城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年九月八日              関根弘興牧師
                 第一ペテロ三章一節〜七節
ペテロの手紙連続説教13 
  「いのちの恵みを受け継ぐ者たち」

1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(新改訳聖書)

前回お話ししましたように、当時のローマ帝国には六千万人もの奴隷がいたそうです。奴隷といっても、医者、学者など高度な専門知識を必要とする仕事なども含め、多岐にわたる仕事を奴隷が担っていました。しかし、人格は認められず、道具扱いされていたのです。ですから、どんな主人に仕えているかによって奴隷の生活状態は大きく違っていました。横暴な主人から不当な仕打ちを受けて苦しむ奴隷もたくさんいたことでしょう。
 当時の教会には、クリスチャンとなった奴隷がたくさん集まっていました。そこで、ペテロは、前回の箇所で、奴隷たちに対して、「イエス様も神のしもべとして、あなたがたと同じような苦しみ、悲しみを味わわれました。だから、あなたがたの苦しみを十分理解することがお出来になります。イエス様は、あなたがたに癒やしをもたらすために十字架についてくださいました。そして、今、あなたがたの魂の牧者、監督者として、私たちを守り導いてくださっています。ですから、イエス様の忍耐を模範として、希望を持ってイエス様に従っていきなさい」と励ましているのです。

 さて、次に、ペテロは、今日の箇所で、妻たちと夫たちに対する勧めを記しています。
 当時、奴隷に対しては、主人が絶対的な力と権限を持っていましたが、それと同じように、当時の女性、特に妻に対しては、夫がすべての権利を持っていました。圧倒的に男性優位の世界で、少しでも夫の意向に沿わない妻は悪妻というレッテルを貼られ、夫の恥だと見なされました。すべての責任は妻の側にあり、すべての特権は夫の側にあるという考え方が強かったのです。そして、夫は、妻が持ってきた持参金を返しさえすれば、いつでも簡単に離婚することができました。ですから、当時の妻たちは、自分の権利を持っていないという点では、奴隷と同じように弱い存在だったのです。
 しかし、教会には慰めがありました。奴隷でも女性でも子どもでも、主人や夫や大人と同じように尊い、敬われるべき存在であるという福音が教えられていたからです。
 聖書は、どんな立場であろうと関係なく、一人一人が互いを尊重し合うことが大切であること、そして、特権を与えられた人は、それに見合う責任を負う必要があるということを教えています。それは、当時の社会では考えられないような倫理観でした。
たとえば、前回、奴隷と主人について、聖書が何と教えているかお話ししましたね。聖書は、奴隷に対しては、「今の立場を気にしないで、キリストに従うように、主人に従いなさい」と教えています。一方、主人に対しては、「あなたも奴隷も同じ主のしもべなのだから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい」と教えているのです。
 そして、今日の箇所では、同じ聖書の基準に基づいて、妻と夫に対する教えが記されています。詳しく見ていきましょう。

1 妻への勧め

 福音が伝えられていくとき、家族の一人がまずクリスチャンになるというケースは、多かったはずです。そして、家族の一人がクリスチャンになると、いろいろな軋轢が生じることがありました。それは、当時も今も同じですね。
 当時の妻がクリスチャンになって教会に通い始めた場合、どうでしょうか。主人もクリスチャンになって一緒に教会に来るようになれば問題は起こりませんが、主人が福音に理解がなければ、妻としてはかなり辛い立場におかれることが多かったでしょう。そういう妻たちに対して、ペテロは何と言っているでしょうか。
 
(1)夫に従う

 まず、1節で、ペテロは、「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても」と言っていますね。
パウロも、エペソ5章22節ー24節にこう記しています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」
 妻である方々は、これを読むと不満に思われるかもしれませんね。「理不尽だ」と腹を立てる方や、「実際の家庭生活でこれを実践するのは難しい、いや、不可能だ」と思う方もおられるでしょう。
 でも、聖書全体から判断すると、この「夫に従いなさい」というのは、「夫には決して逆らわず、ただ闇雲に何でも従え」という意味ではありません。亭主関白がいいと言っているわけではないのです。
 「主に従うように」とありますね。主に従うのは、嫌々ながら義務感で無理に従おうとするのではありません。主を愛し、信頼して、心から従うわけですね。ですから、聖書は、夫たちに対しては、「妻たちが心から従うことができるような夫になりなさい」と教えているわけです。夫婦がそれぞれ聖書の教えを実践していくなら、麗しい夫婦関係が築かれていくようになるというのですね。
 しかし、神様を知らず、みことばに従わない夫の中には、自分勝手で横暴な夫もいますね。そういう夫に対して、妻はどのように接していけばいいのでしょうか。

@無言のふるまい

 1節に「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」とありますね。これは、夫にみことばを語り聞かせても効果がない時がある、そういう時には、あまり聖書の言葉をふりまわすな、あまり説教じみたことを言うな、ということなのですね。聞く気のない相手に闇雲に聖書のことばを語るのは、かえって逆効果になりがちです。黙って、夫が神のものとされることを祈りつつ神の時を待つことが大切なのですね。

A神を恐れかしこむ清い生き方

 そして、2節に「あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです」とありますね。「神を恐れかしこむ清い生き方」とは、神様が生活のただ中にいてくださり、みわざをなしてくださっていることを信じつつ生きるということです。道徳的に完全な清い生き方をできる人など誰もいません。でも、「この弱い私を神様が選び、神様のものとしてくださった」という意識を持ち、神様に信頼して生きていけばいいのです。そして、その生き方を見て、愛と恵みに満ちた主がおられることを夫が知ることができるように祈り求めていきましょう。

B柔和で穏やかな霊

 ペテロは、続けて、3節ー4節でこう記しています。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」
当時のローマの社会には、非常識な贅沢がたくさんありました。多くの装飾品を付けて、豪華な着物を着ることが人生の成功を表すかのように考えられていました。しかも、それがどんどんエスカレートしていたのです。
 ペテロは、そういう風潮とは正反対のことを教えました。神の御前に価値があるのは、ブランド品でもなく、宝飾品で身を飾ることでもありません。といっても、TPOをわきまえて身だしなみを整えたり、おしゃれを楽しんだりするのが悪いわけではありません。それが過度になりすぎて、外面の飾りで自分の価値を高く見せかけようとするなら、かえって本来の美しさが失われてしまうということなのですね。
 外面的なものにとらわれるのではなく、心の中の隠れた人がらを飾りにすることは、妻たちだけでなく、すべての人にとって、神様の御前に価値あるものなのですね。
 ところで、ここで、ペテロは、「柔和で穏やかな霊」と言っていますが、これは、どういう意味でしょうか。
 まず、「柔和」とは、どういう意味でしょうか。イエス様は、マタイ5章から始まる山上の説教の中で、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」と言っておられますね。 日本語の「柔和」という言葉には、優しいけれど少し弱々しいイメージがありますね。しかし、ギリシャ語の「柔和」と訳されている言葉には、「中庸」という意味があります。「中庸」とは、「極端にならない」ということです。「怒り出したら止まらない」とか、「浪費し出したら止まらない」といった過激で制御不能な状態でもなく、逆に、「怒りや悲しみやいろいろな感情をまったく表に出そうとしない」という極端に抑圧した状態でもありません。怒るべき時に怒り、怒るべきでないときに怒らない、それが中庸です。
 また、「柔和」という言葉は、動物が「飼い慣らされ、命令に従うように訓練されている」とか「他の者の支配を受け入れることを学んでいる」という姿を表すときにも使われるそうです。それを人に当てはめると、神様に素直に従い、神様の支配を従順に受け入れているという意味になるわけですね。
 ですから、「柔和」は、「謙虚」「謙遜」と同じ意味の言葉としても使われます。「謙遜」は「自己卑下」とは違います。自分の弱さを正直に認め、神様の愛と恵みの支配を喜んで受け入れること、それが「謙遜」なのです。
 イエス様は、マタイ11章29節で、こう言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」この「心優しく」という言葉は、新改訳聖書二〇一七版では「柔和」と訳されています。イエス様の姿こそ、柔和のお手本なのですね。イエス様は、神であられる方なのに、人となってへりくだり、怒るべきときは怒り、耐える時は耐え、神様に従順に従って行かれました。そのイエス様の姿を学ぶときに、たましいに安らぎを得ることができるのです。
 それから、「穏やかな霊」とありますが、「穏やか」とは、「しゃべらないで静かにしている」という意味もあります。これは、何もしゃべるなということではありません。ただガミガミと機関銃のように責め立て、まくし立てるのではなく、語ることに注意深くありなさいということです。伝道者の書3章7節に「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」と記されている通り、語るべき時に語ることできるようにという思いを持っていることが大切なのです。
 この柔和で穏やかな霊は、イエス・キリストを信じることによって与えられるものです。そして、その朽ちることのない霊によって磨かれた品性を飾りとする生き方こそ価値があるのだとペテロは教えているのですね。

(2)旧約聖書の婦人たちを模範とする

 そして、ペテロは、5節ー6節でこう書いていますね。「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。」
 「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たち」というのは、旧約聖書に登場する女性たちのことです。
 その代表として、ペテロはここでサラを挙げていますね。サラは、イスラエル民族の先祖アブラハムの妻でした。二人には子どもがいなかったのですが、神様はアブラハムに「あなたの子孫は星のように数え切れないほどに増える」と約束されました。また、「サラがあなたに生む子があなたの祝福を受け継ぐ者となる」と言われたのです。アブラハムは、その約束を信じました。そして、アブラハムが百歳、サラが九十歳の時、人間的にはもう不可能だと思われた時に、約束の子イサクが生まれたのです。そして、そのイサクから、多くの子孫が生まれ、イスラエル民族が形成されていきました。つまり、サラは、神様の祝福を受ける民を産み出した女性であり、「サラの子」というのは、「神様の祝福を受け継ぐ子」という意味があるわけです。ですから、ユダヤ社会の中では、「サラの子」と呼ばれることは、大変名誉なことでした。
 ペテロは、ここで、妻たちに対して、「あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです」と書いていますね。「善を行えば」というのは、「神様を信頼し、神様に従って生きていけば」ということですが、「サラの子となる」という言葉には、二つの意味が込められているのかもしれません。一つは、「あなた自身が神様の祝福を受け継ぐ子となる」という意味、そして、もう一つは「あなたもサラと同じように祝福を受け継ぐ子どもたちを産み出す者となる」という意味です。
 いずれにせよ、それは、神様の御前で最高の名誉となることですね。だから、サラやその他の旧約聖書に登場する女性たちと同じように、自分の心を飾り、夫に従って生きなさい、とペテロは勧めているのです。

2 夫への勧め

 次に、ペテロは、夫たちに対して7節でこう勧めています。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

(1)妻が自分よりも弱い器だということをわきまえて

 まず、「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し」とありますね。新改訳二〇一七版では、「妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい」と訳されています。
 今、公の場で「女性は男性より弱い器だ」と言ったら、大炎上しそうですね。「女性を見下しているのか」と怒る人もいるでしょうし、「今は女性の方が強いですよ」と反論する人もいるでしょう。
 しかし、この手紙が書かれたのは、紀元一世紀です。最初にご説明したとおり、当時の女性は社会的な弱者でした。ですから、ペテロは、夫たちに対して、「妻が自分よりも弱い者であることを理解して、妻の立場をしっかりと守ってくらしなさい」と言っているのです。

(2)いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい

 それから、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」とペテロは言っていますね。
 神様は、人を造り、いのちを与えてくださいました。最初の人アダムを見て、神様は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言い、人から取ったあばら骨から女を作られました。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と書かれています。聖書は、夫と妻は一体であると教えているのです。「神様のいのちの恵みをともに受け継ぐ者」なのですね。
 ですから、パウロは、コロサイ5章28節では「自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」と語っています。つまり、「妻を愛し、妻の最善を願いつつ生きることは、自分を愛することと同じなのだ」と言っているのですね。
 そして、その夫と妻の関係は、キリストと教会の関係を象徴的に表すものだと聖書は教えます。パウロは、エペソ5章25節でこう書いています。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
 キリストは、教会、つまり、キリストを信じる一人一人を愛してくださっています。教会には、独身の方もいますが、結婚しているかどうかに関係なく、キリストと私たちの関係は、夫と妻の関係と同じで、キリストが私たちを愛し守ってくださり、私たちは、そのキリストに従っていくのです。そして、キリストの愛を受けて生きる一人一人は「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」とされているのですね。キリストによって与えられたいのちは、人を生かし、回復させる永遠のいのちです。私たちはこのいのちの恵みを豊かに味わい、受け継ぐ者とされています。ですから、夫と妻の間だけでなく、お互いに尊敬し、愛し合っていくことが大切なのです。

(3)あなたがたの祈りが妨げられないために

 そして、ペテロは、「それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです」と言っていますね。妻を愛し、守り、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しながら生きていくとき、祈りは妨げられないというのですね。ということは、もし、私たちが自分勝手に特権だけを振りかざし、相手を尊重しないなら、祈りが妨げられてしまう、ということですね。
 ヨハネ14章13節で、イエス様は、こう言っておられます。「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」イエス様の名によって求めるとは、イエス様の御性質に従って求めるということです。イエス様の御性質とは、愛そのものです。つまり、祈りには愛が大切なのです。もし互いの間に愛がなければ、祈りは妨げられてしまうでしょう。
 夫と妻の関係においてだけでなく、私たちは、「互いに愛し合いなさい」というキリストの戒めに従って生きていく者とされています。聖霊の助けを得ながら、キリストを信頼しつつ、互いに愛し合う者として歩んでいきましょう。