城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年九月一五日             関根弘興牧師
                  第一ペテロ三章八節〜九節
ペテロの手紙連続説教14 
  「祝福を受け継ぐ者たち」

8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(新改訳聖書)

前回までの箇所で、ペテロは、イエス様を信じる者は神の民とされたのだから、神の民にふさわしいふるまいをしていこうと教えていました。神の民にふさわしいふるまいをするとは、道徳的に完璧に生きるという意味ではありません。私たちを神様から引き離そうとする誘惑から離れ、単純にイエス様を信頼し、自分にも人にも益となる生き方を選び取ることのできる自由人として歩んでいくということです。また、心から喜んで神様に仕える神のしもべ同士として、互いに尊敬を持って仕え合っていこうとペテロは教えていました。
 当時、教会にはたくさんの奴隷たちも集まっていました。当時の社会では奴隷は人格を認められず、道具扱いされ、横暴な主人から不当な仕打ちを受けて苦しんでいる奴隷もたくさんいました。また、教会には多くの婦人たちも集っていましたが、当時の圧倒的に男性優位の社会の中で、女性は大変弱い立場にいました。
 しかし、教会では、奴隷も主人も、女性も男性も、子どもも大人も関係なく、皆、同じように尊い存在であり、互いに敬い合う必要があることが教えられていたのです。それぞれが置かれている社会的な立場は違っても、互いに仕え、愛し合いながら生きていくことの大切さをペテロは記しています。それは、当時では考えられない倫理観でした。

 さて、今日の箇所には、神の民のふるまいについて、今までのまとめが書かれています。どんな立場であろうと関係なく、このように生きていきなさいと、ペテロは勧めているのです。
 なぜなら、皆、「祝福を受け継ぐために召されたのだから」とペテロは書いていますね。
 前回の箇所では、ペテロは、夫たちに対して、妻を「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」と教えていました。「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」、それは、教会に集う一人一人にも当てはまる言葉です。夫と妻の関係は、キリストと教会の関係と同じで、教会に集う一人一人は、キリストの豊かないのちの恵みを共に受け継ぐ者とされているからです。 ですから、私たちは、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」であり、また、今日の箇所にあるように「祝福を受け継ぐために召された者」なのですね。
 そのような者にふさわしい生き方とは、どのようなものでしょうか。詳しく見ていきましょう。

1 心を一つにする

まず、「心を一つにしなさい」とペテロは書いています。パウロも同じことを何度も手紙に書き記していますから、これは、とても大切なことなのですね。
 では、「心を一つにする」とは、どんなことを意味しているのでしょうか。それは、みんなが同じ考え方をし、同じ行動を取り、いつも意見が一致しなければならない、ということではありません。そうなったら、かえって教会は危険な状態にあると思わなければなりません。神様は、一人一人に個性を与え、自由に考え判断する力を与えてくださいました。私たちは、互いに違うからこそ、互いに補い合うことができるのです。信仰は同じでも、支持政党が違ったり、関心を持つ分野が違ったり、出来ることややりたいことが違ったりしても構わないのです。
 では、聖書が教える「心を一つする」とは、どういう意味なのでしょうか。それは、「キリストを信じる信じ方が同じである」ということです。「信仰の告白が同じ」ということです。「告白」と訳されているギリシャ語には、「同じことを言う」という意味があります。つまり、聖書に記されているイエス様を聖書と同じように告白する、ということなのです。つまり、ここでペテロが「心を一つにしなさい」と言っているのは、「一人一人のイエス・キリストに対する信仰の告白の内容が、聖書と同じであるようにしなさい」ということなのです。
 この当時から、イエス様について、聖書に書かれていないことを勝手に教える異端がいくつも出てきていました。「イエスは神ではない。ただの人間だ」「イエスが人となったように見えたのは、幻だ」「イエスの十字架では、完全な救いは達成できない」など、間違った教えが教会の中にも入り込んできたのです。ですから、イエス様について、信仰の告白を一つに保つことは、とても大切なことでした。実際にイエス様と生活し、イエス様の教えを聞き、イエス様のみわざを目撃し、十字架にかかって死んで葬られたイエス様を見、三日目に復活されたイエス様にお会いした弟子たちが書き記した聖書の内容こそ、私たちが信じるべきものであり、聖書と同じ告白をすることが、純粋な信仰を保ち、本当の救いを受け取るために必要なことなのです。そこが一致しなければ、教会は成り立ちません。
 父、御子、聖霊なる三位一体の唯一の神様がおられること、神であるのに人となって来てくださったイエス様の十字架によって、私たちの罪が完全に赦されること、また、復活したイエス様が私たちに永遠のいのちを与え、魂の牧者、監督者としていつも共にいてくださること、そのイエス様をただ信じることによって救われること、それは、私たちの力ではなく、ただ愛に満ちた神様の恵みにより、聖霊の働きによってなされるのだということを信じ、告白することが教会の揺るがない土台となるのです。ですから、ペテロもパウロも「心を一つにしなさい」と繰り返し教えているのですね。私たちも、信仰の告白の一致をいつも確認しながら歩んでいきましょう。

2 互いの関係を大切にする

 それから、ペテロは「同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」と教えていますね。
 教会にはいろいろな人が集まっていますが、誰かが偉いとか、優れているというのではありません。それぞれ違いはあっても、ただ神様のあわれみによって救われ、神の家族の一員としていただいたという点では皆同じ兄弟姉妹です。ですから、自分を誇ったり、互いに比べ合ったり競い合ったりするのではなく、相手の立場を思いやり、尊重し合い、認め合い、必要な助けを与え合っていくことが大切なのですね。そうしていくときに、キリストのからだである麗しい教会が建て上げられていくのです。

3 祝福を与える

 そして、ペテロは「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」と教えています。
 でも、「『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず』なんて、冗談じゃない」と思ってしまうこともありますね。詩篇54篇5節にあるように「神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください」と思わず叫びたくなるようなときもあります。悪を行う者は、すぐにでもやっつけてしまったほうがいいと思ったり、侮辱されたら侮辱し返してもいいのではないかという気になってしまうこともありますね。
 でも、よく考えてみてください。自分自身の姿を見ると、どうでしょうか。私たちは、以前、神様に対してどのようなふるまいをしていたでしょう。
 私は牧師の家庭で育ちましたが、中学生の頃は、「イエスなどいなければ、我が家は平和だったのに。イエスなどいなくなれば、親父も目が覚めて牧師を辞めるのに」と思っていたものです。私たちは、人の悪や侮辱はなかなか赦せません。しかし、自分がどれほど愛なる神様に悪態をついて侮辱していたかということは、すっかり忘れてしまっていることがあるのですね。でも、そんな私たちに対して、イエス様は、悪を持って報いることも侮辱を持って報いることもなさいませんでした。それどこか、私たちのために十字架について、私たちの代わりに苦しみを受け、私たちの罪を赦し、豊かな愛を示してくださったのです。
 そのイエス様を模範として生きること、それが、神の民となった私たちにふさわしい生き方です。イエス様は、すべての人に神様の祝福を与えるために来てくださいました。そして、私たちは、その神様の祝福を受け継ぎ、他の人々に祝福を与えるために生かされているのです。
 聖書は、悪に対してただ無抵抗であれ、と教えているのではありません。もっと積極的に、悪に対して、かえって祝福を与えなさいと教えています。それが、神様の方法なのです。
 以前、こんな話を読みました。中国のあるクリスチャンの兄弟の話です。彼らの所有する水田は山の中腹にありました。田植えが終わると、炎天下、水車で田んぼに水を張らなければなりません。ところが、山の下の田んぼを所有している者が、彼らの眠っている夜の間に田んぼのあぜに穴をあけ、自分の田んぼに水を引いてしまいました。二人の兄弟は、翌日、田んぼに水がなくなっているのを発見しましたが、何も言わずにまた水をいっぱいに張りました。しかし、その翌日、また水がなくなっています。同じことが七日ほど繰り返されました。うわさを聞いた人たちは、「なぜ水泥棒をつかまえてこらしめないのか」といいますが、二人は何も言わずに忍耐しました。クリスチャンだから忍耐すべきだと思っていたのです。しかし、毎日水を引き、毎日盗まれ、毎日黙々と忍耐している彼らの心には平安がありませんでした。そこで、彼らは、先輩のクリスチャンに相談しました。「私たちは、クリスチャンとして忍耐しているのに、心に平安がないのはなぜでしょうか。」すると、先輩はこう言いました。「あなた方は、そのように忍耐しただけでは足りません。まず、水を盗んだ人の田んぼに水をいっぱい張ってあげ、それから自分の田んぼに水を張ってごらんなさい。」そこで、二人は、翌朝特別に早起きして、まずいつも水を盗んでいる人の田んぼに水を張り始めました。すると、不思議なことに、心が楽しくなり、水を張れば張るほどうれしくなってきました。そして、自分たちの田んぼにも水を張り終わった頃には、不平も不安も消え去っていたのです。こうして、二、三日過ぎた頃、とうとう水を盗んだ人が詫びにやってきました。そして、「これがキリスト教であるなら、私もお話を聞きに行きたい」と言ったのです
 こういう話を聞いて、すべてこのようにうまくいくとは単純に考えないでくださいね。でも、この話は、ペテロが「かえって祝福を与えなさい」という意味をよく表していると思います。私たちは、悪や侮辱に対しても、祝福を与える特権が与えられています。なぜなら、祝福の源である神様から、尽きることのない祝福を受けているからです。そして、誰かに祝福を与えることによって、自分自身がさらに豊かな祝福を受けることができるのですね。
 旧約聖書にエレミヤという預言者が登場します。ソロモン王の時代に全盛期を迎えたイスラエルの国は、その後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまいました。南ユダ王国は、アッシリアからは、かろうじて守られましたが、アッシリアの次に起こったバビロニア帝国の脅威にさらされていました。その頃に預言を始めたのがエレミヤです。もしエレミヤが「神様が守ってくださるから、あなたがたは滅ぼされることはない。大丈夫だ」と預言したら、皆、耳を傾けたことでしょう。しかし、エレミヤは正反対のことを預言しました。「あなたがたが神様に逆らってばかりいたので、もうすぐバビロンに攻め込まれる。そして、あなたがたは捕らえられ、バビロンに連れて行かれる」と。人々は、その預言に怒り、エレミヤを迫害しました。しかし、エレミヤの預言の通り、南ユダ王国はバビロニア帝国の攻撃を受け、多くの人々が捕虜となり、バビロンに連れて行かれてしまったのです。
 捕虜となった人々は、一日も早く故国に戻りたかったはずです。「バビロニア帝国はすぐに倒れるから、あなたがたは、すぐに故国に帰れるだろう」という預言を期待したことでしょう。
 しかし、エレミヤは、バビロンで捕囚生活を送る人々に驚くべき内容の手紙を書き送りました。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。』・・・まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』」(エレミヤ29章4節ー10節)
 つまり、「この捕囚生活は、これから七十年続く。だから、あなたがたはバビロンで落ち着いて生活し、長期滞在に備えなさい」というのです。しかも、敵の町であるバビロンを憎み、呪え、というのではなく、バビロンの繁栄を祈れというのですから驚きですね。敵であるバビロンのために祝福を祈ることがあなたがたの繁栄につながるのだと、神様はエレミヤを通して言われたのです。
 敵を非難することは、いつでも何の準備もなくできますね。しかし、復讐ではなく、呪いでもなく、あえて祝福を祈りなさい、それがあなたがたの祝福につながるのだから、と神様は言われるのです。
 イエス様も、マタイ5章44節ー45節でこう言われましたね。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
 パウロも、ローマ12章19節でこう言っています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
 詩篇の中には、「敵に復讐してください」という祈りが繰り返し出て来ますね。そのような祈りが出てくるのは自然なことです。ただ、自分で復讐するのではなく、神様にお任せすることが大切です。神様だけがすべての人の心をご存じで、神様だけが正しいさばきを行うことができる方なのですから、私たち自身は、すべてを神様にお任せし、神様の祝福を受け継ぐ者として、誰に対しても祝福を祈り、善を行っていこうではありませんか。
 エレミヤは、バビロンに捕囚になった人々に、こうも書き送っています。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ーー主の御告げーーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」神様は、私たちのために平安と将来と希望を与える計画を立ててくださっています。ですから、悪や侮辱を受けることがあっても、神様の大いなる祝福を期待して歩んでいきましょう。

 さて、今日の箇所でペテロが教えていることを、完全に実践した方がおられます。それは、イエス様です。
 マタイ9章36節には、イエス様が「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書かれています。
 へブル4章15節には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と書かれています。
 ヨハネ13章1節には、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」とあります。
 また、このペテロの手紙第一の2章22節ー23節には、こう書かれていましたね。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
 イエス様は、決して悪を持って悪に報いる方ではありませんでした。イエス様はどれほどの侮辱を受けたことでしょう。しかし、侮辱をもって侮辱に報いることはなさいませんでした。イエス様は、神である方なのに、人として来てくださいました。そして、謙遜に神様のみこころに従い続け、罪のない方なのに、人の罪を背負うという、考えられない苦しみを受けてくださいました。しかも、十字架上で、御自分を侮辱し罵倒する者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。また、十字架についた犯罪人に、天国の祝福の約束をなさいました。イエス様は、最後の最後まで、人々をとりなし、希望を与え、祝福を与え続けられたのです。
 人は、誰を信頼して生きるかによって、その生活やふるまいが違ってきます。私たちは、心を一つにしてイエス様を信じて歩む者です。だから、そのふるまいは、イエス様のふるまいに近づいていくはずです。それは、私たちが自分の力でできることではありません。私たちがキリストのようにふるまうことができるように、イエス様、そして、聖霊が助けてくださるのです。聖書には、次のような約束が書かれています。
 「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3章21節)
 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3章18節)
 ペテロが、今日の箇所で教えていることの背後には、キリストご自身が、また、聖霊なる神ご自身が、私たち一人一人をキリストと同じ姿に変えてくださるという信仰の告白があるのです。
 私たちも、そのことを告白し信じつつ、祝福を受け継ぐ者として今週も歩ませていただきましょう。