城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一月一九日             関根弘興牧師
                第二ペテロ一章五節〜一一節
ペテロの手紙連続説教25
    「つまずくことのないために」

 5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。9 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。11 このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。(新改訳聖書)

このペテロの第二の手紙は、ペテロが自分の生涯の終わりが近いことを意識し、イエス様から学んだことを端的に書き残すために記したものです。ペテロの遺言のような手紙なのですね。
 ペテロは、まず最初に、この手紙の宛先の人たちのために「恵みと平安がますます豊かにされますように」という祈りを書き記しました。その「恵みと平安」とは、神様が私たちに与えてくださる祝福の総称です。では、神様の祝福とはどのようなものなのか、といことを前回は見ていきましたね。神様は、イエス・キリストをとおして、「いのちと敬虔に関するすべてのもの」を与えてくださいました。つまり、私たちに永遠のいのちを与え、また、そのいのちに生かされていく信仰生活に必要なすべてのことを備えてくださっているというのです。それだけでなく、神様は、「尊い、すばらしい約束」を与えてくださいました。私たちがこの地上の生涯を閉じた後に、神様と共に、神様のご性質にあずかる者として永遠に生きることができるという約束です。つまり、私たちがイエス・キリストを信じて新しいいのちを得ることができたのも、今、こうして主を信頼して歩んでいけるのも、将来の希望も、私たちが自分の努力や熱心によって得たのではなく、神様がご自分の栄光のために私たちを招き、必要なものを備えてくださっているからなのだというのですね。
 そのことを前提にして、今日の箇所では、神様から与えられたものを実際の生活の中でどのように用いていけばいいのかということが書かれているわけです。
 しかし、「あれ?」と思いませんか。5節には「あなたがたは、あらゆる努力をしなさい」とありますし、10節には「兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」と書かれていますね。ここだけ読むと、「自分で努力しなければ、実を結ぶことができないし、熱心にならなければ、召されたことや選ばれたことが取り消されてしまうことがあるのか」と思ってしまうかもしれませんね。
 しかし、ペテロは、そういう意味で言っているのではないのです。

1 「努力」「熱心」とは

 まず、5節の「努力」と訳されている言葉には、「熱意」「力の限り」という意味があります。といっても、ペテロが言いたいのは、「自分の力で頑張って善行を重ねたり、宗教的な特別なことをしたり、聖人君主になろうとしなさい」ということではありません。「私たちには、いのちと敬虔に関するすべてのものがすでに与えられているのですから、その与えられたものをどのように生かし用いていくのかということを人生のテーマとして熱い思いを傾けていこう」ということなのです。
 また、10節の「熱心」とは、「神様が自分に与えてくださった恵みを繰り返し覚え味わうことに熱心になりなさい」ということです。
 私たちは、この「努力」や「熱心」という言葉を誤解して、ひとりよがりに頑張ったり、熱狂的な行動をしたりしてしまうことがありますね。しかし、それは間違った努力や熱心さです。 自分の努力や熱心さで信仰生活を送ろうとする人のことを、パウロは「肉に属する人」と呼んでいます。肉に属する人は、自分の力や頑張りで信仰生活を送っていこうとするので、神様の恵みの深さになかなか気づくことができません。神様にお任せすることができないので、かえって聖霊の働きを妨げてしまい、本当の意味で成長することがむずかしくなってしまうのです。そして、結局、限界を感じ、疲れ切ってしまうのです。また、できない自分を自分で裁いたり、表面的な姿だけを見て自分と同じように行動しない人を裁いたり、人と比べて自分を誇ったりするようになってしまうのです。ですから、私たちは、間違った努力や熱心にとらわれないように気をつける必要がありますね。
 私たちに必要なのは、自分に与えられている神様の愛と恵みの素晴らしさをより深く知っていこうとする努力と熱心さなのだと言うことをいつも覚えていましょう。
 その上で、ペテロが今日の箇所でどのようなことに努力し、熱心であるように勧めているのかを見ていきましょう。

2 ペテロが勧める「努力」

 ペテロは、まず、与えられた信仰の上に、まるで積み木を重ねていくように、七つのことを積み重ねる努力していきなさいと勧めていますね。一つ一つの意味を考えていきましょう。

@徳

 徳とは、もともとは「道徳的な立派さ」を表す言葉です。しかし、ペテロがこの言葉を使うときには、神様の御性質の内に表される「徳」「正しさ」を現します。別の訳では「栄誉」と訳されています。つまり、神様は、徳と正しさによってもたらされる栄誉を備えておられます。私たちは、信仰に生きる時、その神様の御性質にあずかり、そのことを通して神様の栄誉が現されるような歩みをする者とされているということなのです。

A知識

 次に「知識」とありますね。私たちは、神様から与えられた信仰がどれほど素晴らしいものなのかを知らなければ、感動も感謝も生まれません。イエス様が成し遂げてくださった救いのみわざによって、罪が赦され、永遠のいのちが与えられました。そのすばらしさを知れば知るほど、どれほど大きなイエス様の愛が注がれているかがわかり、喜びが湧いてくるのです。
 パウロは、ローマ10章1-2節でこう記しています。「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」
 この「彼ら」というのは、ユダヤ人のことです。彼らは、真っ先に神様に選ばれ、神様の奇跡的なみわざを体験し、律法を与えられ、預言者たちを通して神様の様々なみことばを聞きました。そして、自分たちこそ神の民だと自負し、熱心に神様の戒めを守り、礼拝していたのです。パウロもその一人でした。しかし、彼自身が「その熱心は知識に基づくものではありません」と言っているように、間違った熱心さで神様に仕えようとしていたのです。パウロがそのことに気づいたのは、まことの救い主イエス様に出会ったときでした。ユダヤ人たちもイエス様についての知識がないために、間違った熱心さを持っていたのです。
 つまり、私たちにとって本当に持つべき知識とは、神様が、私たちのために与えてくださった救い主イエス様を知ることなのです。旧約聖書は、救い主が必要であることを教え、新約聖書は、救い主が来て何を成し遂げてくださったかを教えています。その聖書を通して知識を積み重ねていくことによって、私たちの信仰生活が豊かになっていくのです。

B自制

 次に「自制」です。人は何かを知っていると、つい誇りたくなったり、その知識をひけらかしたりしたくなるものですね。しかし、ペテロは、「知識には自制を」と記しています。伝道者の書3章7節にも「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」とあります。自制とは、自分を正しく管理することです。知識を得たら、その知識を賢く用いていくための自制が必要なのです。神様の導きを求めつつ、周りの状況に合わせて、自分の感情、思い、健康、人間関係などをいかに適切に管理するかに心を向けていくことが大切です。

C忍耐

 次に「忍耐」ですが、それは、単なる我慢強さではありません。何の根拠もないまま、ただじっと我慢していることではありません。聖書が教える忍耐は、とことん神様を信頼して生きることです。私たちは、毎日の生活の中で、様々な困難や矛盾に直面します。しかし、それでもなお、神様を信頼し続けていくのです。

D敬虔

 そして、「敬虔」とは、神様を愛し、敬って生きることです。神様に愛され、また、神様を愛する者として、賛美し、感謝し、信仰を告白し、礼拝をささげていくのです。

E兄弟愛

 これは隣人に対する愛ですね。敬虔は、神様への愛を表すものですが、兄弟愛は、身近な人々に向けられる愛です。

E愛

 そして、こららすべてを統括するものとして、「愛」が挙げられています。
 第一ヨハネ4章16節に「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」と書かれています。つまり、愛こそ神様の本質であり、私たちは神様を知れば知るほど本当の愛を体験的に知ることができるようになるのですね。ですから、「愛を加えなさい」という勧めは、「神様をより深く知っていきなさい」という勧めでもあるのです。そして、神様の愛を知るときに、私たち自身が神様のご性質にあずかる者として、愛に生きることができるようになっていくのです。信仰で始まり、愛で完成する生涯を求めていきましょう。

 さて、私たちに以上のようなものが備わっていくとき、どのような結果がもたらされるでしょうか。

(1)役に立つ者、実を結ぶ者になる

 ペテロは、8節で「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」と記していますね。
 つまり、私たちは、これらのものが備わっていくなら、「役に立つ者」「実を結ぶ者」になるというのです。
 ただ、私たちは「役に立つ者」という言葉を聞くと、何か特別なことができる者、何かに貢献できる者というイメージを持ってしまいますね。そして、「私など何の役にも立たない者だ」と落ち込んでしまうこともあるのではないでしょうか。
 しかし、ペテロが言っている「役に立つ者」とは、そういう意味ではありません。
 神様は、ご自分で何でもおできになる方です。無から有を生み出すことのできる方です。ですから、私たちが、神様のために役に立つことなど、実は何一つないといっても過言でありません。
 では、神様から「あなたは、役に立つ者だ」と言っていただけるのは、どんな人なのでしょうか。それは、神様を信頼し、神様から与えられた恵みに感謝し、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いを感謝して受け取り、神様に愛されていることを喜びつつ、互いに愛し合うことを大切にしている人々です。世の人々は、その姿を見て、確かに神様がおられること、そして、イエス・キリストがまことの救い主であることを知るのです。それは、自分の力で行うのではありません。すべてを神様にお任せすれば、神様が一人一人の内に働いてキリストに似た者に変え続けていってくださいます。また、一人一人の内に志を与え、それを成し遂げるために必要な力や状況や勇気を備えてくださるのです。
 ですから、自分で頑張るのをやめて、神様にお任せした人こそ、本当に役に立つ者となれるのですね。
 「実を結ぶ者」になるのも同じです。私たちは、いくら頑張っても自分で実を結ばせることはできません。しかし、ガラテヤ5章22節-23節に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあるように、神様を信じ、キリストにつながって生きていくときに、私たちの内にいのちが流れ、御霊の実が実っていくのです。

(2)近視眼的、盲目的な生き方をしないようになる

 それから、ペテロは、9節で「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです」と書いていますね。
 「信仰で始まり、愛で完成する」生涯を求めて行こうとしない生き方は、近視眼的、盲目的な生き方になってしまうから注意しなさいというのです。近視眼とは、近くの物は見えても少し離れると見えない、目先のことは見えるけれど、周りを正しく見渡すことができないことですね。そして、盲目は、まったく見えなくなってしまうことです。つまり、目先の状況に左右されて、正しい生き方を見失ってしまったり、神様の愛や恵みがあるのにまったく見えなってしまうような状態です。
 ペテロは、その原因は、「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまった」からだと記していますね。私たちは、イエス様に愛され、赦され、神様との自由で親しい関係の中に生かされていることを、いつも覚えていることが大切です。赦されていることを知れば知るほど、赦しに生きようする方向へ導かれます。愛されていることを知れば知るほど、愛に生きようとする方向に向かうことができるのです。
 罪が赦され、救われているという信仰から始まり、愛で完成することを求めて生きているなら、私たちは、主の恵みの中で正しい方向に歩んでいくことができるのです。

2 ペテロが勧める「熱心」

次に、ペテロは、10節では、こう勧めていますね。「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」
 「召し」とは、「招待する」ということですね。前回お話ししましたように、神様は、ご自分の栄光と栄誉によって私たちをみもとに招いてくださり、神の子として喜び迎えてくださいました。私たちの資質や行いは、一切関係ありません。神様がご自分から招いてくださったのです。その私たちを、神様が見捨てたり放っておかれるはずがありません。神様の招きは永遠の招きなのです。
 そして、「選び」とは、神様が私たちを救うために選んでくださった、ということです。私たちが救いを受け取ることができたのは、神様が選んでくださったからです。私たちが優れているから選ばれたわけではありません。私たちは、弱く、愚かで、自分勝手な生活をしていたのに、神様が選んでくださったのです。「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」とパウロは第一コリント1章29節に書いています。
 もし、自分が立派だから神様に召され、選ばれたと思っていたら、失敗したり挫折したときに、もう神様から見捨てられてしまうと思ってしまうことでしょう。しかし、神様は最初から、私たちの弱さや欠点や駄目さ加減をご存じの上で選び、召してくださったのです。ですから、私たちがどんな状態になろうと、誰が何と言おうと、神様の召しと選びは変わることはありません。
 そして、この神様の一方的な無条件の召しと選びを確信することができれば、ペテロが言っているように、つまずくことなど決してないのです。
 人は、大きな岩にはつまずきませんね。初めから避けて通りますから。つまずくのは、小さい段差とか小石です。でも、つまずきかけたときに、神様の「召し」と「選び」を確信していれば、倒れることはないとペテロは言っているのです。

3 キリストの永遠の御国に入る恵み
 
 そして、11節には、こう書かれていますね。「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」
 私たちが、「信仰で始まり、愛で完成する」生涯を求めて生きていくとき、永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるというのですね。
 この「永遠の御国に入る恵みが豊かに加えられる」というのは面白い表現ですね。「永遠の御国に入るのです」だけでもいいではありませんか。しかし、ペテロは、ただ御国に入るだけでなく、そこに愛なる神様が豊かな恵みを用意して一人一人を喜んで迎え入れてくださるイメージを抱いていたのかもしれませんね。
 言い尽くすことの出来ない最高の歓待をもって迎えてくださる神様の永遠の御国が私たちの最終的なゴールとされているのです。そのことを覚え、感謝と喜びをもって今週も歩んで行きましょう