城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一〇月一三日           関根弘興牧師
              第一ペテロ三章一八節〜四章六節
ペテロの手紙連続説教17
    「救いの範囲」

 18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。
1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。(新改訳聖書)


前回、ペテロは、「善を行うことに熱心になろう」つまり、「人を生かし、癒やす働きに熱心になろう」と記していました。その模範となるのは、もちろんイエス様です。イエス様は、人を愛し、生かし、救うことに最も熱心な方でしたね。
しかし、善に熱心であれば、苦難や困難は一つもないかというと、そうではありません。ペテロは、「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです」と記しています。私たちが苦しみを受けるとしたら、それは神のみこころであり、その苦しみには意味があり、永遠の希望へとつながっています。一度きりの人生なのですから、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受ける方がよいではないか、とペテロは言っているのですね。
 そして、今日の箇所では、ペテロは再び、徹底的に善なることを行い、人を生かし、救い、癒やすことに徹し、十字架の苦しみを通られたイエス様の姿を、一人一人の心に刻みつけようとするかのように書き記しています。

1 模範なるキリストの苦しみと栄光

(1)キリストは、苦しみを受けられた

 まず、18節で、ペテロは、こう書いていますね。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」
キリストは、悪い人々の身代わりとなって、罪のために死なれたというのですね。
 旧約聖書では、人々は、律法に従って、自分の罪を赦していただくために、動物のいけにえを繰り返しささげていました。しかし、それは、不完全ないけにえでした。ヘブル10章1節ー4節にこう書いてあるとおりです。「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」
 しかし、罪も汚れもない完全な神の子羊であるキリストが、私たちの罪のためのいけにえとなってくださいました。そして、ヘブル10章10節にあるように「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされている」のです。キリストは完璧ないけにえですから、ただ一度十字架で御自身をささげることによって、すべての人の罪を完全に贖うことがおできになったのです。
 4章1節に「キリストは肉体において苦しみを受けられた」とありますが、キリストが私たちと同じ肉体を持つ人となって、人の代表として苦しみを受けられたことは、私たちの救いのためにどうしても必要なことだったのです。

(2)キリストは、私たちを神のみもとに導いてくださる

 ペテロは続けて「それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした」と書いていますね。
 イエス様は、十字架について死なれましたが、三日目に復活されました。それは、私たちを神のみもとに導くためでした。本来、罪ある者は、聖なる神様に近づくことなどできません。しかし、イエス様の十字架によって罪を赦され、イエス様の復活によって永遠のいのちを与えられた私たちは、神のみもとに大胆に近づくことができるようになったのです。
 
(3)キリストは、すべてのもの王の王、主の主である

 そして、3章22節には、「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます」と書かれていますね。
 ピリピ2章6節ー11節にこうあります。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
キリストは、御自身が苦しみを受けることによって、私たちに救いをもたらし、栄光の座に着かれました。そのキリストと同じように、私たちの苦しみも、人々に救いと将来の栄光につながっているのです。
 
2 キリストの救いの範囲

 それでは、イエス様の十字架と復活によって成就した救いは、どこまで及ぶのでしょうか。生きているうちにキリストを信じた人は、救われることがはっきりしていますが、生きているうちにイエス様を信じなかった人や、そもそも福音を聞く機会のなかった人はどうなるのでしょうか。
 実は、「福音を聞く機会がなく、イエス・キリストを信じることなく死んだ人々は、死後、どうなるのか」ということについて、聖書には、明確な説明が書かれていません。それで、聖書の様々な箇所をもとにして、いろいろな解釈が生じているわけですね。
 今日の箇所も死後の問題が議論されるときによく取り上げられるのですが、ここは、キリスト教会の歴史の中で非常に難解な箇所として取り扱われ、様々な解釈がされてきました。そんな箇所をもとに説教するのはとても大変なのですが、まず皆さんに覚えておいていただきたいのは、聖書を読むときに大切な原則が二つあるということです。第一に「一つの箇所にしか記されておらず、解釈が多岐にわたる場合は、断定した教理を立ててはいけない」、第二に「聖書は聖書によって解釈されなければならない」という原則です。私たちはこの二つの原則をいつも覚えている必要があります。さもないと、極端な教えに走ったり、異端になることさえあるからです。そのことをふまえて見ていきましょう。

(1)3章19節ー20節の解釈

 まず、19節に「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです」とありますね。
 この内容は、ここ以外の聖書の箇所にはどこにも記されていません。しかも、様々な解釈が可能なので、断定的に「これは、こういう意味です」とはっきり語ることはできないのです。むしろ、断定的な解釈をする人がいたら、かえって危ないということになります。それでもできる限りの理解はしておきましょう。
 この箇所をそのまま素直に読むと、19節は、「イエス様は、死んでから(十字架と復活の間に)、捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られた」ということですね。
では、「捕らわれの霊たち」とは誰のことでしょう。20節に「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです」とありますね。
 創世記のノアの箱舟の記事はご存じの方が多いでしょう。人が神様に背いて自分勝手に生きるようになると、全地が悪と堕落に満ちてしまいました。そこで、神様は、こう言われました。「わたしはこれから大洪水を起こして全地を滅ぼそうとしている。あなたは大きな箱舟を造って妻と三人の息子夫婦と共に乗りなさい。」ノアが、巨大な箱舟を完成させるまでには、長い年月が必要でした。ノアは、その間、まわりの人々に警告を与え続けたことでしょう。ところが、人々はまったく見向きもしませんでした。箱舟が完成し、ノアの家族と動物たちが乗り込むと、大雨が降り始め、地上は水に覆われてしまったのです。この時、ノアが伝えた神様の警告の言葉に従わずに死んでしまった人々が「捕らわれの霊たち」だとペテロは説明しているのですね。
 さて、問題は、イエス様が捕らわれの霊たちに語られた「みことば」とは、どのようなものだったのかということですが、大きく次の二つの解釈に分かれています。
@「捕らわれの霊」とは、神様に背いた悪しき人たちだけでなく、超自然的な悪しき存在、悪霊などを含む神様に敵対する存在すべてのことで、イエス様は、彼らのところに行って、救いのみわざが完成したことの勝利宣言を行うとともに、彼らに罪のさばきを宣告なさったという解釈です。確かに、イエス様は勝利者ですし、悪しき者を滅ぼすお方ですから、そのように解釈することも出来ますね。
Aイエス様は、神様に従わずに死んでしまった人々に対して福音を語り、悔い改めの機会を与えたという解釈です。この説によれば、死後も信じて救われるチャンスがあるということになりますね。

(2)4章5節ー6節の解釈

 それから、4章5節ー6節には、こう書かれています。「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」
 ここに出てくる「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」という言葉にも、二つの解釈があります。
@「今は死んでいる人々の生前に福音が宣べ伝えられていた」という解釈
A「死んでしまった人に、死後に福音が宣べ伝えられていた」という解釈。イエス様の福音を聞く機会のなかった人たちが死んだ後に福音を聞く機会が与えられるという解釈です。

 このように、同じ箇所からまったく違う解釈が生まれてくるのですね。ですから、「生きている間にキリストを信じなければ救われない。だから、熱心に福音を伝えていかなくてはならない」と考える人もいますし、「死んだ後にも、福音を聞いて悔い改めるチャンスがある」というセカンド・チャンス論を唱える人もいます。「すべての人にではないが、セカンド・チャンスを与えられる人もいるのではないか」と考える人もいます。
 しかし、私たちが聖書から正直に言えるのは、「私たちにはわかりません。神様だけがご存じです」ということだけなのですね。
 ただ、はっきり言えることがあります。神様は、すべての人を愛しておられ、すべての人の救いを願っておられます。また、神様は、一人一人の置かれた状況も心の状態もすべてご存じです。私たちは、いろいろ疑問を持ちますね。イエス・キリストが来られる前の時代の人や福音を聞く機会の全くなかった人、赤ちゃんや障害を持っていて福音の言葉を理解出来ない人は、どうなるのだろうと。私たちには、ただ愛とまことに満ち、えこひいきすることのない公平なさばきをなさる神様に委ねていきたいですね。
 ペテロが、今日の箇所で言いたいことは何なのでしょうか。 イエス様の十字架はすべての人の罪を背負う十字架でした。すべての人が救われることを神様は願っていてくださいます。ですから、少なくとも、この箇所は、イエス様がすべての人に対して、神様の救いを示さずに放置されることはないということを教えているように思うのです。つまり、イエス様の十字架と復活によってもたらされた恵みの届かないところは、どこにもない、しかし、その応答はひとりひとりにかかっている、ということを教えているのではないかと思うのです。
 ペテロは、また、5節で、生きている人々にも死んだ人々にもさばきが行われると記していますね、これから死んだ人々にもさばき(裁判)が行われるとしたら、死んだ人々にもまだ判決が下されていないということになりますね。神様の前で、義と認められることも、断罪されることも、いのちを与えられることも、永遠の死に定められることも、これから行われるわけです。つまり、死んだ人も生きている人と同じく、決して神様から遠く離れているのではない、とペテロは言いたいのではないかと思うのです。
 ペテロは「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と記していますが、先ほどご説明しましたように、これは、生前に福音を聞いて死んでしまった人のことを言っているのだと解釈する人もいます。しかし、私は、個人的には、死んだ人にも、なおいのちの道が開かれているということも意味しているのではないかと思っているんです。
 ただ、聖書はこれ以上のことをことを書いていないので、より神秘的なことを詮索することは控えなくてはいけません。私たちは、ただ主の愛と真実に信頼して委ねていきましょう。
 
3 救いの型

さて、私たちが聖書からはっきりわかることがあります。それは、神様の言葉に信頼して従えば救われるということです。
 ノアとその家族八人が大洪水から救われたのは、神様の言葉に従って箱船に乗り込んだからですね。この箱舟に乗り込んで救いを得たという出来事は、イエス様という救いの舟に乗り込んで救われることを象徴的に表しています。
 そして、ペテロは、こう書いていますね。「わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」
 「バプテスマ(洗礼)」とは、体を水に浸し、水から出てくる単純な儀式ですが、救いの象徴だというのですね。といっても、洗礼という儀式を行うから救われるのではありません。私たちは、イエス様を信じ、イエス様によって罪赦され、復活のいのちにあずかったことの告白として洗礼を受けるのです。ペテロは「洗礼は、正しい良心の神への誓いである」と難しい言葉で書いていますが、それは、つまり、「これから神様を信頼し、イエス様とともに生きていきます。右にそれたり左にそれたりしやすい者ですが、よろしくお願いします」と告白することなのです。
 洗礼は、人生の大きな分かれ目であり、イエス様と共に生きる生活の始まりです。以前の生活とは違う新たな生活が始まるいうことなのですね。そのことをペテロは、そのことを4章に記しています。

4 人間の欲望のためではなく、神のみこころのために

 ペテロは、4章2節で「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです」と書いていますね。私たちは、虚しい過去の生き方を捨てて、キリストによって変えられた生涯を歩んで行くようになるというのです。
 3節に、「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です」とありますね。当時の社会では、たくさんの神々や女神を祭り、神殿娼婦がいて、祭りには酒がつきものでした。度を超した宴会騒ぎ、泥酔状態など、ここに上げられていることは、当時はごく普通の当たり前の光景でした。しかし、これら一つ一つが、関係を破壊し、悪を行わせる行為、つまり、大切ないのちを損ない、破壊する行為でした。
 私たちの信じる神様は、秩序ある方であり、愛と真実に満ちた聖なる方ですから、その方と共に生きるなら、以前の欲望に生きる生活から離れていくことになります。私たちがいのちを生かし、癒やす行いに向かおうとするなら、それまでの虚しい情欲に溺れる生活から離れていくのです。そんな姿を昔の仲間が見て、「自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います」とペテロは書いていますね。「クリスチャンになったら、付き合いづらくなったな」と言うわけです。また、「神殿の祭りに参加しないなんて、お前はいつから無神論になったのだ」と、責める人たちもいたというわけですね。しかし、クリスチャンとして新しく生きていくとき、結果的に、人々から信頼される者へとなっていくのです。

 私たちは、誰もが肉体の死を迎えます。肉体の死は、罪がもたらすさばきとしての結果でもあると聖書は教えています。しかし、イエス様の福音は、私たちを生かす福音です。私たちは、イエス様によって永遠のいのちにあずかって生きることができるようになりました。肉体の死は、誰も逃れることは出来ません。しかし、私たちは神の御前で永遠に生きるものとされているのです。このイエス様の恵みの福音は、届けられないところはないということを覚えながら、今ある主の恵みに深く感謝しつつ歩んで行きましょう。