城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一〇月二七日           関根弘興牧師
               第一ペテロ四章一〇節〜一一節
ペテロの手紙連続説教19
    「恵みの管理者として」

10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。(新改訳聖書)


 先週の箇所で、ペテロは「万物の終わりが近づきました」と書いていましたね。それは、「この世界はもうすぐ終わる」というだけの意味ではなく、「神様の救いの御計画の完成が近づいている」という意味の励ましの言葉でした。そして、ペテロは、終末に生きる者としてふさわしい生き方とはどのようなものかを教えていましたね。神様御自身が最後の最後まで責任を持って私たちを完成させてくださるのだから、周りの状況や感情に振り回されることなく、聖書の言葉を通して心の整理整頓をしながら、お互いに愛し合い、お互いに歓迎する心を大切にしながら歩んで行こうと勧めていました。
 今日の箇所は、その続きで、ペテロは、終末に生きる者としてのふさわしい生き方についてさらにいくつかのことを勧めています。

1 神の賜物

まず、ペテロは、10節で「それぞれが賜物を受けている」と書いていますね。
 「賜物」と訳されているのは「カリスマ」というギリシア語で、英語では「ギフト」です。つまり、「神様からの贈り物」ということですね。
でも、「賜物」というと、特別な一部の人だけが持っているものだと思っている方が多いのではないでしょうか。私も、時々よそに行くと言われるんですよ。「関根先生は、ギターが弾けて、声も大きくて、神様からの賜物ですね」と。そして、「私には賜物がありませんよ。特別なことは何もできませんから」という方もよくいます。
 しかし、ペテロは、「それぞれが」賜物を受けていると書いていますね。つまり、一人一人が賜物を受けているのであって、賜物を受けていない人など誰もいない、ということなのです。
 では、聖書の教える「賜物」とは、どのようなものなのでしょうか。

@イエス・キリストによる救い

 ローマ6章23節には「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と書かれています。また、エペソ2章8節には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」とあります。
 つまり、神様が与えてくださる賜物とは、イエス・キリストを信じることによって与えられる救いと永遠のいのちだというのです。そして、その賜物は、「恵みのゆえに」与えられたというのですね。
 賜物を得るためには、大きくわけて二つの場合があります。 一つは、自分で努力して得るという場合です。頑張って何かを達成した報酬として受け取るのです。「努力の賜物」「勉強の賜物」などいろいろな表現がありますね。私たちは、社会の中で生きていくとき、努力や頑張りで多くのものを得ているのです。
 もう一つは、自分の側で何もしなくても、プレゼント、ギフトとして与えられる場合です。ただ、人同士の場合には、ギフトを贈るとしたら、好意を持っている相手、世話になった相手、見返りをくれそうな相手、関係を継続しておきたい相手などに限られますね。つまり、自分にそれなりの価値がなければ、賜物を受け取ることはむずかしいわけです。
 しかし、神様のくださる賜物は、そうではありません。イエス・キリストによる救いは、神様の恵みのゆえに与えられます。「恵み」とは、何の資格もない者に無条件に与えられるものです。私たちの功績や努力とは関係なく、また、私たちに受け取る価値があるかどうかに関係なく、神様が無条件で一人一人に与えてくださるものなのです。神様は、私たち一人一人を深く愛しておられるゆえに、救いと永遠のいのちという賜物を与えたいと熱心に願っておられるのです。
 以前こんな話を読んだことがあります。
 インドにラムパウという真珠取りをしている人がいました。一人の宣教師が長い時間をかけて、このラムパウさんにイエス・キリストのことを話し、救われるように祈っていましたが、もう一歩というところで、ラムパウさんは、どうしても信じられないと言うのです。「人間は罪深い。そのためにキリストはあんなひどい苦しみを受けてくださった。それなのに、人間は何もしないで、ただ信じればいいなんて、そんなことはとても考えられない」と言うのです。
 そして、ラムパウさんは、ヒンズー教の習慣に従って難行苦行の旅に出かける決心をしました。それは、ヒンズー教徒にとっては、救われるためにどうしても行わなければならない行事で、二度と家には帰れないかもしれないという覚悟がいるほどのものでした。
 出発の朝、ラムパウさんは、一つの小箱を持って、宣教師のところへお別れの挨拶にやって来ました。その小箱の中には、いまだかつて誰も見たことのないような見事な真珠が入っていました。それを、今までお世話になったお礼に受け取ってほしいというのです。驚く宣教師にラムパウさんは言いました。「私には息子がいました。しかし、このすばらしい真珠を取るために海に潜って命を落としてしまったのです。それで、これだけは、どうしても売る気になれず、今までとっておきました。でも、これから旅にでかけ、もう帰ってくることができないかもしれないので、あなたにもらってもらおうと思ったんです」と。
 それを聞いた宣教師は、「そんな貴重なものを、とてもただでもらうわけにはいきません。借金をしてでもお金を払いますから、値段を言ってください」と言いました。「いや、黙ってうけとってください」とラムパウさんは言い張ります。しばらく押し問答が続いたのですが、ついにラムパウさんは怒り出し、啖呵を切りました。「おもしろい。この真珠は、息子の命がかかっているんです。その息子の命に値段をつけられるものなら、つけてみてください。」
 すると、宣教師は静かに語り始めました。「あなたこそ、神様の賜物に値段をつけようとしているのがわからないのですか。神のひとり子イエス様がその尊い血潮をもって与えてくださった救いを、どうして自分の業によって買い取ろうとするのですか。どうして黙って感謝して受け取れないのですか。」
 やっと目が開かれたラムパウさんは、その場にひれ伏して、「神様お赦しください。今、イエス様の救いをお受けします」と祈り出したということです。
 神様の賜物は、御子イエス・キリストのいのちと引き換えに与えられた尊いものです。あまりにも高価で、値段を付けることなどできません。私たちがいくら頑張っても決して買い取ることができないものなのです。それほどの尊い賜物を神様はただ恵みによって私たち一人一人に与えようとしてくださいました。私たちが出来るのは、ただ感謝して受け取ることだけなのです。

Aおのおのに与えられる役割や働き

神様は、信じるすべての人に救いと永遠のいのちを与えてくださいますが、それに加えて、一人一人にそれぞれ違う賜物を与えてくださいます。
 ローマ12章6節ー8節にはこう書かれています。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」
 今日の箇所の11節にも「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」とありますね
 第一コリント12章には、一つのからだには多くの器官があり、それぞれ違う働きをしながら一つのからだを造り上げているように、私たちも一人一人がキリストのからだの器官としてそれぞれ違う役割を果たしながら一つのからだを造り上げているのだと書かれています。皆が同じ器官だったら、からだは成り立ちません。皆が違うからいいのです。そして、どれも欠けてはならない大切な器官なのです。
 神様は一人一人に違う役割や働きを与えてくださっています。ですから、お互いに比べる必要はないし、皆が同じことをする必要もありません。それぞれ得意なこともあれば、そうでないこともあります。それぞれが自分のできることをし、自分の役割を果たしながら互いに補い合い結びつけられていくときに、麗しいキリストのからだが建て上げられていくのです。
 パウロは、第一コリント7章7節でこう書いています。「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」
 このことを突き詰めて考えるなら、実は、私たちのいのちも、性格も、置かれている状況も、自分の長所も短所も強さも弱さも、すべてが神様の賜物となりうるのだということです。
 パウロには、肉体の病を抱えていました。それは、取り除くべき弱さだと思っていました。そこで、「この肉体のとげを取り除いてください」と何度も祈ったのです。この病がなければ、もっと神様のために働けると思ったのでしょう。しかし、パウロが祈りの中で得た答えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」というものでした。自分の弱さを自覚するからこそ、神様の力が十分わかるし、弱さの中でこそ、自分の力ではなく神の力によってみわざが成し遂げられるということを明確に知ることができるのだ、というのです。
 人間は、高慢になりやすく、すぐに自分がやった、自分の力だと誇ってしまいがちですね。それでは、神様の力や働きが見えなくなってしまいます。しかし、自分の弱さを認めて生きていくときに、神様のみわざをはっきりと見ることが出来るわけですから、弱ささえも神様からの賜物となるのですね。そう考えると、私たちは何と多くの賜物をもっていることでしょう。

B神のことばと力

 さて、私たちが賜物を用いていくために、神様は、さらに大切な賜物をくださっています。11節に「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」とありましたね。私たちが賜物を用いることができるように、神様は、みことばを与えてくださいます。また、神様が私たちに豊かな力を備えてくださるというのです。ですから、自分で頑張って賜物を用いなくてはと意気込む必要はありません。神様が与えてくださるみことばに信頼し、神様が備えてくださる力に応じてできることをしていくときに、それぞれの働きが豊かに用いられていくのです。

2 神の恵みの良い管理者として

 さて、ペテロは、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と勧めていますね。
 神様は、私たちにさまざまな恵みをあふれるばかりに与えてくださっています。その恵みを、与えられた賜物を用いながら管理していくことが大切だというのです。
 では、良い管理者として、私たちはどのようなことを心がけていけばいいのでしょうか。

@託された人生であることを自覚する

 まず、私たちは、恵みの「所有者」ではなく、「管理者」であるということを覚えておくことが大切です。何でも自分が所有してしまおうとする生き方ではなく、自分の人生は神様に託されたものであるということを自覚するのです。
 この手紙の2章9節で、ペテロは、「あなたがたは神の所有とされた民です」と記していましたね。また、第一コリント6章20節に「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と書かれています。
 私たちも私たちの人生も、すべての所有者は神様です。そして、神様は、私たちの人生を私たちに賜物として委ねてくださっています。「私の人生の所有者は神様で、神様がこの人生を私に託してくださった」と意識を持つことが良き管理者の基本なのです。
 また、自分自身だけでなく、家族、友人、職場や地域の人々とのつながりも神様から託されたものです。そのことを覚えつつ接していくことが大切なのですね。

A託されたものを大切にする

 託されているとするなら、私たちには託されたものを大切に管理していく責任があります。
 ということは、まず、自分の心も体も大切にしていくということです。私たちは、自分自身に対して、横暴な主人のような振る舞いをしていることはないでしょうか。弱さを批判し、失敗を責め、自分を鞭打って傷つけるようなことをしていませんか。
 自分自身が神様の所有物であること、神様の赦しと愛と恵みを受けるにふさわしい存在であることを覚えておくことが大切です。そして、聖書の言葉を食事として与え、弱さの中に主の力があらわれることを信頼し、疲れたときは休ませ、聖霊によってキリストに似た姿に変えられていくという希望をもって自分自身を見ていくのです。
 それは、自分自身に対してだけではありません。「互いに仕え合いなさい」とペテロが書いているように、お互いを神様の所有物として大切にしていくのです。
 良き管理者は、自分らの、また、他の人々の心と体を大切にしていきます。

B神様があがめられることを目的とする

 そして、11節に「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」とありますね 
 良き管理者の目的は、神様があがめられることです。
 神の賜物は、広範に渡っています。私たち自身も、私たちの救いも人生も神の賜物です。その賜物がすべて、最終的に神様があがめられ、ほめたたえられていくために用いられるよう願い求めていきましょう。一人一人の愛の労苦、奉仕、祈りなどによって教会は建て上げられていきますが、どんなときにも「さすがに神様は、すばらしいですね」と分かち合える教会であり、仲間でありたいですね。誰も自分の力でこうなったと誇ることがないのは、素晴らしいことですね。恵みの世界に生きるというのは、最終的にいつも神様があがめられ、ほめたたえられていくという非常にすっきりとした生き方をすることなのです。
 私たちがそのような生き方をすることができるようにしてくださった救い主イエス・キリストに、ペテロが書いているように、栄光と支配が代々限りなくありますように。そして、そのキリストを通して、神様があがめられていきますように。