城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一一月一〇日           関根弘興牧師
               第一ペテロ四章一二節〜一九節
ペテロの手紙連続説教20
    「任せて生きよう」

12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。18 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。(新改訳聖書)


 聖書は、イエス様を信じていれば、順風満帆な人生を送ることができるとは言っていません。むしろ、イエス様を信じたがゆえに味わわなくてはならない試練があると教えています。
 この手紙が書かれた当時、教会は少しずつ迫害の脅威にさらされていました。また、イエス様を信じて今までとは違う価値観を持って生き始めたクリスチャンたちは、社会の中で様々な葛藤や苦しみを経験していました。ペテロは、そういう試練の中にある人々に励ましと慰めを与えるためにこの手紙を書いたのです。
 ペテロは、この手紙の中で、あなたがたの味わう試練には意味があり、神様がその試練をも益としてくださるのだ、ということを繰り返し書き記しています。
 たとえば、1章6節ー7節で、こう記していましたね。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」
また、今日の箇所でも、ペテロは、「苦しみや試練に動揺しないで、むしろ、それを積極的に受け止めていこう」と励ましているのです。詳しく見ていきましょう。

1 キリスト者としての苦しみ

 まず、12節に「あなたがたの間に燃えさかる火の試練」という言葉がでてきますね。かなり大変な試練をこの手紙の読者たちは経験していたようです。しかし、「どうして私たちにこんな試練が襲うのか。キリストを信じているのに、おかしいではないか」と疑ったり動揺したりするのではなく、その試練の積極的な意味を見いだして行こうではないかというのです。
 では、試練にはどのような意味があると、ペテロはここで言っているでしょうか。

@私たちを試みるため

 まず、ペテロは、12節で「あなたがたを試みるため」に試練があると書いていますね。先ほど引用した1章の言葉にもあるように、私たちは、信仰の試練を通して精錬され純化されていくのです。

Aキリストの苦しみにあずかるため

 イエス様は、マタイ5章10節ー12節で、みもとに集まってきた人々にこうお語りになりました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」イエス様のために、ののしられたり、迫害されたりするなら、幸いだから、大いに喜びなさいというのですね。
 ペテロは、このイエス様の言葉を心に刻み込んでいたのでしょう。13節で、同じように「様々な試練によってキリストの苦しみにあずかれるのだから喜んでいなさい」と記しているのです。
 それは、パウロも同じでした。ピリピ1章29節で「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」、ローマ8章17節では「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」と記しています。
 ペテロもパウロも、「私たちは、キリストのすばらしい救いだけでなく、キリストの苦しみをも賜っている」と記しているのですね。ただし、その苦しみには意味があり、素晴らしい結果をもたらすのだと彼らは確信していたのです。
 パウロは、ローマ8章26節でこう断言しています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 クリスチャンとは、世にも不思議な集団だと思いませんか。マイナスだと思われることの中にあっても、それを益へと転じてくださる愛なる神様を信頼して歩んでいるのですから。
 
B栄光の現れを見るため

そして、13節ー14節では、ペテロはこう書いていますね。「 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」
 キリストの苦しみにあずかることによって、キリストの栄光の現れを見ることができるのだ、とペテロは言います。
 「栄光の現れ」とは、ヘブル語で「シェキナー」と言いますが、旧約聖書にたびたび出て来ます。
 たとえば、イスラエルの民がモーセに導かれてエジプトの奴隷状態から脱出し、荒野を旅していた時、民は「この荒野には食べ物がない。飢え死にしそうだ」と文句を言い始めました。すると、神様はモーセに「わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする」と言われたのです。モーセは民に向かって「あなたがたは、朝には、主の栄光を見る」と言いました。そして、朝、民が起きてみると、地の一面を白いパンのようなものが覆っていて、民はそれを集めて食べることができたのです。民はそれを「マナ」と名付けました。その日以来、荒野の旅の間中、神様は「マナ」によって民を養われたのです。この出来事は、出エジプト記16章に書かれています。
 また、出エジプト記24章16節には、モーセが十戒の刻まれた石の板を授かるためにシナイ山に登っていく時、「主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた」と書かれています。
 それから、シナイ山で神様から会見の天幕(幕屋)を作るよう命じられたモーセは、民とともに会見の天幕を完成させましたが、出エジプト記40章34節には、「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」とあります。この会見の天幕は、神様がイスラエルの民と共にいてくださることの象徴でした。
 また、民が荒野の旅を終えて約束の地に入ってからのことですが、組み立て式の会見の天幕の代わりに、ソロモン王によって壮麗な神殿がエルサレムに建造されました。その神殿が完成したとき、「雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである」と第一列王記8章10節-11節に書かれています。
 このように、旧約聖書では、「主の栄光の現れ」とは、主の臨在の輝かしいしるしでした。新約聖書の時代になっても、ユダヤの人たちは、この栄光の現れを待ち望んでいたのです。しかし、現実には、当時のエルサレムの神殿は、イエス様が批判なさったように、祭司たちや商売人たちが不当な利益を得ている「泥棒の巣」のような状態で、神の栄光のかけらすら見ることができなくなっていました。
 しかし、ペテロは、今日の箇所で、キリストの苦しみをあずかる一人一人に「主の栄光の現れ」があるのだというのです。
 キリスト教会の最初の殉教者は、ステパノという人です。ステパノは、「神を冒涜した」という偽りの証言によって逮捕され、裁判を受けるため議会に連れ出されました。その時、使徒6章15節には「議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた」と書かれています。ステパノは、弁明をする中で、イスラエルの民が神様に逆らい続けた歴史を語り、その場にいる一人一人に悔い改めを迫りました。使徒7章54節-60節にこう書かれています。「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」
ステパノは、キリストの苦しみにあずかりましたが、その姿を通して、栄光が現されたのです。
 ステパノが殉教することは、大きな損失であり悲しみでした。しかし、彼の苦難の中に現された主の栄光は、教会に集う人々に大きな希望と励ましを与えていったのです。
 ペテロは、「栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださる」と書いていますね。どんな試練の中にあっても神の御霊が共にいてくださり、神の栄光を現してくださることを確信していたのです。ですから、ペテロは、16節で、「キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい」と励ましているのですね。

2 受けてはいけない苦しみ

キリストの苦しみにあずかることは、幸いです。しかし、幸いではない苦しみがあることをペテロは15節で警告しています。「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」
 以前、お話ししましたように、ペテロは、 3章17節でこう言っていましたね。「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。」人生においては苦しみを避けることはできません。善を行っても苦しみを受けるし、悪を行っても苦しみを受けます。それなら、善を行うことに熱心になって苦しみを受ける方がいいではないかというのですね。
 そして、今日の箇所では、ペテロは、どんな悪を行う人が苦しみを受けるのかというリストを記しています。この中で、「人殺し」や「盗人」や「悪を行う者」というのは、明確な犯罪行為ですから、相手を苦しめるだけでなく、結果的に自分も苦しむことになるのはよくわかりますね。
 しかし、「みだりに他人に干渉する者」とは、どういう人のことを意味しているのでしょうか。
 「みだりに他人に干渉する」という言葉は、二つの単語から出来ています。「他者に属する」という言葉と、「見つめる」という言葉の合成語です。つまり、「他者に属するものを見つめる」という意味の言葉です。これは、ペテロの造語ではないかと考えている学者もいます。具体的には、どういう意味なのでしょうか。次のような意味が考えられます。

@貪欲

 まず、「他者に属するものを見つめる」ということは、他の人のものを欲しがる「貪欲」を意味しているのではないかと解釈できます。自分にないものを他の人がもっていると妬ましく思ったり、物欲しそうに見つめてしまい、だんだんエスカレートしていくという姿です。他の人が持っていて自分にはないものはたくさんあります。でも、そのことが苦しみになるのは愚かなことだとペテロは言っているようですね。
 私たちは、自分にないものを数えたがる癖を持っているようです。私にはこれもない、あれもない、と。でも、先週も学んだように、私たちは一人一人神様から賜物が与えられています。だから、人と比べるのではなく、自分に与えられた恵みを数えながら生きていく人生でありたいですね。

Aお節介

「他者に属する者を見つめる」という言葉は、他の人の私事に過度に興味を持つこと、つまり「お節介」ということを意味するとも言われます。ですから、新改訳聖書では「みだりに他人に干渉する者」と訳しているのです。これは、独善的に不必要な干渉をし、相手の心に土足で踏み込んでいくような行為です。教会では、「互いの交わり」という言葉をよく使いますが、それには良識が必要です。愛の配慮をもって、相手の領域を尊重し、必要を見極めることが大切です。何でもかんでも分かち合えばいいわけではありません。相手の意向を無視してお節介と言う言葉を使いますが、それは、良識がきちんと問われなければなりません。私たちは何でも分かち合えばいいわけではありません。また相手のことを何も考えずにやたらに手を出すのはよくないというわけですね。
 
B自分とは関係のない異質的なものを見つめること

 「他者に属するものを見つめる」という言葉には、「自分とは関係のない異質的なものを見つめる」という意味があるとも考えることが出来ます。それは、「キリスト者としての生き方とは異質のものを見つめる」という意味です。「本来の信仰生活からまったく異質のものへと移ってしまう」ということです。
 これには、いろいろなことがあると思います。たとえば、キリスト者としてふさわしくない行為をしたり、反社会的な行為をしたりということもあるでしょう。あるいは、聖書の教えとは違う異質な教えに移ってしまうことも考えられます。当時から、イエス・キリストを信じることによって救われるという聖書の教えから外れた様々な異端的な教えが現れ、問題になっていました。聖書ではなく、そういう異端的な教えを見つめているうちに、結局、苦しみを受けてしまうことがあるのですね。
 そのようなことで苦しむことがないように注意しなさい、とペテロは警告しているのです。

3 さばきは神の家から

 さて、ペテロは、17節で「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです」と書いていますね。これは、どういう意味でしょうか。
 以前、4章7節でペテロが「万物の終わりは近づきました」と記しているのは「神様のご計画の完成は間近だ」「神様が最後の最後まで私たちの完成に責任を持ってくださる」という意味だということをお話ししましたね。
 それを踏まえて、今日の箇所の「さばきが神の家から始まる時が来ている」という言葉も考えてみましょう。
 「さばき」という言葉を「罰を与える」「懲らしめる」という意味に受け取る方も多いでしょうが、本来は、「裁判」「審判」という意味です。当時、イエス様を信じているだけで迫害され、財産を奪われ、不当な仕打ちを受けて涙したクリスチャンたちが数多くいました。そういう一人一人のことを神様が知らないはずがありません。「さばきが神の家から始まる」というのは、不当な苦しみを受けたクリスチャンたちのために神様が正しい判決をくだしてくださるということです。
 もちろん、この「さばく」ということの中には、「きよめる」ということも含まれていますから、一人一人の姿が正され、異質的なものが取り除かれ、練られる過程で苦しい経験をすることもあるでしょう。しかし、キリストを信じる一人一人には、最終的に栄光を授けるという審判がなされるのです。
 ですから、クリスチャンは、どんな苦しみの中でも希望があるのですが、神様を否定し、神様に背を向けている人たちの最後はどれほど苦しいものになるのかと、ペテロは警告ともとれる言葉を記していますね。
 私の父が、クリスチャンでない人について、「年を取って、永遠の希望がなくて、よく生きていけるな」としみじみ言ったことがありました。永遠の慰めや励ましがあることを知らなかったら、どんなに辛く不安なことだろうというわけです。そのことをペテロはここで言っていると思うのですね。

4 任せて生きよう

 そして、ペテロは19節の最後で「真実であられる創造者に自分のたましいをあられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と勧めています。クリスチャンの人生は、最終的にお任せ人生なんですね。でも、誰に任せるかによって人生は大きく変わってしまいます。
 この「任せる」という言葉は、信頼のおける友人にお金を預ける場合に用いられた言葉だそうです。当時は今のような銀行はありませんでしたから、旅に出るなどには、信頼できて、安全に保管してくれる友人にお金を預けたそうです。そして、その友人は名誉にかけてそのお金を守り、元の持ち主に返すことが義務でした。そうした中で得た信頼関係は、人生の宝のようなものとなっていったというのですね。
 自分のたましいを創造者なる神様に任せるなら、安心です。神様は、決して裏切ることも見捨てることもなく、私たちのお任せしたものを御自分の名にかけて守ってくださいます。神様に人生をお任せすれば、神様が最後まで責任をとってくださるのですから、信頼し安心して生きていくことができるのです。 私たちには明日何が起こるかわかりません。だからこそ、決して揺らぐことのない、真実で全能なる神様に委ねて生きていきましょう。