城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一〇月六日             関根弘興牧師
               第一ペテロ三章一三節〜二六節
ペテロの手紙連続説教16
    「弁明の用意」

13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。17 もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。(新改訳聖書)


 私たちにとって、聖書を読むことはとても大切です。聖書の言葉には、慰めがあり、励ましがあり、素晴らしい約束があふれています。また、聖書の言葉は、私たちを生かし、成長させ、私たちの人生を導く道しるべとなるのです。
前回の箇所で、ペテロは、詩篇34篇の「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう」という言葉を引用し、信仰の仲間を励ましていましたね。
 義人、つまり、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められ、主を信頼して生きる人々を、神様は常に見守っていてくださり、その人々の祈りに耳を傾けてくださっているというのです。そして、主は「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださっていますね。たとえ、悪を行う者が襲ってきても、主御自身が私たちの盾となり、悪い者に立ち向かってくださる、だから、大丈夫だ、安心しなさい、というのですね。
 しかし、そうは言っても、実際に苦しみや困難が襲ってきたら、どうでしょう。どのように対処していけばいいのでしょうか。そのことが、今日の箇所から3章の後半に記されています。

1 善に熱心であれ

ペテロが前回引用した詩編34篇には、「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ」とありましたね。
 前回お話しましたように、「悪」とは、いのちを奪い、いのちを失わせること、そして、「善」とは、人を生かし、いやすことです。
 イエス様は、「善」の模範を示してくださいました。そのイエス様を信じて新しいいのちに生かされている私たちは、イエス様につながる者として、善を行うために召されているのです。それは、自分で頑張って善行を行うべきだ、という意味ではなく、イエス様の愛といのちを与えられた私たちの存在そのものが、人を生かし、いやすような者へと変えられていくということなのです。
 さて、今日の箇所の最初に、ペテロは、「もし、あなたがたが善に熱心であるなら」と書いていますね。
 この「熱心」というのは、「熱心党」とも訳される言葉です。イエス様の十二弟子の中に熱心党員シモンという人がいますね。「熱心党」というのは、当時のユダヤの政治結社で、熱狂的な愛国者たちでした。自分たちの国から外国勢力を追い出すためには命も投げ出すことも厭わず、あらゆる手段をとろうとした過激な人たちです。ガリラヤ地方では、熱心党員たちの暴動が起こったこともありました。
 その「熱心党」という言葉を使って、ペテロは「あなたがたは善を行う熱心党になれ」「善を行うことに熱くなれ」と記しています。人を生かし、いやすために熱くなれというわけです。 ペテロがそう言うのは、神様御自身が熱心なるお方だからです。イザヤ9章6節ー7節にこう書かれています。
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
 主の熱心とは、私たちを愛し、赦し、生かそうとする熱心です。私たちのために御子イエスを遣わし、十字架の苦しみさえ厭わずに救いを与えようとする熱心です。この主の熱心があるからこそ、私たちは、こうして主を礼拝しつつ生きる者とされているわけです。つまり、私たちは、神様の熱心な愛に中に生きる熱心党員とされているわけですね。だから、私たちは、自分の存在を通して、自分の出来ることを通して、人を生かし、いやすことに熱心になることができるのです。クリスチャンは熱いのですよ。
 しかし、そうした歩みは、決して、困難や苦痛がないということではありません。よかれと思って行ったことが理解されず、ただ誤解だけを生んでしまうということもあるでしょう。神様を信頼し生きているのに、思うように行かない現実にため息が出ることもあるかも知れません。しかし、ペテロは、「だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」と記していますね。善に熱心であるなら、困難や苦しみがあっても、それによって害を受けることはない、かえって幸いなことなのだ、というのです。
 イエス様は、マタイ5章10節で「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われました。
 「義」とは、ただ「正しいこと」という意味だけではありません。神様との関係も表しています。神様を信頼し、神様の恵みの中に歩んで行こうとすることです。そのために迫害されることもあるけれど、神様が私たちを御自身の支配の中に守ってくださるというのです。
 ペテロも、神様に信頼して生きていくなら、たとえ困難や苦しみがあっても、神様がいつも私たちの味方となってくださるのだから、かならず幸いを見い出すことができる、という揺るぎない確信と希望を持っていたのです。だから、「彼らの脅かしを恐れたり、心を動揺させたりしてはいけません」と励ましているのですね。

2 キリストを主としてあがめよ

しかし、実際に命の危険や困難に直面すると、私たちは、恐れたり、心を動揺させたりしてしまいますね。「恐れてはいけない」「動揺しないようにしよう」と思っても、なかなか思うようにはいきません。そして、そんな自分を責めたり、「私は不信仰だから恐れてしまうのだ」と落ち込んでしまう方もおられるのではないでしょうか。
 そこで、ペテロは、もっと積極的な対処法を教えています。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい」というのです。自分で何とか頑張って恐れや動揺を抑えようとするのではなく、キリストを見上げ、キリストがすべてを支配しておられる主であることをあらためて思い起こし、キリストにすべてをおゆだねしなさい、というのですね。
 ですから、こうして毎週キリストに礼拝をささげていくことは大切です。私たちは、いつも同じ思いで礼拝しているわけではありません。調子が悪いときも落ち込んでいるときもありますね。しかし、それでもあえて心の中でキリストを主としてあがめるのです。「イエス様が私の主です」と告白するのです。それは、イエス様が私たちのすべてを支配してくださっているという告白です。また、主が私の人生に最善のことを行ってくださることができるという告白です。それによって、恐れや心の動揺に屈することなく、前進していくことができるのです。
 ヘブル10章23節には、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」と書かれています。聖書には他にも「恐れないで」「動揺しないで」と書かれている箇所がたくさんあります。それは、私たちが恐れやすく動揺しやすいからですね。でも、だからこそ、こうした礼拝を通して、主の約束を信頼し、しっかりと希望を告白し続けることが大切なのです。
 私は、クリスチャンとは不思議な人たちだと思うのですね。なぜなら、善に熱心であっても、平穏無事が補償されているわけではありません。義のために苦しむということもあるわけです。しかし、それでも「幸いだ」と告白できるというのですから、不思議ですね。もし、決して失われることのない希望がなければ、考えられないことですね。
この手紙が書かれた当時から、クリスチャンたちに対するローマ皇帝の迫害は非常に激しくなっていきました。でも、どんな強大な力を持った皇帝も、クリスチャンたちを根絶することはできませんでした。それどころか、クリスチャン殉教者たちの姿を見た多くの人たちが、「あの人たちは、私が持っていないものをもっている」「天を見つめ、讃美歌を歌っている」「あの人たちの希望はどこから来るのだろうか」と感じ、かえって福音が広まっていったのです。
 私の父は、初めて教会に言ったとき、説教の内容はまったくわからなかったそうです。しかし、喜びを持って説教を語る牧師の顔を見て、「この人は、私が持っていないものを持っている。この人の持っている希望を私も得たい」と思って、教会に通い始め、クリスチャンになりました。
 私たちが、心の中でキリストを主としてあがめているなら、その姿を通して、キリストが示されていくのですね。

3 弁明の用意

 しかし、時には、質問してくる人もいるかもしれません。その時には、どうすればいいのでしょうか。ペテロは、こう書いていますね。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。」 

(1)弁明の時

まず、ペテロは、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人」がいたら弁明できるようにと書いていますね。「いつでもどんな時にも自分から積極的に語っていきなさい」というのではありません。なんだか消極的な感じがしますね。でも、聞く意志のない人にただ闇雲に語っても、かえって逆効果になることが多いでしょう。伝道者3章7節に「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」とあるように、黙っているべきとき、話すべきときがあるのです。
 前回も引用しましたが、エペソ2章10節には「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」とあります。神様が私たちのために話すべき時を備えてくださいます。その時に、必要な説明ができるように準備しておきなさい、とペテロは言っているのですね。

(2)弁明の内容

 では、私たちは、何について弁明すればいいのでしょうか。 ペテロは、「あなたがたのうちにある希望について」と言っていますが、この「希望」とは、どのようなものでしょうか。 コロサイ1章27節に、こう書かれています。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」つまり、私たちのうちにおられるキリストこそ、栄光に満ちた希望なのです。
 ですから、私たちが弁明するのは、イエス・キリストのことです。イエス様がどのような方で、私たちの人生にどのようなことをしてくださったかをいつでも話すことができるように準備しておきなさいということなのです。
 では、イエス様は、どのような方でしょうか。鏡は、簡潔にイエス様の四つの姿を紹介しますので、是非、覚えておいてください。

@イエス様は一切の権威を持っておられる

イエス様は、マタイ28章18節で「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と言っておられます。
 イエス様は、神なる方であり、すべての権威を持っておられるお方です。ガリラヤ湖で嵐に遭遇したとき、イエス様が「静まれ」とお命じになると、嵐は静まりました。また、イエス様がお命じになると、どんな病もいやされ、盲人が見えるようになり、歩けない人が歩けるようになりました。死人もよみがえりました。また、「あなたの罪は赦された」「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」と罪の赦しや救いを宣言する権威も持っておられました。
 イエス様は、父なる神様から与えられた権威によって、神様のみこころを宣言し、実現することがおできになる方なのです。

Aイエス様は仕えるために来てくださった

イエス様は、神様と同じ権威と御性質を持っておられる方なのに、人となって私たちと同じ立場にまで降りてきてくださいました。そして、その絶大な権威を御自分のためではなく、ただ私たちの救いのために使われたのです。
 マルコ10章45節でこう言っておられます。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
イエス様は、神様のみこころに徹底的に従われ、私たち一人一人を救うために、御自分のいのちさえ与えてくださいました。私たちの罪が赦されるために、御自分が身代わりとなって十字架についていっさいの罰を受けてくださったのです。そして、三日目によみがえり、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。イエス様の十字架と復活によって、私たちは罪赦され、新しいいのちに生きる者とされ、神様との親しい関係の中で生きていくことができるようになったのです。

Bイエス様は私たちを友と呼んでくださる

 ヨハネ15章14節で、イエス様は、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。「わたしがあなたがたに命じること」とは、神様を愛し、人を愛することです。イエス様は、その命令をただ命じて終わりというのではなく、私たちがその命令に従って生きることができるようにしてくださるのです。私たちは、イエス様に信頼して歩んでいくとき、愛に生きる者へと変えられていきます。
 そして、その私たちを、イエス様は、上から支配するのではなく、友と呼んでくださるのです。旧約聖書には「王の友」という役職が出て来ます。王の友というのは、王と親しく語りあうことができ、王の思いや計画を打ち明けてもらえる存在です。イエス様の友となった私たちは、いつも愛と恵みに満ちたイエス様と本当に親密な関係を持ち、イエス様と思いを共有し、共に歩んでいくことができるということなのですね。素晴らしいではありませんか。

Cイエス様はいつも私たちとともにいてくださる

 そして、イエス様は、マタイ28章20節で「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束してくださいました。イエス様が私たちを見捨てることは決してありません。どんな困難や苦しみの中でも、いっさいの権威を持ち、私たちの最善を願い、ともに歩んでくださるイエス様がおられるのですから、私たちは、安心して希望を持って生きてくことができるのですね。

(3)弁明の方法

 さて、弁明するときには、内容も大切ですが、どのように語るかも大切ですね。ペテロは、「優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」と教えています。
 これは、話を聞きたいと求めてきた人に対して、上から目線で教えてやろうという態度をとったり、強引に説き伏せようとしたりするのではなく、相手の状態に合わせて、わかりやすく、謙虚に、偽りのない言葉で、正直に誠実に、自分がイエス様について知り、味わったことを語るということです。
 その時に、自信をもって語ることが必要です。自信を持って語るというのは、自分を偉く見せようとか、自分がいろいろ知っていることをひけらかすという意味ではありません。イエス様が自分にしてくださったことを誇るのです。自分は弱く、虚しく、罪ある者だったけれど、イエス様の十字架と復活によって罪が赦され、永遠のいのちを与えられ、新しく造られた者として生きていく者とされたという自信です。
 パウロは、第一テモテ1章15節で「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」と記しています。パウロは、自分が以前はキリストを拒否し、クリスチャンを迫害していた罪人のかしらだと深く自覚していました。しかし、その一方で、そんな罪人の自分をさえ救ってくださったキリストの愛を知り、キリストによって新しくされた人生に誇りと自信を持っていました。ですから、捕らえられてローマの総督とアグリッパ王の前に引き出されたとき、大胆にこう言ったのです。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(使徒26章29節)
 すべての人が、私と同じように、キリストの愛を知り、キリストを信じて救われ、新しい人生を生きてほしい、とパウロは心から願っていたのです。
 私たちは、自分の弱さや汚れを隠して立派に見せかける必要はありません。こんな弱い私を愛し、救い、ともに歩んでくださる救い主イエス様がおられる、ということを誠実に伝えていけばいいのですね。

 さて、私たちがそのように希望を語りつつ生きていくとき、その生き方をののしる人もいることでしょう。私たちの人生は、いろいろな事が起こります。善を行い生きたとしても、悪を行い生きたとしても、どちらにしろ苦しみはあるのです。それなら、善を行って苦しみを受けた方がよっぽでいいではないか、とペテロは記しているのですね。
 たった一度の人生ですから、そして、いずれにせよ困難があるなら、イエス様からのいのちを受け、イエス様とともに善を行い、人を生かし、いやす働きのために用いられていく、そんな人生を選び取っていこうではありませんか。