城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一月五日              関根弘興牧師
                 第二ペテロ一章一節〜二節
ペテロの手紙連続説教23
    「同じ尊い信仰」

1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(新改訳聖書)

今日からペテロの第二の手紙に入ります。
 当時の教会は、様々な試練や困難に直面していました。また、クリスチャンたちに対する大きな迫害が迫ってきていました。そこで、ペテロは、クリスチャンたちを励まし慰めるために第一の手紙を書きました。その手紙の中で、ペテロは、「試練や困難の中でも動揺しないで神様の約束を信頼し、将来の希望を見つめ、キリストを模範として生きていきなさい。神様が共にいて支え、必要なものを備えてくださるのだから、しっかりと信仰に立ち続けなさい」と繰り返し勧めていましたね。
 そして、その後、第二の手紙を書いたわけですが、この第二の手紙を書いた頃には、ペテロは、自分の生涯の終わりが近いことを意識していたようです。なぜなら、1章14節に「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです」と書いているからです。まるで遺言のような手紙ですね。ペテロは、自分に残された時間が限られていることを知って、イエス様から学んだことを端的に書き残すために、この手紙を記したのです。
 今日はまず、最初の部分を見ていきましょう。

1 ペテロの肩書き

 まず、ペテロは、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロ」と自己紹介しています。「イエス・キリストのしもべ」、そして、「使徒」という二つの肩書きを付けていますが、ペテロにとってはこの二つで十分だったのですね。パウロも手紙を書き送るときに同じ肩書きたびたび使っています。この二つの肩書きには、どのような意味があるのでしょうか。

(1)イエス・キリストのしもべ

 この部分の原語のギリシャ語の語順は、「シメオン、ペテロ、しもべ、そして、使徒、イエス・キリストの」となっています。
 まず、ペテロは、自分の元々の名前である「シメオン」を記しました。日本語訳では「シモン」となっていますが、シモンはシメオンの短縮形です。次に、イエス様から与えられたあだ名である「ペテロ」を名乗っています。後で説明しますが、彼はこの「ペテロ」という名前を大切に思っていたでしょう。また、当時、シメオン(シモン)という名前の人はたくさんいましたから、他の人と区別する意味でも「シモン・ペテロ」と記しているのでしょう。
 次に書かれているのは、「しもべ」という言葉ですが、これは「奴隷」という意味の言葉です。
 もし私が手紙の最初に「私は、奴隷です」と書いたら、「何だ、こいつは奴隷なのか。奴隷の手紙なんか読む価値がない」と思われるかもしれませんね。「何々大学の教授で、世界的権威の○○先生からの手紙です」と言われたら、どれほど高尚なことが書かれているのだろう、読んでみようと思うかもしれませんが、ペテロはまず自分が「奴隷」だと書いているのです。 当時のローマ帝国には奴隷があふれるほどいました。ローマ帝国は奴隷によって支えらていたと言っても過言でありません。しかし、わざわざ自分が奴隷であることを肩書きに記すなど愚かなことのように思えますね。
 でも、ペテロの場合は、ただの奴隷ではありません。その後に「イエス・キリストの」という説明が付いているのです。奴隷の人生は、どんな主人に仕えるかによって大きく変わりますね。イエス・キリストに仕える奴隷であることに、ペテロは大きな誇りを持っていたのです。
 なぜなら、イエス・キリストこそ愛と恵みに満ち、従う者たちに最善の人生を備えてくださる方だからです。また、イエス・キリストは、しもべとして生きることの大切さを教えてくださり、御自身の身をもってしもべとして生きる模範を示してくださいました。そのイエス様といつも行動を共にしてきたペテロは、イエス・キリストのしもべとして生きることの大切さを深く学んだのでしょう。
 イエス様は、ペテロを含めた十二人の弟子を選んで、いつも御自分の身近に置かれていました。その弟子たちの最大の関心事は何だったかというと、「この中で誰が一番偉いのか」ということでした。彼らの議論の中心は、いつもこのテーマでした。マルコ9章33節-34節には、こう書かれています。「イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。『道で何を論じ合っていたのですか。』彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」
 マルコ10章では、十二弟子の中の二人、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟がイエス様のもとに来てこう言いました。「イエス様、お願いがあります。あなたが王として栄光の座に着いたとき、あなたの右と左に私たちを座らせてください。」つまり、「私たちを他の弟子たちよりも偉くしてください。イエス様の次に偉い位に就けてください」とお願いしたわけですね。マタイの福音書20章には、この時、彼らの母親も一緒に来てひれ伏してイエス様に息子たちのことをお願いした、と書かれています。
 それを聞いた他の弟子たちは、腹を立てました。皆、自分が一番偉くなりたいと願っていたからです。
 すると、イエス様は、こう言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
 この「偉くなりたい」と訳されている言葉には「この上ない人生を送りたい」というような意味もあります。誰でも「この上ない人生を送りたい」と思いますよね。イエス様は、最上の人生を送りたいなら、権力をふるい、横暴な生き方をするのではなく、仕える者、しもべになりなさい、と言われたのです。 また、イエス様はこうも言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 「人の子」とは、神であるのに人となって来られたイエス様御自身のことです。イエス様は、神なる方、最高に偉い方なのに、神の栄光を捨て、人となり、仕えるために来てくださいました。そして、「多くの人のための、贖いの代価」として、御自分のいのちまで与えてくださったのです。「贖いの代価」とは、「奴隷を自由にするための身代金」を表す言葉です。イエス様は、罪と死の奴隷である私たちを自由にするために、十字架にかかり、御自分のいのちを身代金として支払ってくださったのです。そして、そのイエス様を信じれば、解放されるという証拠として、イエス様は、三日目によみがえられました。
 ペテロは、そのイエス様の姿を見て、イエス様こそしもべとしての生き方の模範であることを深く知りました。そして、イエス様が教えてくださった仕える者として生きることの幸いも深く学んだのです。ですから、この手紙でも、「私はイエス・キリストのしもべです」と誇りをもって記しているのですね。
 私たちもイエス様のしもべです。そして、だからこそ安心なのです。キリストは、私たちを愛し、徹底的に仕えてくださいました。そのキリストの模範に従い、私たちも互いに愛をもって、神様にいただいた賜物を生かしながら仕え合って生きていきましょう。
 パウロも、互いにイエス・キリストのしもべとして仕え合って生きていくことの大切さを教えています。パウロは、教会を、キリストのからだにたとえました。かしらはキリスト、一人一人は体の各器官です。それぞれが、かしらであるキリストに従いながら自分の役割を果たし、互いに補い合っていくからこそ、からだは健全に成長していくのです。もし皆が同じことをしたら、体は成り立ちません。また、器官の一つが自己主張したり自分勝手なことをし始めたら、あるいは、互いに傷つけ合ったら、からだはすぐに病んで、破壊されてしまいます。また、それぞれの器官の役割は、神様によって与えられたものですから、また、どの器官もからだにとって必要なものですから、自分が一番偉いかのように誇るのはおかしいですね。器官の一つが痛めば、からだ全体が痛むのです。必要のない器官はありません。すべての器官がかしらなるキリストに従っていくことによって、幸いを味わうことができるのです。
 「私は何もできない。不要な器官ではないか」とは思わないでください。小さな笑顔一つでも、ほんの小さなひと言でも相手を励ましたり慰めたりできるのですから。私たちはこの世に生かされている限り「生涯現役のしもべ」とされているのです。

(2)イエスキリストの使徒

 次にペテロは、自分を「イエスキリストの使徒」であると紹介しています。
 「使徒」という言葉は、ヘブル語では「シャーリアハ」と言いまして、「遣わされた者」という意味です。これは、ユダヤ教の大切な用語として使われていた言葉でした。「神殿当局から各地のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に派遣される公的使節」のことなんですね。そして、使徒の語る言葉には、その使徒を派遣した当局の権威が付随していました。
 ですから、ペテロが「私はイエス・キリストの使徒です」と言う場合、それは「私はイエス・キリストから遣わされ、キリストの権威のもとにキリストの言葉を伝える者です」という意味があるのです。つまり、この手紙の言葉は、ペテロが書いた言葉ではあるけれども、ペテロを使徒として遣わしたイエス様からのメッセージでもあるということなのですね。
 聖書で「使徒」と呼ばれているのは、限られた人々です。まず、イエス様によって選ばれた十二弟子です。彼らは、イエス様といつも共に生活し、イエス様の教えや行い、またイエス様の復活の目撃証言者となりました。ただ、その中でイスカリオテ・ユダが裏切って十一人になりましたので、その代わりに、マッテヤという人が加えられました。そして、十二弟子以外ではもう一人、パウロが使徒と呼ばれています。パウロは、最初はイエス・キリストに激しい敵意を抱いていましたが、クリスチャンを迫害するためにダマスコの町に向かう途上で復活したイエス様に出会い、劇的な回心をしました。その後、イエス様からユダヤ人以外の人々にも福音を宣べ伝える使命を与えられ、各地に遣わされていきました。ですから、「使徒」という言葉は、狭い意味では、十二弟子とパウロだけを指しています。
 しかし、広い意味では、クリスチャン一人一人がイエス様に遣わされて神様の恵みを伝える使徒であると言うことができます。私たち自身に権威があるのではなく、私たちが分かち合う聖書の言葉にイエス様の権威があるのです。私たち一人一人がペテロと同じようにイエス・キリストのしもべであり、使徒でもあるのですね。

2 宛先の人々

 さて、次に、ペテロがこの手紙を書いたのは、どんな人々に対してでしょうか。「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」と書かれていますね。
 この手紙の宛先は、特定の場所に住む人たちではなく、すべてのクリスチャンたちです。つまり、この手紙は、いろいろな教会に回覧され読まれるために書かれているわけですね。それが、時代を超えて、この教会でもこうして読まれているわけです。
 ペテロは、手紙の宛先の人々を「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」と呼んでいますね。手紙を書いている側と受け取る側に共通の土台があるのです。どのような土台でしょうか。

(1)同じ信仰告白

 マタイ16章に書かれていますが、イエス様が弟子たちとピリポ・カイザリヤという地方に行かれたときのことです。イエス様は、弟子たちに「人々は、わたしを誰だと言っていますか」とお尋ねになりました。すると、弟子たちは口々に応えました。「バプテスマのヨハネが生き返ったのだと言っている人がいます。旧約聖書の偉大な預言者エリヤかエレミヤの生まれ変わりだと言っている人もいます。」すると、イエス様は「あなたがはわたしを誰だと言いますか」と問われたのです。ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と応えると、イエス様は、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
 ペテロは、この時の光景を決して忘れることはなかったでしょう。イエス様は、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。「ペテロ」とは岩という意味です。イエス様がつけられたあだ名です。彼は自分がペテロと名乗るたびに、「あなたは生ける神の御子キリストです」というイエス様への告白こそが信仰の土台となる堅固な岩であることを繰り返し心に刻み込んでいたことでしょう。
 それは、今でも同じです。「教会」とは、制度や組織のことではありません。「イエス・キリストこそ生ける神の御子キリスト(救い主)です」という告白をした人々の集まりを指す言葉なのです。この告白によって、私たちは、キリストとつながり、生かされ、成長し、実を結ばせていくことができます。この告白こそが、私たちの人生の土台となり、教会の土台となる、もっとも尊い告白なのです。

(2)イエス・キリストの義によって与えられた信仰

 それから、ペテロは、私たちが尊い信仰を受けることができたのは、「イエス・キリストの義によって」であると書いていますね。
 この「イエス・キリストの義によって」とは、どういうことでしょうか。
 これは、「イエス様が義なる正しいお方である」というイエス様の御性質のことだけを言っているのではありません。
 義とは、「正しい」という意味であるとともに、神様とのまっすぐな関係を意味する言葉でもあります。イエス・キリストが十字架で私たちの罪の罰をすべて引き受けてくださることによって、私たちは義、つまり、罪のない正しい者と認められ、また、その結果、神様とのまっすぐな関係を持つことができるようになりました。つまり、イエス・キリストが用意してくださった義によって、私たちは、神様の愛の中で神様と共に生きることができるようになったのです。
 神様は、私たちを愛し、私たちを救うためにキリストを遣わし、そして、こう約束してくださいました。「わたしは罪人であるあなたを義とする。しかし、それは、あなたの努力や善行によるのではない。あなたが立派なことをしたから、あなたを正しいと認めるのではない。わたしが遣わしたイエスがあなたの罪の身代わりに十字架にかかり、あなたの罪の贖いを完全に成し遂げたゆえに、あなたを罪のない者として認めるのだ。」つまり、私たちが「イエス・キリストの義によって尊い信仰を受けた」というのは、イエス様によって成し遂げられた救いのみわざによって、私たちが神様の愛を知り、神様を信頼し、赦しと恵みの中に生きることのできる者となったということなのです。
 ペテロが「尊い信仰」と言っているのは、尊い信仰と尊くない信仰があるということではありません。私たちの信仰は、すべて神様がイエス・キリストの義のわざによって与えてくださった尊いものなのですよ、ということなのです。ヘブル12章2節にあるように、イエス様こそ「信仰の創始者であり、完成者」なのです。ペテロも、手紙の宛先の人々も、今日、ここにいる私たち一人一人も皆、イエス・キリストによって同じ尊い信仰を与えられたのです。

3 祈り

さて、この手紙を書き始めるにあたって、ペテロは、2節でこう祈っています。「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
 恵みと平安は、神様が愛する一人一人に与えてくださる霊的な祝福の総称です。次の3節からその具体的なリストが記されているので、次回学んでいきますが、私たちは、神様と主イエス様を知れば知るほど、恵みと平安をますます豊かに受けることができるのです。「ますます豊かに」とありますが、神様を知ることに終わりはありませんから、与えられる恵みと平安も尽きることがありません。それどころか、ますます豊かになっていくのです。哀歌3章22節-23節に「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」と書かれているとおりです。
 ところで、この「知る」というのは、単に知識を得ることではありません。日毎の人格的な関わりの中で、神様、イエス様がどのような方なのかを具体的に知っていくことです。祈り、心の思いを打ち明け、賛美し、感謝し、礼拝し、聖書を通して語られる言葉に耳を傾けていきながら、私たちは神様とイエス様を経験的に知り続けていくのです。その中で、恵みと平安を味わうことができるでしょう。
 教会は、聖書を大切にします。なぜなら聖書を通して神様について、主イエス様について知ることが出来るからです。そして、そこには、いつも恵みと平安が生まれます。もし不安になったら、聖書の読み方が間違っているのです。聖書は、罪を示すと同時に、赦しの恵みを語ります。互いに愛し合いなさいという命令とともに、神様がまず一人一人を愛し、互いに愛することのできる者に変えてくださるという約束を示してくれます。しもべとして生きなさいという教えとともに、私たちのためにいのちをお捨てになったキリストのしもべとしての模範の姿を示してくれます。自分の無力さを感じるとき、どんなときにも見捨てずに支えてくださるイエス様いてくださり、この方に信頼することの大切さを気づかせてくれます。
 恵みと平安は、クリスチャン生活を特徴づける祝福です。この一年、イエス様を知ることによって恵みと平安がますます豊かにされていきますように。