城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一月二六日             関根弘興牧師
               第二ペテロ一章一二節〜二一節
ペテロの手紙連続説教26
    「確かなみことば」

 12 ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。13 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。15 また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(新改訳聖書)
 

 ペテロは、今日の箇所の14節で、こう記していますね。「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」
 「幕屋」というのは、移動式の仮設住宅のようなものです。「テント」ですね。旅人が寄留する時に用いられる道具です。その「幕屋」という言葉を、ペテロは自分の肉体に例えて、「この肉体を脱ぎ捨てる時、つまり、この肉体が死んで、この世の生涯の終わりを迎える時が間近に迫っている」と言っているのです。
 しかし、ペテロは、そのことを嘆いてはいません。前回読んだ11節にあるように、この世の生涯を終えた後に「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられる」という希望を抱いていたからです。また第一ペテロ1章4節に書かれていたように、神様がその永遠の御国で「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにして」くださったことを確信していたからです。
 ですから、ペテロは、自分に関しては何の心配もなかったのですが、気がかりなのは後に残していく信仰の兄弟姉妹のことでした。自分がいなくなった後も、皆、信仰にしっかり立って歩み続けてほしいと切実に願っていました。そこで、ペテロは、クリスチャンたちを励ますために、この手紙を書き残すことにしたのです。
 ペテロは、12節で「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです」と書いていますが、「これらのこと」とは、どのようなことだったでしょうか。それは、前回まで見てきましたように、神様が私たちの努力や功績によってではなく、恵みによって、救い主イエスを与え、私たちを選び、みもとに招いてくださり、救い、永遠のいのちを与え、この世の信仰生活に必要なすべてのものを備え、また、最後には永遠の御国に迎えてくださるということです。また、私たちがそのことに信頼して、神様に従って、希望を持って歩んでいけば、決してつまずくことはない、ということです。
 ペテロは、13節でも、「私が地上の幕屋にいる間はいつもこれらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています」と書いていますね。また、15節では、「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです」と書いています。神様がイエス・キリストによってもたらしてくださった恵みの深さ、救いの素晴らしさを思い起こさせることこそペテロの生涯の使命であり、また、自分の死後もその使命を果たしたいと願って手紙を書き残したわけですね。
 そして、16節からは、今まで自分たちが伝えてきたことは何かということ、また、それを信じることのできる確かな根拠があるのだということを説明しています。

1 ペテロたちが伝えたこと

 ペテロは、16節で「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせました」と書いています。

@キリストの力

 キリストの力とは、私たちを救い、生かす力です。すべてのものを支配することのできる権威ある力です。キリストの力によって、私たちは罪と死の束縛から自由になり、新しいいのちによって生かされ、成長し、守られ、支えられ、導かれ、永遠の御国に入ることができるのだということをペテロたちは宣べ伝えていきました。

Aキリストの来臨

 「来臨」という言葉は、「臨在」「到来」「再臨」とも訳される言葉です。
 イエス様は十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活し、その後、四十日間、五百人以上の弟子たちの前に姿を現して御自分が生きておられることを示された後に、弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天に昇って行かれたと聖書に記録しています。その時、御使いが弟子たちのそばに立ってこう告げました。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1章11節)
 聖書は、天に昇られたイエス様が、世の終わりの時に再び来られると教えています。その時に、イエス様は、すべてのものを正しく裁き、すべてを完成させてくださるというのです。
 ですから、この「主が再び来てくださる」という約束は、クリスチャンたちにとって、大きな希望であり、慰めです。パウロは、コリント人への手紙の中で「主よ、来てください」(アラム語のギリシャ語音訳「マラナタ」)と祈っていますが、この「マラナタ」という祈りは、特に迫害や困難に直面している当時のクリスチャンたちの共通の祈りでした。主が再び来られるときには、もはや苦しみも悲しみもない新しい世界が始まるからです。
 ペテロたちは、その大きな希望であるキリストの来臨を宣べ伝えて、クリスチャンたちを励ましていったのです。

2 信仰の根拠

さて、ペテロたちは、キリストの力と来臨を伝えていきましたが、16節で「それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません」と書いていますね。「私たちの宣べ伝えていることには、確かな根拠があるのだ」というのです。その根拠として、ペテロは二つのことを挙げています。

(1)目撃者の証言

 一つは、ペテロたち自身が「キリストの威光の目撃者」だということです。「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」とペテロは書いていますが、「この私たち」とは、主に使徒たちのことを指しています。
 イエス様によって使徒として選ばれたペテロたちは、いつもイエス様とともに行動し、イエス様がどのような方であるかを間近で見聞きしました。彼らは、イエス様の権威に満ちた言葉、人々に希望を与える言葉を聞きました。イエス様が行われた奇跡的なみわざの数々を目撃しました。病人が癒やされ、目の見えない人が見えるようになり、死人が生き返りました。イエス様が嵐を静め、僅かなパンと魚で群衆を満腹にされたのも目撃しました。また、イエス様が十字架につけられ、死んで葬られたのを目撃し、三日目に復活されたイエス様に実際にお会いして、語り合い、そのからだに触れました。また、イエス様が天に昇り、約束してくださったとおりに一人一人に聖霊が注がれ、力を与えられたことも体験しました。だからこそ、「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」と大胆に言うことができたのです。
 使徒ヨハネも、自分の第一の手紙の最初にこう書いています。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」
 科学的な現象の場合は同じ条件で繰り返し実験することによって証明することができますが、歴史的な出来事を証明する場合は、繰り返すことができないので、目撃者たちの証言が大切になってきます。特に、「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、実際に耳で聞き、目で見、手で触った経験に基づく証言は、最も有効なわけですね。
 ですから、イエス様が神様から遣わされたまことの救い主であることを証明するために、使徒たちの証言はとても大切でした。だからこそ、使徒たちは、自分たちの目撃証言を宣べ伝え、書き記していったわけですね。
 さて、ペテロは、今日の箇所では、自分が目撃した中でも特に印象的だった出来事について17節ー18節に記しています。それは、マタイの福音書17章1節ー5節に書かれている出来事です。
「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい』という声がした。」
イエス様は、私たちと同じ人として来られたので、普段は特に目を引く姿ではありませんでしたが、この時だけは、真っ白に輝く栄光の御姿に変わられました。
 しかも、そこにモーセとエリヤが現れたというのですが、モーセは、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、荒野を旅しているときに、シナイ山で神様から十戒を授かりました。そして、モーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を編纂し、神様の律法を人々に伝えました。つまり、旧約聖書の律法を象徴する人物です。また、エリヤは、紀元前九世紀に目覚ましい活躍をした偉大な預言者で、旧約聖書の預言者たちの代表と見なされている人物です。旧約聖書は「律法と預言者」と呼ばれることもありますから、この二人は旧約聖書全体を象徴している人物なのですね。
 その二人が、イエス様と話し合っていたというのですが、ルカの福音書には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた」と書かれています。この「ご最期」と訳されているのは、ギリシヤ語の「エクソドス」という言葉で、旧約聖書では、出エジプト記のギリシヤ語の書名として使われています。出エジプト記は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出して神様の約束の国に向かうという内容ですが、イエス様の「エクソドス」とは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目に復活されることによって、私たちを罪と死の奴隷状態から脱出させ、永遠の救いへと導くというものです。つまり、イエス様のご最期こそ、救い主イエス様の栄光が現される時だと聖書は教えているのですね。
 そして、その時、ペテロたちは、さらに、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。彼の言うことを聞きなさい」という父なる神様の声を聞きました。
 この神様の言葉は、旧約聖書に書かれている救い主の預言と深く結びついたものでした。例えば、イザヤ42章1節には、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」と書かれていますが、これは、やがて来られる救い主に向かって語られた神様の言葉です。
 つまり、ペテロは、今日の箇所で、「私は実際に神様が『これはわたしの愛する子。わたしの喜ぶ者である』と言われた声をこの耳で聞いた。だから、このイエス様こそ、旧約聖書で預言されていた救い主なのだ」と証言しているわけですね。

(2)預言のみことば
 
さて、私たちの信仰の根拠となるものとして、ペテロは、目撃者の証言とともに、「預言のみことば」を挙げています。19節にこう書いていますね。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」
 「預言」とは、「神様の言葉を預かって語る」ということですから、「預言のみことば」とは「神様のことば」、つまり聖書に記録されている言葉だと考えたらいいでしょう。ペテロの時代には、まだ新約聖書は完成していませんでしたから、ペテロは、使徒である自分たちの目撃証言と旧約聖書の二つが信仰の根拠になるのだと言っているわけですね。でも、今では、使徒たちの証言が新約聖書としてまとめられていますから、私たちにとっては、旧約聖書と新約聖書が信仰の根拠だということなのです。
 私たちは、信仰生活の中で、確かに神様が生きて働いてくださった、イエス様は生きておられる、と頷くことの出来る経験をいろいろするでしょう。時には、天にも昇るような経験をして、まるでキリストの威光の目撃者になったかのように感じることがあるかもしれません。そうした体験や経験は、私たちに勇気と希望を与えるものとなります。しかし、そうしたことだけを拠り所にしていると、信仰生活はとても不安定になってしまいます。なぜなら、私たちは、いくらすばらしい経験をしたとしても、それが時間がたつと色あせてしまったり、どんな恵みを味わっても、すぐに忘れてしまう弱さがあるからです。そして、次に何かの困難が起こったり、問題がなかなか解決しないと、とたんに不安になり、信仰が動揺してしまうのです。だから、ペテロは、自分の体験だけに頼るのではなく、さらに確かな聖書のことばに目を留めていなさいと勧めているのですね。私たちには、素晴らしい体験を味わうことがなかったとしても、さらに確かな聖書のみことばがあるのです。
そして、ペテロは、「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」と記していますね。
 黙示録22章16節で、イエス様ご自身が「わたしは、輝く明けの明星である」と言っておられますから、「明けの明星」とはイエス様のことです。そして、「明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗いところを照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」というのは、「どんなに暗い夜も必ず明けて、イエス様の光りに照らされる時が必ず来る。それまでは、聖書の言葉が暗い道を照らすともしびとして私たちを導いてくれるから、しっかりと見つめ続けていきなさい」ということなのですね。
 
3 聖書の解釈

 ただし、聖書を読むときに注意しなければならないことがあります。ペテロは、20節ー21節でこう書いていますね。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
 新改訳聖書2017では、「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい」と訳されています。つまり、「著者の意図を離れて勝手に解釈するな」ということです。たとえば、「石に布団は着せられぬ」という諺があります。いろいろな意味を考えることができますが、この作者の意図した意味は一つです。「石」は墓石のことで、「親が死んでから墓石に布団を着せても意味がない。親孝行するなら、生きているうちにしなさいね」という意味なのです。それなのに、「石に布団を着せても温まらないから、無駄なことはするな」という意味だと解釈したら間違いですね。
 聖書を解釈するときも同じで、本来の意図を無視して勝手な解釈をしないように注意しなさいとペテロは言っているのです。私たちが勝手な解釈を避けるために、覚えておくといいことがあります。

@救い主イエスのもとに導くかどうか

ペテロは「明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは」、みことばをともしびとしていなさいと勧めていますね。つまり、聖書は、私たちを救い主イエス様のもとに導き、イエス様をあがめ、イエス様の愛と恵みと真実を味わうことができる方向に向かわせてくれるものです。もしそれとは違う方向に外れてしまうとしたら、自分の解釈が間違っているということです。

A聖霊の助けを求める

 ペテロは、「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」と記していますね。パウロも 第二テモテ3章16節で「聖書はすべて神の霊感によるもの」だと言っています。
 といっても、それは、人が自分の意志とはまったく関係なく、恍惚状態で口や手が勝手に動いて語ったり書いたりしたというような神秘的なことをいっているのではありません。聖書は、約四十人の人々が、それぞれの時代背景の中で、それぞれの人格や経験や才能を用いて語り、記したものですが、その背後に神様の意図と啓示と聖霊の働きがあったということなのです。そして、神様が間違いがないように保護し、すべての監修責任者となってくださっているという意味なのです。ですから、聖書の著者は神様御自身であり、実際に書いた人たちは聖書記者と呼ばれます。ちょうど、船の帆が風を受けて進んでいくように、聖書記者たちは聖霊の風を受けながら神様のことばを語り記していったわけです。ですから、その聖書を読む側も、聖書の言葉によって目が開かれ、真理を悟ることができるように、聖霊の助けを祈りつつ読んでいく姿勢が大切です。そのとき、聖書が約束しているように、聖霊なる神様が私たちを助け導いてくださるでしょう。