城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年九月二九日             関根弘興牧師
               第一ペテロ三章一〇節〜一二節
ペテロの手紙連続説教15
  「幸いな日々を過ごすために」

10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、11 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。 12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」


前回、私たち主にある一人一人は、「祝福を受け継ぐために召された者たち」であることを学びました。だから、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」とペテロは教えています。しかし、そんなことは出来ないと思う方もおられるでしょう。もちろん自分の力でできる人は誰もいませんね。でも、ただ一人だけ完全に実践した方がおられましたね。それは、もちろんイエス様です。
 このイエス様を信じて受け入れる私たちの内に、イエス様は、もう一人の助け主である聖霊を与えてくださいました。ですから、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三位一体の神様がいつも私たちと共にいて、私たちを生かし、成長させ、守り導いていてくださるのです。
 私たちは、敵対する人を赦したり、その人のために祝福を祈ることがなかなか出来ない弱い者ですが、私たちの内に宿ってくださる聖霊が、私たちをキリストのような姿に変え続けてくださるのです。
 第二コリント3章18節に、こう書かれている通りです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 さて、今日の箇所で、ペテロは、詩篇34篇12節ー16節の言葉を引用しています。私たちは皆、「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者」ですね。そのためには、どうすればいいかがここに書かれています。詳しく見ていきましょう。

1 幸いな日々を過ごすために

@悪を言わず

まず、「舌を押さえて悪を言わず」とあります。
 「舌を押さえる」とは、「舌を制御する」「舌をコントロールする」ということです。しかし、これがなかなか難しいですね。
 ヤコブ3章2節ー6節には、こう書かれています。「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。」
 ほんのひと言が自分や相手の人生に大きな影響を及ぼすことがありますね。ですから、舌をコントロールすることは、とても大切なことなのですが、ヤコブは「私たちクリスチャンであっても、ことばで失敗することが多いのだから、気をつけなさい」と教えているのです。
 舌をコントロールすることは、本当に難しいですね。昔も今も言葉で失敗したことのない人はいないでしょう。
 そして、「悪を言わず」と書かれていますが、「悪を言う」とは、聞いた人のいのちを危うくするようなことを言う、聞いた人の生きる力を失わさせてしまうようなことを言う、ということなのです。
 箴言には、言葉に関する注意がたくさん書かれています。
「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」箴言15章1節
「知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。」箴言15章2節
「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。」箴言12章18節
 言葉は、人をいやし、生かすこともあれば、人を刺し殺すようなこともあるというわけです。
 皆さん、自分が使っている言葉をそのまま他の人から言われたらどう思うか、想像してみてください。頭にきませんか。私たちは、時々、身近な人に対して、夫に対して、妻に対して、親に対して、子どもに対して、あまりにも不用意に辛辣な言葉を投げかけていないでしょうか。
 ある牧師さんのところに、一人の奥さんが相談に来られました。お姑さんにこう言われたというのです。「お前さんが嫁に来てから、わたしゃ心の安まる日がないよ。」時間にすれば、たった三秒、四秒の言葉です。しかし、お嫁さんの心には、それが大きな痛みとして残ったわけです。
 「おまえなんかいてもいなくても変わらないな」と言われて自殺した青年がいます。存在を否定する言葉は、人に苦痛を与えるだけでなく、いのちを奪うことさえあるのです。
 私たちは、いのちを奪うような言葉ではなく、いのちを与えることばを語っていきたいですね。
 そのためには、「舌を押さえる」ことが必要です。私たちが何かを語るときには、少しばかりの意志を用いて準備することが大切なのですね。
 箴言18章21節に、「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」と書かれています。
 人が死に向かうか、いのちに向かうかは、その人が何を語り、何を告白するかによって決まっていくというのですね。ですから、私たちは、自分が何を語っているのかを冷静に省みることが大切です。「もう何をやっても無駄だ。駄目だ」と語り続けていると、確かにそのような方向に向かっていきますね。「人生には生きる意味などない」と語り続けるなら、虚しい人生を送ることになるでしょう。しかし、「私の人生には希望がある、なぜなら、死を打ち破られたキリストが共にいてくださる」と告白し続けるなら、必ず希望が生まれてきます。「私は神様に愛されている」と告白し続けるなら、喜びと平安が生まれてくるのです。
 パウロは、ローマ10章9節で「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と記しています。救いに至る告白は、いのちに至る告白でもあるわけです。
 死と生は舌に支配される、だからからこそ、いのちを失わせる悪の言葉を語るのではなく、人も自分も生かす言葉を語っていく者でありたいですね。

A偽りを語らず

次に、「くちびるを閉ざして偽りを語らず」とあります。
 「偽りを語る」とは、「正直でない」「誠実でない」ということです。本当の自分を隠し、別の者のように装うことです。聖書は、偽りを語ることの愚かさを繰り返し教えています。
 初代教会で最初に起こった大きな問題が使徒5章に書かれていますが、その時問題になったのも「偽り」ということでした。
 イエス様が十字架で死に三日目に復活された後、弟子たちに聖霊が注がれ、弟子たちは大胆にイエス様が救い主であることを宣べ伝え始めました。すると、クリスチャンの数は、三千人、五千人と増えていきました。当時の教会は、特別な建物はなく、個人の家に集まって共に礼拝し、祈り、必要なものをささげ、助け合っていました。自分の地所を売った代金をささげる人たちもいました。将来教会の指導的立場に付くことになるバルナバという人も自分の畑を売った代金を持って来てささげました。すると、それに対抗するかのように、アナニヤという人が自分の地所を売った代金を持ってきました。誰の心にも見栄とか人と比較して競おうとする思いがありますね。アナニヤは、バルナバに対抗心を燃やし、自分が脚光を浴び、リーダーになりたいと思ったのかもしれません。彼は、「私の地所を売った代金を全部おささげします」と言ったようです。しかし、実は、彼は、妻も承知の上で、地所を売った代金の一部を自分のものとして残しておいたのです。それなのにあたかも全額ささげたかのように見せかけたわけですね。
 ペテロは、そのことを見抜いて厳しく言いました。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
 この言葉を聞いたとたん、アナニヤは、倒れて息が絶えてしまいました。その後、三時間ほどたって、この出来事を知らない彼の妻がやってきました。ペテロが、「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか」と聞くと、彼女も「はい。その値段です」と偽りを言ったのです。ペテロが「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか」と言うと、彼女もたちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えてしまいました。彼らが代金の一部を自分たちのために残しておいたこと自体は別に悪いことではありません。問題は、そのことを隠して、全額ささげたかのように神様のみまえで偽ったことです。
 神様は、私たちのすべてをご存じです。その神様の前で自分を隠したり、偽ったりすることは、神様との親しい関係を妨げることになります。私たちは見栄を張って表面的にクリスチャンらしく演技して生きる必要はありません。神様の前で格好つけるのは滑稽なことですね。いつも神様の前で正直になろうではありませんか。正直に自分の弱さを認め、告白すればいいではありませんか。見栄を張って信仰生活を続けても疲れるだけです。教会で他の人と比較したり、賞賛されようとする必要はありません。献金するのが惜しくなったら、「惜しくなりました」と正直に言えばいいではありませんか。アナニヤ夫婦も地所を売った代金を全額献げることが惜しくなったのなら、そのまま正直に話せばよかったのです。神様との隠し立てのない親密な交わりの中でこそ、心から喜んで献げることの大切さを知っていくことができるのですから。
 神様の前に偽らず、正直に、誠実に生きることが幸いへの道なのです。

B善を行い

 次に、「悪から遠ざかって善を行い」とありますね。
 「善を行う」というと、善行に励むとか、何か立派なことを行うというイメージを持ってしまいがちですが、聖書が教えている「善を行う」とは、そういうことではありません。
 マルコ3章1節ー5節に、こんな出来事が書かれています。
 「イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは手のなえたその人に『立って真ん中に出なさい』と言われた。それから彼らに、『安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか』と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。」
 これは、ガリラヤ湖に面するカペナウムにあるユダヤ人の会堂で起こった出来事です。その日は安息日でした。安息日には、一切の労働が禁止されていました。医療行為すら禁じられていたのです。ですから、片手のなえた人を癒やすのも規則違反でした。しかし、イエス様は、「安息にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言ってその人をいやされましたね。つまり、聖書が教えている「善を行う」とは、「いのちを救うこと」であり、「悪を行う」とは、いのちを失わせてしまうこと」なのですね。
「善を行う」ことが、「いのちを救うこと」だとしたら、それは、どこから始まるのでしょうか。もちろん、イエス様の約束から始まるのです。
 イエス様は、ヨハネ10章10節ー11節でこう約束しておられます。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
イエス様は、私たちのために十字架で御自分のいのちを捨て、三日目に復活されました。それによって、私たちは、罪の赦しと永遠のいのちを得ることができたのです。このイエス様こそ善なる行いの模範です。そして、その行いは、私たちに対する深い愛からなされたものでした。
 つまり、「善を行う」とは、「愛し、生かすこと」なのですね。といっても、「私には善を行うことはできない。人を愛したり生かしたりできない」と心配する必要はありません。
 パウロは、エペソ2章10節でこう記しています。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。 」
  私たちは、神様の恵みによって、イエス様から愛といのちを受け、イエス様とともに歩む者とされました。神様は、私たちを、良い行いをする器として、イエス様に似た者になるように造ってくださったというのです。しかも、私たちがすべき良い行いも神様が備えてくださっているというのですから、私たちは、ただ神様を信頼して歩んで行くなら、善を行っていくことができる、つまり、愛に生き、人を生かす者として歩んで行くことができるということなのですね。 

C平和を求めよ

 そして、「平和を求めてこれを追い求めよ」とありますね。 この「平和」とは、「平安」「やすらぎ」と同じ意味です。 旧約聖書のヨブ記22章21節に「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」とあります。
 人は、神様との関係が正しくされないかぎり、本当の平安を得ることができないと聖書は教えています。神様に背を向けて、無視し続けているなら本当の安らぎを見いだすことはできないのです。
 しかし、パウロは、ローマ5章1節でこう記しています。 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
 イエス・キリストが私たちの身代わりに十字架にかかり、私たちが受けるべき罪の罰をすべて受けてくださいました。それを信じるなら、神様から罪のない者、正しい者と認められ、神様との親しい関係が回復され、神様に「お父さん」と親しく呼び求めることのできる神の子どもとして全き平安を持って生きることができるのです。
 ですから、平和を求めることは、神様との関係の回復を求め、それを継続していくことです。「追い求めよ」というのは、いつもいつも求め続けていこうということですね。クリスチャンになっても、人生にはいろいろな悲しみ、苦しみ、戸惑いがあり、平安が消えてしまったかのような経験をすることもありますね。でも、そういう時にこそ、改めて、神様との親しい関係に守られていることを思い起こし、平安を取り戻していくのです。

2 主の約束

そして、12節には、素晴らしい約束が書かれていますね。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」
 「義人」とは、神様を信頼する人々、イエス様の救いを信じ受け取った人々のことです。その一人一人に主の目が注がれているというのですね。詩篇121篇には、主がまどろむことも眠ることもなく、常に私たちを見守ってくださっているということが書かれています。神様が私たちを見失うことは決してありません。だから、安心ですね。
 また、主は、信頼する人々の祈りにいつも耳を傾けてくださっています。
 つまり、私たちは、決して神様に見捨てられることも無視されることもありません。どんな状況にあっても、主は私たちを見ておられ、私たちの祈りを聞いてくださるのです。
 そして、「主の顔は、悪を行う者に立ち向かう」とありますが、「主の顔」とは、「主御自身」を表す表現です。主御自身が悪に立ち向かってくださるというのですね。
 悪とは、いのちを奪い、いのちを失わせる行為そのものです。この世界には、そのような働きがあります。しかし、誰も、私たちに与えられたいのちを奪うことはできません。なぜなら、主が共にいてくださり、守ってくださっているからです。

  聖歌560番は私の好きな聖歌です。歌詞は、このような内容です。

  1 心に在るこの安きを奪うもの地に無し、
    試みにて苦しむとも、我が安き動かじ
我がものなる主を宿す、その喜び言い難し、
主のたまえり、 我などて汝を捨てて去るべき

3 この安きを持てる土の器なる我が身も、
やがてイエスに会わば変わらん、栄えある姿と
  我がものなる主を宿す、その喜び言い難し、
主のたまえり、我などて汝を捨てて去るべき