城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一二月八日            関根弘興牧師
                第一ペテロ五章七節〜一三節
ペテロの手紙連続説教22
    「あらゆる恵みに満ちた神」

7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。12 私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。13 バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。14 愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。(新改訳聖書)


今日は、ペテロの手紙第一の最後の箇所です。今まで見てきましたとおり、この手紙は、クリスチャンとして受ける苦しみや試練があること、しかし、その苦しみの中に励ましや慰めがあることを繰り返し記しています。
 そして、前回の5章6節には、こう書かれていました。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」神様がちょうど良いときに私たちを高く上げてくださることを信頼して、神様の力強い御手の下にへりくだって歩んで行こうというのですね。
 そして、今日の箇所でも、ペテロはいくつかのことを勧めています。詳しく見ていきましょう。

1 思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい

 まず、「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とありますね。思い煩わない人など誰もいません。何か問題が起こると、神様を信じてはいても、心が騒いだり悶々としてしまうことがありますね。
 私は、小田原での開拓伝道を始めてしばらくした時、思うように働きが進まず大変落ち込んでいました。その頃も「御手の中で」を賛美していましたが、「御手の中ですべてが変わる、感謝に」と歌っているのに、まったくその言葉が信じられませんでした。頭じゃわかっても、心がついていかないということがあるんですね。
 人はいつも否定的に物事を考えてる癖をもっています。そして、次から次へと否定の連鎖が始まり、悪循環が続き、すべての道が塞がれてしまったかのような錯覚を持ちますね。だからこそ、イエス様は、弟子たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われたのです。
 使徒の働きの中に、パウロがローマに行った経緯が記されていますが、そこには実に不思議な神様の導きがありました。
 パウロは、以前からローマに行って伝道したいと望んでいたのですが、神様に示されて、エペソを出発し、ローマとは反対方向のエルサレムに向かいました。そのエルサレムで、敵対するユダヤ人たちにつるし上げられ、ローマ軍によって逮捕、投獄されてしまいます。その後、総督がいるカイザリヤで二年間の獄中生活を送った後、ローマで裁判を受けるため、ローマ軍の百人隊に護送され、船でローマに出発したのです。当時、個人でローマまで旅行するのは大変でした。時間も費用もかかりますし、途中で強盗に襲われる危険もありました。しかし、パウロは、自分で費用を払う必要もなく、ローマ軍の兵士たちに守られて安全にローマに行けることになったのです。神様の配慮はすばらしいですね。
 しかし、船旅は順調ではありませんでした。激しい嵐が二週間も吹き荒れ、絶望的な状況になってしまったのです。しかし、パウロは、神の御使いから「恐れるな。あなたは必ずローマに行く。神は、あなたと同船している人々をみなあなたとともに救ってくださる」と示され、皆を元気づけました。そして、船は座礁してしまいましたが、全員無事にマルタ島に漂着したのです。その島でも不思議なことが起こりました。パウロは、まむしにかまれたのですが、まったく害を受けませんでした。また、島の首長の父親が熱病を患っていましたが、パウロが祈って手を置くといやされたのです。そこで、パウロは、その島の人々に非常に尊敬されました。そして、持ち物をすべて失ってしまったパウロたちのために島の人々が必要な品々を用意してくれたのです。逮捕、投獄、嵐と「大変」の連続でしたが、神様のパウロへの計画は万全で、パウロは無事にローマに到着し、そこで軟禁状態の生活を送る間、訪ねてくる人々に自由に福音を語ることができたのです。
 エレミヤ29章11節で、神様はこう言っておられます。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 皆さん、私たちはそれぞれ、いろいろな大変さを通過しますが、実は、それさえも神様の御計画の一部なのです。そして、神様の御計画は、私たちに将来と希望をもたらすものです。
 また、ペテロは、今日の箇所で「神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いていますね。神様は、私たちに何が必要かを私たち自身よりもよくご存じで、私たちの最善のために必要なものを備えることがおできになるのです。
 イエス様もマタイ6章31節ー33節でこう言っておられます。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
神様は、私たち一人一人のことをよくご存じで、必ず支えてくださいます。私たちは、弱く、恐れやすく、すぐに思い煩ってしまいますが、そんな時、神様の約束を思い出して、いっさいを神様にゆだねていきましょう。
 では、「ゆだねる」とは、どうすることでしょうか。
 ピリピ人への手紙4章6ー7節にこう書かれています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」また、イザヤ書30章15節には、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼 すれば、あなたがたは力を得る」と書かれています。 
 大切なのは、神様の前に静まる時を持つことです。思い煩いに翻弄させている時にこそ、それが必要です。そして、次のようなことをしましょう。

@神様について思い巡らす。
 私を愛し、私のすべてをご存じで、私に必要なものを備えてくださる神様がいつも共におられることを改めて覚えましょう。

A自分の思い煩いや願い事を知っていただく
 その神様の前に、自分のありのままの状態を打ち明けましょう。何を感じ、何を願っているのか、包み隠さずに注ぎ出すのです。神様は、私たちがどんなことを打ち明けても受け止めてくださいます。

B感謝と信仰の告白
 聖書の約束を思い起こし、すべてのことが神様の御計画の中にあることを信頼しましょう。そして、意志をもって「神様を信頼します」「神様が最善をなしてくださることを感謝します」とあえて告白していくのです。

C結果をお任せする
 自分の願いがいつもその通りにかなうとは限りません。でも、たとえ自分の願い通りにならなくても、神様のみこころがなることが最善なのです。イエス様も、十字架にかかる前、ゲッセマネの園でこう祈られましたね。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26章39節) 私たちも「あなたのみこころのようになさってください」と祈っていきましょう。

 ところで、今日の箇所でペテロが使っている「ゆだねなさい」という言葉は、もともとは「投げつけなさい」という意味があります。とても面白い表現なんですね。「自分の思い煩いを心から引き剥がして投げつける」ということなんです。「思い切りよく神様に丸投げしてしまいなさい」ということですね。私たちが自分で握りしめているよりも、思い切って神様に丸投げした方が、神様もずっとみわざをしやすくなるでしょうね。

2 身を慎み、目を覚ましていなさい

 それから、ペテロは、8節で「身を慎み、目を覚ましていなさい」と勧めています。これは1章と4章にも書かれていましたね。なぜペテロがこの言葉を繰り返し記しているかというと、「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回って」いるからだというのです。これを読むとオカルト的な姿を想像して恐れを感じる方もいるかもしれませんね。しかし、聖書の約束を知っていれば、恐れることはありません。第二テサロニケ3章3節には「主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます」、第一ヨハネ5章18節には「神から生まれた方(イエス・キリスト)が彼(神によって生まれた者)を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです」と書かれています。つまり、私たちは神様の完全な守りの中にいるので安心していいのです。ただし、「その神様の守りの中から、あえて出て行ってしまうことがないように注意していなさい。悪魔が私たちを神様から引き離して滅ぼそうと狙っているから」とペテロは警告しているわけです。

(1)悪魔の働き

 聖書で教えている悪魔とは、神様に敵対する霊的な存在のことです。悪魔の最も大きな目的は私たちを神様から引き離して滅ぼそうとすることです。ですから、悪魔は、まず、イエス様の救いのみわざをなんとか阻止しようと試みましたが、イエス様は十字架と復活のわざをなしとげ、悪魔に対して勝利を収められました。そのイエス様を信じる私たちに悪魔は手出しできないわけですが、最後のあがきで、食い尽くす獲物を探し求めて、私たちを次のような方法で誘惑しようとしてくるのです。

@神様への信頼を失わせる
 悪魔は、「神様は、私なんか愛していないし、見向きもしてくれない」「神様はえこひいきで冷酷で自分勝手だ」「いくら神様でもこの問題の解決は無理だ」「神様の約束なんて信じられない」「そもそも神様なんて本当にいるんだろうか」などと、神様の存在や御性質について疑いを持たせるように誘導します。それがはっきり悪魔の仕業だとわかれば私たちは警戒し抵抗できますが、悪魔は、私たちがあたかも自分自身でそう考えているかのように思わせるのです。そのため私たちは知らないうちに否定的、絶望的になってしまうのですね。
人生には、いろいろな予期せぬ出来事があります。つらい現実、困難、それは、昔も今も変わりません。そういう時に悪魔は私たちの中に神様を疑ったり否定したりする思いを投げ込んで、「神様を信頼するなんて無駄だ。信仰など何の役にも立たない」という方向に誘導しようとするのです。
 十六世紀の宗教改革者ルターは、当時の腐敗したカトリック教会を大胆に批判し、聖書に基づいた改革を進めていました。しかし、あるとき、大きな失望を味わい、部屋に引きこもってしまったのです。すると、奥さんが喪服を着て彼の部屋に入ってきました。「誰が亡くなったのだ」とルターが尋ねると、「神様がお亡くなりました」と言うのです。「何をいっているんだ。神様が亡くなるはずがないではないか。」すると、奥さんは言いました。「いつも神様を信頼しているあなたがそんなに失望している姿を見て、てっきり神様がお亡くなりになったと思いました。」ルターはその言葉を聞いて、「神様は生きておられる」ということを再確認したというのです。ルターのような偉大な信仰者でも神様が死んだかのように絶望することがあったのですね。

A人を高慢にさせる
 最初の人アダムとエバを誘惑した悪魔の殺し文句は「あなたは神のようになれますよ」というものでした。神様に従う必要なんてない、自分が自分の人生の神となって支配し、自分の思うように生きればいいではないか、と誘惑するのです。しかし、魚が水の中でこそ自由に生きられるように、私たちは神様の愛の中でこそ本当に自由に自分らしく生きられるのです。魚が陸に上ると死んでしまうように、神様を拒絶して自分勝手に生きようとすることは、かえって人生を破壊することになるのです。

(2)悪魔に立ち向かうために

 では、私たちはどのようにして悪魔に立ち向かっていけばいいのでしょうか。ペテロは「堅く信仰に立って」と書いていますね。パウロは、エペソ6章11節ー18節にもう少し詳しく書いています。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。・・・しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神の言葉を受け取りなさい。 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」   
 私たちが身に着ける武具として、「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音の備え」「信仰の大盾」「救いのかぶと」「御霊の与える剣である神の言葉」の六つが挙げられています。最初の五つはどれも防御のためのものですね。神様が私たちに真理、正義、平和の福音、信仰、救いを与えてくださっています。それを心から感謝して受け取り、身に着けていればいいのです。
最後の「御霊の与える剣である神の言葉」だけは攻撃に使われる武器ですね。私たちは、聖書の言葉によって悪魔の攻撃や誘惑を退けることができます。「神はあなたなんか愛していない」という攻撃には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という神様の言葉があります。「こんな問題があるから、あなたの人生は絶望的だ」という攻撃には、「神はすべてのことを益としてくださる」というローマ8章28節の言葉があります。その時々に応じた聖書の言葉を、聖霊が思い起こさせてくださるでしょう。イエス様も、荒野で悪魔の誘惑を受けたとき、聖書の言葉を使って退けられましたね。私たちも聖書の言葉を用いていきましょう。そして、いつも祈りによって神様とつながり、また、お互いに支え合っていきましょう。

3 苦難の中での神様の約束

 さて、ペテロは、この手紙の最後に希望の言葉を書き記しています。10節に「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」とありますね。
 「完全」という言葉は、もともとは「回復」という意味です。骨折を治すのに用いられた言葉です。私たちは、人生につまずき、まるで骨折してしまったかのように歩けなくなることがあります。しかし、神様が回復させてくださるというのです。
「堅く立たせ」は、「大理石のように堅固にする」という意味の言葉です。神様は、苦しみを通して私たちの人生を堅固なものにしてくださるのです。
 「強くする」は「力づける」という意味です。様々な試練を通り抜けることによって、私たちの信仰は、より一層力強くなるのです。
 また、「不動の者とする」とは、「定着させる」とか「基礎を据える」という意味です。私たちは、試練に会ったときに初めて、自分が何を信じ生きてきたのか、これから何を信頼して生きていくのか、自分の人生の基礎は何かということが問われますね。試練は、人生の土台を据えるものとなるのです。
 そして、「あらゆる恵みに満ちた神」が私たちをそのような者にしてくださるのですね。私たちが自分の力ではできないことを、神様が恵みによって成し遂げてくださいます。だから、ペテロは、12節で「この神様の恵みの中に、しっかりと立っていなさい」と勧めているのです。

4 最後の挨拶

 さて、12節からの最後の挨拶の中で二人の人物の名前が挙がっていますね。まず、「シルワノ」はパウロと伝道旅行をした「シラス」と同一人物です。教会が誕生して間もない頃から教会の中心的メンバーの一人でした。ローマの市民権を持っていて、ペテロよりはるかに多くの教育を受けていたようです。それで、この手紙を優れたギリシヤ語で代筆したのでしょう。
 また、マルコは、以前、パウロとの伝道旅行の途中で帰ってきてしまった人物ですが、後にパウロから「役に立つ人物」として認められるほどに成長しました。また、ペテロに仕え、通訳者としてペテロと行動を共にし、ペテロから聞いたことをもとにマルコの福音書を書き記したと考えられています。
 ペテロやパウロのような偉大な人の働きの背後には、いつもシルワノやマルコのような同労者がいたのですね。それから、「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人」とありますが、無名の協力者もたくさんいたのです。
 今でも同じです。名前が出る、出ないは問題ではありません。そういうことを問題にすること自体、主の心にそぐわないのです。大切なのは、主に仕える群れの一人一人が互いに助け合い支え合う中で主のみわざが進められていくということなのですね。
 最後に、ペテロは「互いに愛のあいさつをかわしなさい」と勧めています。挨拶は大切ですね。心を込めて、「あなたに祝福がありますように、平安がありますように」と挨拶できるのは幸せなことです。
 私たちも、お互いに、主にある兄弟姉妹として、心から神様の祝福があるようにと挨拶し合い、それぞれの場に出ていくことにいたしましょう。