城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一月一二日             関根弘興牧師
                 第二ペテロ一章三節〜四節
ペテロの手紙連続説教24
    「尊い、すばらしい約束」

3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(新改訳聖書)


先週から、第二ペテロの手紙を読み始めました。ペテロは、この手紙を書いた頃には、自分の生涯の終わりが近いことを意識していたようです。そこで、イエス様から学んだことを端的に書き残すために、この手紙を記したのです。ですから、ペテロの遺言のような手紙なのですね。
 前回お話ししましたように、この手紙は、「イエス様こそ生ける神の御子キリストです」と告白するクリスチャンの人たちに送られました。その人たちのために、ペテロは、2節で「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」と祈っていますね。この「恵みと平安」は、神様が愛する一人一人に与えてくださる霊的な祝福の総称であると前回お話ししました。そして、その祝福の内容が今日の3節と4節に記されているのです。

1 神様によって召され、神様を知った

 まず、3節に「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知った」と書かれていますね。
 つまり、私たちは、神様によって召され、神様を知るようになったのです。
 この「知る」というのは、ただ知識として知るという意味ではありません。神様との親しい交わりの中で、神様がどのような方なのかを経験的に味わい知ることができるようになったということです。
 そして、そができるようになったのは、私たちの努力や善行や修行や犠牲の結果ではなく、ただ、神様ご自身が私たちを招いてくださったからだというのです。
 「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった」という部分は、別の訳では「栄光と栄誉によって召してくださった」となっています。神様が私たちを救い、ご自分のみもとに召してくださることは、神様の素晴らしい栄光、徳、栄誉によってなされたのだ、ということですね。
 そして、「召してくださる」というのは、「呼ぶ」「招待する」という意味です。神様は、私たちをご自分との親しい交わりに招待してくださいました。
 考えてみてください。あなたがもし誰かを家に招いたとしましょう。招いた人を放っておきますか。ずっと玄関に置き去りにしたままにしますか。招いたなら、その人をもてなし、歓迎し、共にいる時間を楽しむはずです。
 神様も同じです。神様は、招待した私たちを決して放っておかれる方ではありません。ゼパニヤ書3章17節にあるとおり、「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」のです。神様は、ご自分のもとに招待した私たちと共に喜び、楽しみ、最上のものをもってもてなしてくださるのです。

2 私たちに与えられたもの

 では、神様に召され、神様との親しい交わりの中に入れられた私たちは、どのようなものを与えられるのでしょうか。
 今日の箇所に二つのことが書かれています。
 
(1)いのちと敬虔に関するすべてのこと

 まず、3節に「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」とありますね。これは、新改訳聖書第三版の訳ですが、新改訳聖書2017では、「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました」となっています。
では、「いのちと敬虔」とは何でしょうか。
 「いのち」とは、私たちがイエス・キリストを信じ、受け入れたときに与えられる新しいいのちです。イエス様が「私を信じる者は、死んでも生きる」と言われたいのちであり、イエス様が十字架につけられて三日目に復活されましたが、その復活のいのちです。
 そして、「敬虔」とは、神様を敬う生き方のことですが、神様と共に生きていくことを指しています。
 つまり、「いのちと敬虔」というのは、神様の永遠のいのちによって生かされ、いつも神様と共に生きていくことなのですね。ですから、「いのち」と「敬虔」は切っても切れない関係にある言葉なのです。
 そして、神様は「いのちと敬虔に関するすべてのこと」「いのちと敬虔をもたらすすべてのもの」を私たちに与えてくださいます。私たちは、この世の生涯の中で様々なところを通っていくわけですが、神様は、私たちにいのちを与えるだけでなく、神様と共に歩んでいくために必要なすべてのものを与えてくださるというのです。
 そして、この「いのちと敬虔」は、「主イエスの、神としての御力」によって与えられるとありますね。
 神様は、私たちが「いのちと敬虔」を受けることができように、救い主イエス様を遣わしてくださいました。イエス様は、神であられる方なのに、私たちを救うために、私たちと同じ人となって来てくださり、私たちを神様から隔てている罪の問題を解決するために、私たちの罪をすべてご自分の身に負って十字架にかかってくださいました。また、復活によって死の力を打ち破り、私たちが神様のいのちを受け取ることができる道を開いてくださいました。また、復活したイエス様は、私たちといつも共にいて、教え導き、神様と共に歩むことができるように力を与え、守り、必要を満たしてくださるのです。
 イエス様は、神としての御力を持っておられます。マタイ28章18節で、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と言われました。福音書を読んでいくと、イエス様の権威がどれほどのものであるかを知ることができます。イエス様は、病を癒やし、嵐を沈め、罪を赦し、死者をよみがえらせ、あらゆる束縛から解放する権威を持っておられるのです。しかも、ヨハネ1章14節には、「この方は恵みとまことに満ちておられた」、同じく16節には、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」と書かれています。
 私たちは、イエス様の神としての御力を知ることによって、また、その深い恵みとまことを知ることによって、励まされ、慰められ、支えられ、力づけられるのです。
 私たちは、自分自身を見ると、弱さがあり、右にそれたり左にそれたりしてしまいやすい者だと思いますね。これからずっとクリスチャンとして生きていけるだろうか、と心配することもあります。でも、皆さん、心配無用です。なぜなら、神様がいのちと敬虔をもたらすすべてのものを主イエス様によって私たちに与えてくださっているからです。しかし、時々、与えられていることに気づかなかったり、忘れてしまうこともあるわけですね。だから、聖書を通して、礼拝を通して、神様が与えてくださるものの素晴らしさを知り続けることが大切なのです。そして、私たちの側では、みもとに招き、良きものを与え続けてくださる神様に感謝と賛美をささげ、いつも神様に対して誠実に歩んでいくことが大切なのですね。

(2)尊い、すばらしい約束

 それから、4節に「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」と書かれていますね。
 私たちには、神様から、尊い、すばらしい約束が与えられている。その約束によって、私たちは滅びを免れ、神の御性質にあずかる者となるというのです。
 この「約束」と訳されている言葉は、「宣言」という意味も込められています。「神様が私たちに確かに与えると宣言し、誓われたこと」を意味しています。神様が宣言し、誓われたのですから、撤回されることなどありません。神様以上に誠実で真実な方はいません。だからこそ、私たちは、神様の約束に全面的に信頼することができるのです。
では、神様が与えてくださった約束とは何でしょうか。
 ペテロは、第一ペテロ1章3ー5節にこう書いています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」
 また、第二ペテロ3章13節には、こう書いています。「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
 神様は、今、この世において私たちにいのちと敬虔に関するすべてのことを与えてくださるだけでなく、将来、この世の人生の終わりの時に現されるすばらしいものがあることを約束してくださっているのです。この肉体が滅びても、私たちには、天の住まいがあり、朽ちることも汚れることも、消えていくこともない永遠の資産が用意されているというのです。それは、神様がご自身の栄光と栄誉にかけて与えてくださった永遠保証の約束です。私たち自身の努力や頑張りでは決して得ることのできない、かけがえのない尊い約束なのです。

3 ペテロの期待

 そして、その神様の尊い、すばらしい約束があるからこそ、ペテロは私たちに二つのことを期待しています。それは、私たちが「世にある欲のもたらす滅びを免れ」るということ、そして、「神の御性質にあずかる者となる」ということです。
 
@世にある欲のもたらす滅びを免れる

 「世にある欲のもたらす滅び」とは何でしょうか。これを細かく分けると「世にある滅び」と「欲のもたらす滅び」となります。ここで使われている「世」という言葉は、「神様なしの秩序」という意味です。神様を無視した世界です。神様は愛であり義なるお方ですから、神様なしの世界では、本当の愛が失われ、正しさが失われてしまいます。そのような世界は、滅びに向かっているのだと聖書は教えています。
 そして、「欲のもたらす滅び」とは、人間の欲望や貪欲がその人の人生を台無しにしてしまうということです。聖書には、欲望によって自らの人生が破綻した多くの人々の姿が記録されていますし、身勝手な欲望に引きずられて生きることの愚かさを繰り返し警告しています。ペテロも、当時の欲望に支配されて生きるローマ世界の人々の姿を見て、非常に憂いていたことでしょう。
 といっても、私たちが持ついろいろな欲求が、すべて悪いわけではありません。食べたい、生きたい、良くなりたい、変わりたい、向上したい、愛し愛されたいなどの欲求は、人として大切なものです。しかし、必要以上に何かを求め、貪り、名誉や立場や金銭に執着し、それが行動の原則になってしまうなら、要注意です。いつのまにかそういう欲望が私たちを神様から引き離し、敬虔な生き方を妨げてしまうことになるからです。
 第一ヨハネ2章16節には、こう書かれています。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」
 この世の中には、裕福な人も貧しい人もいます。世の賞賛を受ける人もいれば、まったく無名のままの人もいます。でも、どんな状況に置かれたとしても、大切なのは、何を主人として生きるかということです。自分の欲望を主人として、欲望に支配されて生きるなら、それは滅びにつながっていきます。でも神様を主人とし、神様の支配に従って生きるなら、かならず神様が約束してくださったものを受け取ることができるのです。ペテロがこの手紙の最初に自己紹介しているように、私たちも「私は主のしもべです」と告白し続けていきたいですね。

A神様のご性質にあずかる者となる

 さて、もう一つは、私たち一人一人が神様のご性質にあずかる者となるということです。
 「神のご性質にあずかる」とはどういうことでしょうか。
 ヨハネは手紙には、「神は愛です」と記されています。ですから、神様のご本質は愛そのものです。私たちはこの愛を更に知り、この愛に留まり、この愛に憩い、この愛にあずかり生きる者とされていくのです。
 また、私たちの神様は、三位一体なる神様です。父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる三つの位格を持っておられ、それぞれの位格が同じ本質、同じ目的をもって完全な調和を保っておられます。ですから、神様のご性質にあずかるときには、そこに必ず調和が生まれてくるのです。
 この愛と調和に満ちておられる神様がいのちと敬虔のためにすべてを備えてくださることに感謝し、尊い、すばらしい約束があることを覚えつつ、今週も主と共に歩んでいきましょう。