してしまうような誘惑を遠ざけ、ただ神様を単純に信頼し、すべてを神様におゆだねしながらいきていくこと、また、イエス様が教えてくださった「カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返す」という原則に立って生活することが大切だ、とペテロは記していました。
 私たちは、すべての束縛から解放されて自由にされています。その自由は、良いこと、益になることをする自由であり、また、悪いこと、害になることをしない自由です。自分からすすんで、神様のしもべとして生きる道を選択できる自由です。
 人は、自由だと思っていても、必ず何かに支配されて生きています。自分中心の考え方に支配されている人もいるし、神などいないという考え方に支配されている人もいます。しかし、愛とまことと恵みに満ちた神様に支配されて生きるときにこそ、私たちは、最も自分らしく自由に生きることができるのです。だから、ペテロは、与えられた自由を「神の奴隷として用いなさい」と勧めているのですね。

 さて、今日の箇所には、実際にこの世の中で誰かのしもべとして生きている人たちへの教えが書かれています。詳しく見ていきましょう。

1 しもべの生き方

ここに書かれている「しもべ」とは、「奴隷」という意味です。当時のローマ帝国には、六千万人の奴隷がいたとされています。奴隷は、もともと戦争で捕らわれた人たちでした。ローマ帝国の領土が拡大するにつれて、奴隷の数も増えていったのです。 奴隷と言っても、単純労働を強制されている人々ばかりではありません。医者、教師、音楽家、俳優、秘書など、奴隷の仕事は多岐にわたり、ほとんどの仕事は奴隷が行っていたと言われます。しかし、ローマの法律では、奴隷は人格を持たない、ただの物として扱われていました。ローマ帝国には、三種類の道具があったと言われます。一つは、何も聞こえず話すこともできない道具、例えば農機具ですね。二つめは、聞こえるけれども話すことの出来ない道具、つまり、家畜ですね。それから三つ目は、話すことのできる道具、つまり、奴隷です。奴隷は、主人が意のままに使う道具に過ぎなかったのです。
 そういう社会の中にイエス様の福音が届けられました。「イエス様を信じるなら、だれでも自由にされるのだ」「皆、神様の子どもであり、兄弟姉妹なのだ」という福音です。この世で主人であるか奴隷であるかは関係なく、皆、神様の目には大切な存在であり、神様の奴隷として生きる者なのだというのですね。
 では、イエス様や福音を伝えた使徒たちは、この世の奴隷制度を否定し、攻撃し、撤廃しようとしたでしょうか。
 いいえ、むしろ、社会の中で自分の置かれた場所で、自分の役割を忠実に果たしていきなさいと教えているのです。
 「じゃあ、聖書は奴隷制度に反対していないのか」と疑問に思う方もおられるでしょうね。もちろん、奴隷制度そのものは、聖書からみれば良くないことは明白です。聖書の影響が広まっていったからこそ奴隷制度が廃止されていったのです。
 しかし、ペテロもパウロも奴隷制反対運動をみんなで起こそう、決起しよう、とは記しませんでした。表面的に制度を破壊しても根本的な解決にはならないとわかっていたからです。大切なのは、一人一人の内側が変わっていくことです。イエス様を信じ、内側が新しく変えられて神様と人を愛する生き方を始める人々が増えていけば、社会は本質的に変わっていきます。時間がかかるように見えますが、それが一番確実な本当の変化をもたらす方法なのですね。
 ですから、パウロは、第一コリント7章20節ー23節で、奴隷たちにこう教えています。「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」
 パウロは、「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません」と言っていますね。神様のみまえでは、この世の立場は関係ありません。皆が、イエス様によって贖われ、自由にされ、神様の者となっているからです。
 また、パウロは、主人たちに対しては、コロサイ4章1節で、こう言っています。「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい」。 
 パウロは、エペソ6章6節ー9節でもこう教えています。「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」
 奴隷と主人という表面上の立場が同じままだとしても、お互いにキリストに対するように接し合うならば、そこに麗しい関係が育まれていくというのです。
 当時の教会には、たくさんの奴隷や主人が集まっていました。そして、奴隷も主人も共に同じ主を礼拝していたのです。教会の中のリーダーが奴隷の身分ということもあったでしょう。でも、皆、主にあって自由人です。兄弟姉妹です。何と麗しい光景でしょう。教会の中では、社会的な壁などないのですね。
 しかし、社会の中では、それぞれ役割が違い、一人一人が自分の役割を果たしていました。その時に、互いに神様に選ばれた大切な存在であることを認め合い、尊重し合っていくことが大切だということなのです。
 現代でいうなら、例えば、会社の社長と社員が同じ教会に来ているとしましょう。教会では、同じ神の家族の一員であり、何の差別もありませんね。しかし、会社に行けば、立場によって役割が違います。社長の命令に社員は従う必要がありますね。でも、その時に互いの立場を尊重し、社員は主に対するように心から社長に仕え、社長は社員が主に愛されている存在であることを認めつつ接していきなさい、ということなのです。、
 コロサイ3章23節ー24節にこうあります。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」これがクリスチャンの基本姿勢なのです。
 しかし、18節にあるように、世の中には、善良で優しい主人だけでなく、横暴な主人もたくさんいます。そういう主人に仕えるには、どれほどの苦労、苦痛、涙があることでしょう。この世は、なんと不条理かと思わされます。どうして悪が栄えるのかと思わされることもあります。詩篇の作者がたびたび「神様どうしてですか」と叫んでいるように、私たちも叫びたくなることがありますね。
 しかし、 ペテロは今日の箇所で驚くようなことを記していますね。19節では「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」、そして、20節後半では、「けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです」と書いていますね。
 ペテロは「喜ばれる」という言葉を繰り返し使っていますが、これは、もともとは「恵み」という言葉です。つまり、ペテロは、「苦しみを受けながらも耐え忍び、良心のゆえに善を行っていくなら、それは、必ずあなた自身の恵みにつながっていく」と教えているのです。
 パウロは、ローマ5章2節ー5節でこう記しています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
つまり、この地上の生活には、様々な不条理や苦難もあるけれど、それらの患難を通して忍耐が生まれ、忍耐を通して品性が練られ、決して失望に終わることのない希望をもって生きることができるというのです。自分の力だけでは無理でしょう。しかし、神様がつねに私たちの心に愛を注ぎつづけてくださっているから大丈夫だ、とパウロは励ましているのですね。苦しみを受けることを通して、神様の恵みをより深く味わうことができるのです。

2 イエス様の模範

 そして、ペテロは、私たちが途中でくじけてしまうことのないように、「キリストが模範を示してくださったのだから、その姿を見習えばいいのだ。キリストが苦しみを耐え忍ばれたおかげで、どのような結果がもたらされたか思い出してみなさい」と励ましのことばを記しています。

(1)苦しみを耐え忍ばれた

 イエス様は、マルコ10章45節で「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」と言われました。「人の子」とは、人となって来てくださった神の子イエス様のことです。イエス様は、仕えるために来てくださいました。しもべ、奴隷となってくださったのです。
当時の奴隷たちは、不当な仕打ち受けても、何一つ訴えることが出来ない状態にいました。自分勝手で横暴な主人に仕えることは、肉体的にも精神的にも大きな苦しみだったことでしょう。そんな奴隷たちがたくさん教会に来ました。今日の箇所は、そういう彼らのために読まれていたのではないかと思います。
 22節ー25節でペテロが語っているキリストの姿は、旧約聖書のイザヤ53章を元にしていると思われます。イザヤ53章で、預言者イザヤは、神のしもべが人々の罪の身代わりに苦しみを受けることを預言しています。
 ペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」と記していますね。
 奴隷たちにとって、一番の不条理は、自分は悪くないのに、不当な仕打ちを受け、無理強いされ、苦しめられることだったと思います。彼らは、やり場のない思いを抱えていました。その彼らに、ペテロは、「イエス様のことを考えなさい。イエス様はしもべとして来てくださった。そして、何一つ罪を犯すことがなかったのに、苦しめられた。このイエス様があなたの痛みを理解できないはずがないではないか」と語りかけているようですね。
 教会に集う奴隷たちにとって、自分たちと同じように苦しみを受け、耐え忍ばれたキリストの姿は、慰め、励ましとなったことでしょう。

(2)イエス様の忍耐の意味

 イエス様が苦しめられても反撃することをなさらなかった理由としてペテロはここで二つのことを記しています。一つは、「正しくさばかれる方」がおられることをご存じだったからです。神様が最善の時に正しいさばきをしてくださることを信頼していたからこそ、イエス様は、苦しみを耐え忍ばれたのです。
 もう一つの理由は、イエス様が、御自分が苦しむことによって多くの人々に祝福がもたらされることをご存じだったからです。それは、どのような祝福でしょうか。

@義といやし

 24節でペテロは、「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」と書いていますね。
 イエス様は、苦しめられ、十字架にかかることによって、私たちの罪の罰をすべて引き受けてくださいました。「罪」とは、単なる犯罪のことではなく、神様との関係が破壊されたために、神様のみこころがわからず、神様に背を向けて生きている状態のことです。自分勝手な考えに支配され、自己中心的な生き方をしてしまい、愛することができず、自分も他人も傷つけ、目的を見失ってさまよっている状態、そして、それを自分ではどうすることもできない状態です。そのままでは、胸を張って神様のみまえに出ることなどできません。
 そんな状態から私たちを救い出すために、神様は、御子イエス様を遣わしてくださいました。罪のまったくないイエス様が、私たちの代わりに苦しみを受け、十字架にかかってすべての罰を受けてくださったので、私たちは罪が赦され、いやされ、平安が与えられたのです。そして、神様との関係が回復し、義なる神様のみこころに従って生きる者となることができました。それだけでなく、神様に向かって「お父さん」と親しく呼びかけることのできる神の子とされているのです。イエス様は、そのために、あらゆる苦しみを耐え忍ばれたのです。
 奴隷たちの日常は、不自由がたくさんあったでしょう。しかし、天を見上げるとき、そこには、罪を赦し、ひとりひとりに「我が子よ」と愛のみ手を広げてくださる主がいてくださいます。それは、何と大きな励まし、慰めとなったことでしょう。
 また、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」というのは、イザヤ53章からの引用です。いやしは、何から生まれますか。愛からです。私たちのためにいかなる苦しみを受けることも厭わなかったキリストを知ることによって、私たちは、どれほど神様に愛されているかを知り、その愛によっていやされていくのです。
詩篇147篇3節に「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」とあります。私たちは、この世の旅をしていく中でいろいろな傷を負いますが、主は、愛によって私たちをいやし、傷を包んでくださるのです。

@たましいの牧者、監督者に守られて生きる

 それから、25節でペテロは、「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」と書いていますね。
私たちは、この地上で生活しています。いずれかの国の国民として、その国の法律に従って生活していますね。しかし、私たちの魂を守り導いてくださる方は、キリスト以外にありません。以前、私たちは迷子の羊のようにさまよっていましたが、キリストは、御自分が苦しみをうけることによって、私たちを御自分のもとに連れ帰ってくださったのです。この世の中で、奴隷であっても主人であっても、関係ありません。私たちのたましいを守り導き、監督してくださる方はキリストなのです。
 このキリストのもとに帰って、キリストとともに生きていくなら、私たちは安心ですね。
 キリストは良き羊飼いで私たちに必要な食べ物や水を与え、悪い者から守ってくださいます。また、キリストは、すばらしい監督者です。どんな一流プレイヤーが所属するチームでも監督には絶大な力があります。監督の采配次第でチームはまったく違うものとなりますね。私たちの人生の監督は、以前は、自分自身だったかもしれません。あるいは、責めたりののしるだけの横暴な監督だったかもしれません。あるいは、間違った指示ばかりする頼りない監督だったかもしれません。しかし、今では、愛と恵みと正義と知恵に満ち、私たちにとって何が最善かを一番よく知っておられるキリストが監督してくださるのです。これほど、頼りになる方はいませんね。
 キリストは、私たちがキリストのもとで安心して生活し、人生の試合を戦っていくことができるようになるために、苦しみを耐え忍んでくださったのです。

 このキリストこそ私たちの模範です。しかも、キリストはいつも私たちの手を取り、一緒に歩みながら模範を示し続けてくださるのです。
 ですから、私たちは、いかなる苦しみの中にあっても、正しくさばく神様にすべてをおゆだねし、その苦しみが自分自身、また、他の人々への神様の祝福につながっていることを覚えつつ、今週もたましいの牧者であり監督者であるキリストと共に歩んでいきましょう。