城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一〇月二〇日           関根弘興牧師
                 第一ペテロ四章七節〜九節
ペテロの手紙連続説教18
    「愛は多くの罪をおおう」

7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。(新改訳聖書)


 今までお話ししてきましたとおり、当時の教会には、様々な試練や困難がありました。誤解されたり、悪い噂を立てられたり、迫害も少しずつ迫ってきていました。そんな中で、ペテロは、善を行うことに熱心になろうと語りましたね。善を行うとは、人を生かし、癒やす働きです。それは、イエス様の姿そのものでした。イエス様は、徹底的に私たちに仕え、私たちの罪のために十字架にまでついてくださいました。そして、三日目に復活し、私たちに、死んでもなお朽ちることのない豊かないのちを得させてくださったのです。そして、前回は、そのイエス様のすばらしい恵みが届けられないところはないということを学んだわけです。
 さて、今回の箇所では、ペテロは、再び、このような困難な時代の中でどのように生きていくべきかを記しています。

1 終末の意識
 まず、ペテロは、「万物の終わりが近づきました」と書いていますね。
 「万物の終わり」という言葉を聞くと、この世のすべてのものが滅びてなくなってしまうというイメージを持ちますね。
 確かに、この世のすべてのものには終わりがあります。太陽は、約五十億年後には寿命が尽きてしまうと言われています。また、約三十億年後には、膨張した太陽の影響で、地球上の生き物すべてが絶滅してしまうと言われています。「それは、私が生きている間は関係ない」と思う方もいるでしょうが、身近なことに目を向けても、永遠に続きそうなものはありませんね。物は古びて朽ちていきますし、私たちの健康もこの社会もいつまでも続くわけではありません。いつかは必ず終焉を迎えます。
 ですから、万物の終わりが来ることを疑う人はいないでしょうが、ペテロは、それが「近づきました」と書いていますね。もしそれが「この世界の終わりが近づいている」というだけの意味だったら、この手紙が書かれてからすでに二千年近く経っているのですから、あまり説得力がありませんね。「ペテロたちは世の終わりが近いと思い込んでいたけど、それは間違いだったではないか」と思ってしまうからです。
 しかし、ペテロは、ここでただ「この世界はもうすぐ終わる」ということだけを言っているのでしょうか。
 創世記には、神が天地万物を創造なさったと書かれています。神様が万物を創造されたということは、万物は神様の御計画によって造られたということであり、創られた意味や目的があるはずです。そうすると、「万物の終りが近づきました」とは、「神様が初めから計画しておられたことの完成が近づいている」という意味になりますね。
今、教会のすぐ近くで家の新築工事を行っていますが、何もない土地の上に、土台が築かれ、柱が組まれ、もう工事も終わりに近づいています。その終わりとは完成という意味ですね。それと同じように、「万物の終わりが近づきました」という言葉には、「神様の御計画の完成が間近ですよ」と言う意味が含まれているのです。
 では、神様の御計画とは何でしょうか。それは、すべての人に永遠の救いを与えるということです。そのために、神様は御子イエス様を遣わしてくださいました。
 イエス様は公の生涯を開始されるとき、「神の国は近づいた」と宣言されました。「神の国」とは、「神様が支配してくださる」ということです。イエス様は、神様のみこころに従い、神様のみわざを行っていかれました。人々を癒やし、解放し、生かし、恵みのことばを語り続けていかれました。そして、私を罪と死の束縛から解放するために、十字架についてくださいました。そして、復活することによって、イエス様を信じる一人一人に朽ちることのないいのちを与え、神様の専用品としてくださったのです。神様が御計画された救いとは、そのように一人一人が神様の愛と恵みの支配の中に移され、生かされていくことなのです。
 そして、その結果は、人だけでなく万物に及んでいくのだと聖書は教えています。パウロは、ローマ8章19節と21節でこう記しています。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」人間の救いだけでなく、最終的には万物の完成があることを教えているのですね。
 しかし、現実には、「いったいどこに救いがあるのだろう」と思わざるを得ないような状況がありますね。人間の愚かさのために様々な問題や争いや破壊が起こっています。そんな現実を見ると、神様は初めの御計画を途中で諦めてしまったのではないかと思ってしまいますね。
 ペテロがこの手紙を書いた当時、クリスチャンに対するいろいろな攻撃や迫害が始まり、試練のまっただ中にいる人たちもいました。ですから、すべてが失われてしまうのではないかという危機感を持った人たちもいたでしょう。そんなクリスチャンたちに対して、ペテロは「万物の終わりが近づきました」、つまり「神様の救いの御計画の完成は間近なのだ」と励ましているのですね。
 この言葉には、クリスチャンにとっての大きな希望があります。私たちは弱く愚かな者だけれど、「神様が最後の最後まで責任を持って私たちの救いを完成させてくださる」という約束が含まれているからです。
 イザヤ46章4節で神様はこう約束しておられます。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」神様は、「わたしは、決してあなたを見捨てない。必ず救い出そう」と約束してくださっているのです。
 また、パウロは、第二コリント3章18節で、「聖霊が信じる一人一人を栄光から栄光へと主と同じ姿に変えていってくださる」という素晴らしい約束を記しています。
 私たちは、みな終末の中に生きていますが、いつもこの意識を持って歩んで行きたいですね。それは、「神様御自身が最後の最後まで責任を持って私たちを完成させてくださる」ということです。そういう意識を、自分だけでなく家族や友人など周りの人々に対しても向けていくことが大切です。現状を見て失望するのではなく、神様の救いの計画は、私の家族や友人のためにもあるのだということを大胆に告白していくのです。
 ペテロは「万物の終わりが近づきました」と書きましたが、それと同じような意味で、パウロは、ピリピ4章5節で「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです」と記しています。この「主は近いのです」という言葉は、「主がすべてを完成に導いてくださる時が近い」という思いが込められています。
 私たちが望む時と神様が最善だと思われる時は、違います。私たちは、望んでいる時がなかなか来ないと、「神様は、いつまで待たなくてはならないのですか」というような叫びを発してしまうことがありますね。しかし、神様が最善な時に完成をもたらしてくださることを思い起こし、困難や苦難の中でもそのことを告白していきましょう。
 では、万物の終わり、つまり、神様の御計画の完成の時を待つ間、私たちは、どのような生き方をしていけばいいのでしょうか。

2 終末に生きる心構え

(1)祈りのために、心を整え身を慎む

 当時、「万物の終わりが近づいた」という言葉を聞いて、「もう何をしても無駄だ」と無気力な思いを持ったり、逆に、慌てて動揺してしまう人々がいました。いつの時代にも「世の終わりが近い」と叫び、極端な行動を取り、混乱に拍車をかける人々がいますね。
 そこで、ペテロは、まず、「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と勧めています。1章13節でも、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と今日の箇所と同じようなことを記していますね。
 では、「心を整え身を慎む」とは、どういうことでしょうか。 「心」というのは、「思考」とか「知力」という意味の言葉でもあります。ですから、「心を整える」とは「心をしっかりまとめる」「心の整理整頓をする」ということなんですね。
 自分に与えられた思考や知力を用い、聖書の言葉と照らしながら自分自身を点検し、イエス様の与えてくださった救いがどれほど恵みに富んでいるかを整理していくのです。ただ感情に振り回されたり、人に引きずられるのではなく、聖書の言葉を通して、自分の考えや判断をまとめていくことを大切にするのです。
 それから、「身を慎む」には、「酔っ払ってない」「はっきりと目を覚ましている」という意味があります。以前にもお話ししましたが、私たちの周りには、私たちを誘惑し酔わせてしまうものがたくさんあります。何かの思想に酔ってしまう、一人の人物に酔ってしまう、偏った聖書解釈に基づく教えに酔ってしまうこともあります。昔も今も、私たちの心を虜にし、酔わせ、結果的にキリストから離してしまうものがたくさんあるのです。そのようなものに誘惑されないように気をつけることが「身を慎む」ことです。
 この世を生きるクリスチャンとして、現実の生活の中には、戸惑い、葛藤、矛盾を感じることもたくさんありでしょう。キリストから目をそらせようとする誘惑も多いでしょう。しかし、だからこそ、聖書の言葉を心に留め、整理し、判断しながら生きていくことが大切なのです。
 そして、ペテロは、「祈りのために」そうしなさいと記していますね。「祈り」は、神様との親しい会話です。「願い」だけではありません。「感謝」も「賛美」もあります。そして、祈りの中で大切なのは、信仰の告白です。聖書の言葉によって心を整え身を慎み、私たちの神様がどのような方であるか、また、私たちに与えられた恵みの深さ、高さ、広さがどれほど素晴らしいものであるかをいつも告白していくのです。

(2)愛し合う

 次に、ペテロは、4章8節で「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」と記しています。
前回の箇所では、「善を行うことに熱心であるように」ということを学びましたね。今日は、「互いに愛し合うことに熱心であるように」と勧められています。今日の箇所で「熱心」と訳されている言葉は、ここにしか出てこないのですが、「伸ばす」という意味で、そこから「緊張した」という意味にも使われています。
 たとえば、ここにギターがありますが、この弦を緩めたらどうでしょうか。役に立たなくなりますね。でも、弦を張れば、美しい音楽を奏でることができます。つまり、ペテロは、ここで、ギターに例えれば「弦を張った状態にして」互いに愛し合いなさい、太鼓に例えれば「打てば響くような状態にして」たがいに愛し合いなさいと言っているのですね。
 それは、どういうことでしょうか。
 しばらく前に、競輪でお金をすってしまった人が酔っ払って「お金を貸して欲しい」と来たことがありました。私は、教会に来られた方なら誰に対しても、まず話を聞きます。そして自分が出来ることは、させていただこうと思っています。しかし、その方には、はっきりとお金を貸すことを断りました。すると、その人がこう言いました。「神は愛なのだろう。あんたは牧師なんだから、人を愛し助けるのは当たり前だろう。」そこで、私は、「神様は愛なる方ですよ。でも、今あなたにお金を与えることは決して愛ではありません」と伝えたのです。
 愛するとは、相手の要求にすべて応えることではありません。それでは、まるで弦を緩めたギターを弾くようなものです。本当に愛そうと思ったら、時には、断ること、戒めることもあります。相手を失望させたり、不愉快に感じさせたりすることもあるかもしれません。愛するとは、いつも相手の最善を願い、何が必要なのかを考え、自分のできることをしていくことなのです。そこには、一種の緊張があるのですね。ですから、愛に生きるためには、何が相手の最善なのかを判断するための知恵も必要ですし、祈りも必要です。神様の助けが必要なのですね。

(3)赦しの恵みの中で生きる

 では、どうして互いに愛し合うことが必要かというと、「愛は多くの罪をおおうからです」とペテロは記しています。
 この「愛は多くの罪をおおう」という言葉は、聖書に度々出てきます。
箴言10章12節には、「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」とあります。
 また、ヤコブ5章20節には、「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」と書かれています。
 ペテロは、「愛は多くの罪をおおうからです」と記したとき、自分の過去の経験を思い浮かべていたことでしょう。ペテロは、イエス様が捕らえられたとき、「イエスなど知らない」と三度も否定してしまいましたね。それも、呪いをかけて誓ってしまったのです。「イエスなど知らない。もしそれが嘘ならのろわれてもかまわない」という強い言い方で、自分から絶縁宣言してしまったわけですね。しかし、そんなペテロを、イエス様は愛と慈しみのまなざしで見つめられました。そして、復活された後、イエス様は、ペテロを非難するどころか、兄弟を助け励ます働きをするという新しい使命を与えて、再出発させてくださったのです。ですから、「愛は多くの罪をおおう」とは、ペテロの人生の根幹にあるイエス様の姿でもあったのですね。「こんな私の罪をイエス様はおおってくださった。赦してくださった。そして、生かしてくださった」という思いがペテロの中にいつもあったのでしょう。どんな人生でも、どんなに多くの罪があっても、神様の愛におおわれていくとき、そこから新しい人生が始まっていくのだということをペテロは生涯を通して伝えていったのです。
 私は、「愛は多くの罪をおおう」という言葉を聞くとき、創世記の言葉を思い浮かべます。
 口語訳聖書ですが、創世記1章1節ー2節にこうあります。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」
 「神の霊が水のおもてをおおっていた」とありますね。神様は愛なる方です。ですから、この箇所は、「神様の愛が、形なく、むなしく、やみであった場所をおおっていた」とも読むことが出来るわけです。そして、神の愛におおわれたときに、この世界が生まれた、というわけですね。それは、私たちの人生においても同じです。罪や闇やむなしさや混沌の人生が神様の愛におおわれるとき、本当に生きる者へと造り変えられていくのですね。
 ペテロは、「神様の愛が私たちをおおってくださった。だから、私たちも『愛は多くの罪をおおう』ということを互いに覚え、実践していこう」と勧めているのです。
 ただし、先ほど言いましたように、気をつけなければいけないことがあります。「愛は多くの罪をおおう」と聞いて、「クリスチャンは愛に生きなければならないのだから、相手がどうであろうと何でも『赦します』と言わなければならない」と考えてしまう方もいるのですが、そうではありません。それは「赦しの誤用」です。もし、相手が自分の過ちを認めず、ただ言い逃れしようとしているなら、愛をもって戒めることも必要なのです。それが最終的にその人の益になることだからです。
 ペテロが「愛は多くの罪をおおう」と記すとき、それは、神様の前で自分の罪に苦悩し、神様のさばきへの恐れを持つ人々に対する慰めと希望の言葉として記しているのです。
 私たちは皆、多くの弱さや欠点があります。しかし、イエス様の愛におおわれ、赦されています。そのことを喜び、感謝し、恵みの中に生かされていることを味わっていきましょう。

(4)もてなし合う

 それから、ペテロは、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」と勧めていますね。
 最近は、「おもてなし」ブームですが、聖書が「もてなし合いなさい」というのは、どういう意味なのでしょうか。どんな時間でも関係なく、訪ねてきた人は歓迎し接待しなさい、と言うことなのでしょうか。そうではないですね。
 当時、使徒や弟子たちが福音を各地に伝えていくときには、誰かが家を提供し、彼らをもてなしていました。ペテロがヨッパに行ったときは、皮なめしのシモンの家に宿泊しましたね。また、使徒21章16節には、キプロス人マナソンという人の家が古くからパウロの宿泊の場となっていたことが記されています。パウロもペテロも伝道旅行の度に宿を提供してくれた人たちがいたからこそ、各地に福音を伝えることができたのです。その後も、多くの弟子たちが全世界に福音を伝えていきましたが、彼らのために多くのクリスチャンたちが家を解放し、もてなし、その結果、キリスト教会が伸展していったのです。当時の教会は、立派な建物があったわけではありません。全国組織があったわけでもありません。礼拝のために部屋を貸してくれる人たちがいました。伝道旅行をする旅人をもてなしてくれる人たちがいました。コリント教会のアクラとプリスキラの家もそうでしたし、コロサイ教会のピレモンの家もそうでした。当時の教会の発展も、教会の礼拝そのものも、互いに親切にもてなすことがあったからこそ形作られてきたのです。
 今は、昔とは形や方法は違っていますが、互いにもてなす心は、教会にとって大切なものです。お互いがお互いを歓迎し、もてなす心を持っているのが教会のあるべき姿なのです。教会に行って「歓迎されていない」と思ったら、再び教会に行こうとは思いませんね。心を込めてお互いを歓迎し合うことは、教会にふさわしい麗しい愛の光景なのです。
 でも、時には、こちらが挨拶しても、相手が応じてくれないことがあるかもしれません。そういう時には、マタイ10章12節でイエス様が弟子たちに言われた言葉を思い起こしましょう。「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。」
 互いにもてなし合い、平安を祈り合う教会として、さらにイエス様に建て上げていただきましょう。