城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一一月二四日           関根弘興牧師
                 第一ペテロ五章一節〜六節
ペテロの手紙連続説教21
    「謙遜を身に着けなさい」

1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(新改訳聖書)

これまで、ペテロは、いろいろな立場にいる人々に対して、主にある者としてふさわしい生活をするように勧めていましたね。2章では「しもべたち」に対する勧め、3章では「妻たち、夫たち」に対する勧めが書かれていました。
 そして、今日の5章では、「長老たち」と「若い人たち」、そして、教会に集う「みな」への勧めが書かれています。つまり、今日、ここに集っている私たちに対する勧めでもあるということですね。詳しく見ていきましょう。
 
1 長老への勧め

 まず、「長老」とは、どのような人なのでしょうか。
 当時から、教会には「長老」と呼ばれる人がいました。もともとは「年を取った者」という意味ですが、教会の中で使われる場合は、教会の働きの責任を担い、指導者として奉仕していた人たちを指していたようです。ペテロも自分自身を「長老のひとり」であると言っていますね。ペテロはイエス様の十字架と復活の目撃証言者として全世界に伝道をしていた人物ですから、「長老」には、イエス様の福音を伝える伝道の働きをしている人という意味もあったようです。今では、教会によっては役員が「長老」と呼ばれるところもあります。また、プロテスタントの教会の中で、長老教会という名称の教会がありますが、そこでは、牧師も含めて「長老」と呼ばれます。
 今日の箇所では、「長老」という言葉は、信仰の先輩として教会のリーダー的立場にいる人々という意味合いが強いようです。そういう人々にペテロはどのような勧めをしているでしょうか。

(1)神の羊の群れを、牧しなさい

ペテロは、2節で、長老たちに「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい」と書いていますね。
 これは、ペテロ自身がイエス様から言われた言葉でもありました。イエス様は、十字架の死から復活された後、ガリラヤ湖でペテロたちにお会いになられました。その時、ペテロは、イエス様を三度も否定してしまったという罪責感を持っていました。そんなぺテロに対して、イエス様は、「あなたは、わたしを愛しますか」「わたしの羊を牧しなさい」と三度繰り返して言われたのです。この時から、ペテロは、弱いありのままの自分を認め、主を愛し、主の羊を牧することが自分の使命であることを心に刻み込んで、世界中に福音を伝えていくようになったのです。
 ペテロは、その時イエス様に言われた言葉を、今度はそのまま長老たちにも語りかけているのですね。教会の指導的立場に立つ人々が神様から与えられた使命とは、羊の群れを牧することなのです。
 そして、注意しなければならないのは、ここに「神の羊の群れ」と書かれていますね。教会に集う人々は、牧師のものでもなければ、長老たちのものでもなく、神様のものです。ですから、神様から委ねられた大切な羊として牧していく必要があるということなのですね。
 では、「羊の群れを、牧する」には、どうすればいいのでしょうか。詩篇23篇を見ると、良き羊飼いである主が羊を牧する姿が示されています。これが模範ですね。
 まず、良い羊飼いは、羊を「緑の牧場」に連れて行きます。食物を与えるわけですね。神の羊にふさわしい食物は何でしょう。この手紙の2章2節にこう書かれていましたね。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」つまり、純粋なみことばの乳が、羊を成長させ、救いを得させるのです。ですから、長老は、教会に集う一人一人が純粋な聖書の言葉によって養われるように配慮することが大切です。イエス様の福音そのものが純粋に語られる必要があります。聖書から外れていることや、聖書と関係のない主義主張では、羊を養うことはできないのです。
 また、羊を「いこいの水のほとり」に連れて行くと書かれています。教会は、いこいの場所、渇きがいやされる場所です。疲れた人が休み、悲しむ人が慰められ、虚しい心が満たされる場所です。もし教会の中で律法や規則や戒めで縛りつけたり、無理矢理に働かせたり、逆らったら鞭で打つようなことがあったら、羊は決していこいを得ることはできません。かえって、疲れ、傷つき、倒れてしまうでしょう。
 また、「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」とあります。教会は、一人一人が、たましいをリフレッシュさせ、神様との正しい関係を持って歩み続けていくことができる助けとなる場所なのです。そして、どんな苦難があっても「私はわざわいを恐れません。主が私とともにおられますから」という信仰を再確認する場でもあります。
 それから、「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」とありますが、羊飼いのむちは、羊を打ちたたくためではなく、羊を襲う獣を撃退するためのものです。また、杖は、羊が道を逸れていかないように、優しく教えるためのものなのですね。
 詩篇23篇の作者は最後に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいましょう」と宣言していますが、教会に集う一人一人がそのように確信をもって宣言できるようにしていくことが、羊を牧するということなのですね。
 
(2)牧するときの心構え

 さて、次にペテロは、そのような羊の群れを牧する働きをする場合の心構えを教えています。

@強制されてではなく、自分から進んで

「自分から進んで」というのは、長老だけでなく、教会のすべての働きにおいて言えることです。教会の働きには強制や無理があってはなりません。誰かから指示されたからとか、そう決まっているからとか、まわりの人の目が気になるからというのではなく、一人一人が「神様に従って」いる中で示されたことを「自分から進んで」行うことが大切なのです。
 日本人は「自分から進んで」行うことが苦手な国民だと言われます。「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、「でしゃばり」と言われることを恐れて何かをすることを躊躇したり、逆に、しないと批判されるのではないかと思って不本意なことを無理にしたりすることもあるでしょう。
 しかし、ピリピ2章13節に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と書かれています。神様が一人一人に何かをしようとする志を与え、それを行うことのできる知恵や力や状況を整えてくださるのです。一人一人が神様に従いつつ、神様が与えてくださる思いや意欲を大切にしながら、自発的に行っていくことが大切なのです。もちろん、だからといって、何でも自分勝手にやればいいというのではなく、知恵と配慮も大切ですが、それも神様に従う中で示されていくでしょう。強制ではなく、自ら進んでささげ、仕える者となっていきましょう。

A卑しい利得を求める心からではなく、心を込めて

そして、次に「卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい」とありますね。
 「卑しい利得を求める」というのは、今流に言えば、「とてもせこい」という意味で、自分に得になることしか考えない、引き受けない、ということです。
 教会の歴史を見ると、教会の規模が大きくなって、たくさんの利権が生じるようになると、長老はいろいろな役得を持つようになりました。それを目当てに長老になる人もいたわけですね。また、教会が権力を振りかざすようになり、中世には「これを買えば罪が免除される」という免罪符を売って卑しい利得を求めることさえありました。
 そういう卑しい利得を求める心が、羊のいのちを奪っていくことになるのですね。ペテロは、教会ができた当時から、このことについて警告していました。私たちも、いつも自分自身の心を点検していく必要がありますね。

B支配するのではなく、模範となる

 それから、3節には「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」とあります。
 「割り当てられている人たち」というのは、地域や人数ごとに長老が決められ、割り当てられていたということではなく、神様が、それぞれの長老に人々を割り当てて委ねてくださったったという意味にとるのがふさわしいようです。つまり、神の羊である私たちは、自分で選んで教会に来たように考えますが、神様が私たちをそれぞれの教会に割り当て、遣わしてくださったのだという理解です。
 教会の指導的立場にいる人たちは、時々、錯覚するわけですね。教会に集っている人々を、あたかも自分が集め、自分が養い、自分が育てたかのように思ってしまうのです。しかし、「それは大間違いですよ」とペテロは言っているわけです。あくまでも神様があなたがたに割り当ててくださった人々なのだから、その意識を持って接することが大切だというのですね。
 そして、ペテロは、その人々を「支配するのではない」と書いています。別の訳では、「権力を振り回してはいけません」となっています。有無を言わせず従わせようとしたり、自由を奪うようなことはしてはいけないということです。「暴君」になるな、ということですね。
 もちろん教会のためを思うあまり、人々に自分の理想通りの行動を要求してしまうということもあるでしょう。様々な規則を作って守らせたいと思うこともあるでしょう。しかし、忘れてはならないのは、人は、支配され強制されても本当の意味で変わることはありません。「礼拝を守りましょう」「奉仕をしましょう」といくら強制したとしても、それぞれが心からそうしたいと思うのでなければ、皆、疲れ切ってしまうのです。
 ガラテヤ5章1節に「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」とあります。私たちは、心から神様を愛し従う自由を与えられています。人に支配され強制されてではなく、その自由を用いて神様のために喜んで生きていくことができるようになったのです。また、聖霊が一人一人を内側から変えてくださるという約束も与えられています。ですから、教会の指導者は、神様が一人一人を導き、志を与え、みこころを行わせてくださることを信頼し、支配することによってではなく、神様におゆだねしながら羊を牧する働きを進めていくことが大切なのです。支配する方は、神様だけです。愛と恵みに満ちた神様の支配の中で私たちは自由に自分らしく生きていくことができるのです。
 だから、ペテロは、長老たちに、支配するのではなく、「むしろ群れの模範となりなさい」と教えています。「模範」とは、直訳では「型」「跡」という言葉です。
 こんな話を聞いたことがあります。ある雪の夜、酒に溺れた父親が家を出て千鳥足で歩いていました。ふと振り返ると、息子が雪の上に残った自分の足跡をたどりながらついて来るではありませんか。その息子の姿を見て父親はぞっとしました。自分の酔っ払ってふらふらした歩き方を息子がそのままなぞっていたからです。それで、父親は自分の愚かさを知ったというのです。これは、悪い模範ですが、「子供は親の背中を見て育つ」というように、どんな模範を見て育つかはとても重要なことなのです。だから、「長老たちは良い模範を示す必要がある」とペテロは言っているのですね。
 この手紙の2章21節にこう書かれていましたね。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」イエス様も、人々を無理矢理に従わせようとするのではなく、身をもって模範を示してくださったのです。だから、長老たちも、イエス様がなさったように、自分自身が他の人々の模範となるようにしなさい、というのですね。
 また、4節に「大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです」と書かれていますね。イエス様御自身が大牧者、牧者の中の牧者なる方です。イエス様は、強制することも、卑しい利得を求めることも、暴君のように支配することもなさらず、愛と恵みによって私たちを養い育ててくださるお方です。そのイエス様を模範として羊を牧していきなさいとペテロは勧めているのですね。

2 若い人たちへの勧め

さて、次にペテロは、「若い人たちよ。長老たちに従いなさい」と書いています。この「若い人たち」というのは、年齢が若いという意味なのか、信仰生活がまだ短い人という意味なのか、あるいは両方の意味を含んでいるのかもしれません。とにかく、長老たちの指導を受ける立場の人たちですね。
 「長老たちに従いなさい」というのは、何が何でも、理不尽なことがあっても従いなさいということではありません。長老たちがイエス様を模範として生きている姿を見て、それに倣っていきなさいということですね。また、主によって立てられている長老たちの立場を尊重しなさい、ということでもあります。

3 教会に集うすべての人に対する勧め

 そして、ペテロはこう書いています。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
 「身に着ける」とは、台所に立つときエプロンを着けますね。それと同じで、教会に集う人々は皆、いつも謙遜という前掛けを身につけて生活しなさい、なぜなら、謙遜は、神様の恵みを受け取るために大切な姿だから、というのですね。
 では、「謙遜」とは何でしょうか。「自己卑下」とは違います。「謙遜」の基本は、神様が見てくださる見方で自分を見るということです。まず、「神様がこんな私を愛してくださり、御子のいのちをかけて救いを与えるほどに大切な存在として見ていてくださる」ということを自覚しましょう。そこから自信が生まれてきます。その一方で、「私はちりから造られた弱い者だ。私が生かされ、救われたのは、私の力や努力によるのではない。ただ神様の愛とあわれみと恵みによるのだ」ということも忘れないようにしましょう。そうすれば、誰も自分を誇ることなどできないのです。
 そして、ペテロは、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」と書いていますね。これは、神様が御自分の御計画を必ず成し遂げられるのだから、何が起こっても神様が最善をなしてくださることを信頼し、自分の置かれている場所ですべきことをしていきなさいということです。
 創世記に登場するヨセフの生涯を見ると、そのことがよくわかります。
 ヨセフは、父親に溺愛されて兄たちの妬みを買い、奴隷商人に売り飛ばされ、エジプトに連れていかれ、エジプトの役人の家で奴隷として仕えるようになりました。しかし、ヨセフは、絶望して投げやりになるのではなく、忠実に仕事をこなしたので、主人に気に入られ、全財産の管理を任せられるようになりました。ところが、主人の妻がヨセフを誘惑してきました。ヨセフが断固として拒絶すると、妻はヨセフが自分を襲おうとしたという嘘を言い、結局、ヨセフは無実の罪で投獄されてしまいます。しかし、牢の中でもヨセフは自暴自棄になるようなことはありませんでした。ヨセフは、監獄長に気に入られ、牢の中のすべての管理を任されたのです。
 その監獄に、王に仕える高官が二人投獄されてきました。二人がそれぞれ不思議な夢を見て何の意味かと思い悩んでいたとき、ヨセフがその夢の意味を解き明かしました。三日後に一人は釈放され、もう一人は死刑になるというのです。そのヨセフの言った通りのことが実際に起こりました。
 その二年後、こんどはエジプトの王が不思議な夢を見ました。「ナイル川から肥えた七頭の雌牛が上がってきて草をはんでいたが、あとから痩せ細った七頭の雌牛が上がってきて、肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった」という夢と「一本の茎に肥えた良い七つの穂が出て来たが、そのあとからしなびた七つの穂が出て来て、肥えた七つの穂をのみこんでしまった」という夢です。エジプト中の知恵のある者が集められましたが、誰もその夢を解き明かすことができません。その時、牢の中でヨセフに夢を解き明かしてもらった高官がヨセフのことを思い出し、ヨセフは王の前に呼び出されました。ヨセフは、見事に夢を解き明かして言いました。「これから七年間の大豊作が訪れます。しかし、その後、七年間の大ききんが起こり、豊作の跡も残らなくなります。ですから、豊作の七年間に各地に穀物を保管させて、ききんに備えてください」と。
 王は、ヨセフの知恵に驚嘆し、ヨセフを王に次ぐ地位に就かせ、すべてをヨセフに支配させたのです。ヨセフは、牢獄の囚人から、一気にエジプトのナンバー2になったわけですね。
 さて、七年後に大飢饉が始まりました。ヨセフの家族が住むカナンの地も食べ物が不足し始めたので、兄たちがエジプトに食料を買いにやって来ました。劇的な対面です。ヨセフは、父や兄たちの家族を皆呼び寄せ、エジプトに住まわせました。そして、昔自分にひどい仕打ちをした兄たちにこう言ったのです。「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45章5節)「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」(創世記50章20節)
 聖書には、ヨセフが奴隷として売られた時も、無実の罪で投獄された時も、どんな境遇にある時も「主が彼とともにおられた」と書かれています。ヨセフは、恨みや憎しみや失望に支配されるのではなく、自分が神様の力強い御手の下にあることを信頼し、置かれた場所で自分の責任を忠実に果たしていきました。その中で神様がいつもともにいてヨセフに知恵と力を与えてくださいました。そして、ペテロが書いているとおり、神様が、ちょうど良い時に、ヨセフを高くしてくださったのです。
 神様は、私たちにも同じようにしてくださいます。ですから、神様の力強い御手に信頼しつつ、謙遜に従っていきましょう。