城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年二月二日              関根弘興牧師
                第二ペテロ二章一節〜一〇節
ペテロの手紙連続説教27
    「滅びをもたらすもの」

1 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。2 そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。3 また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。9これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。10 汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。(新改訳聖書)

 
 前回の箇所で、ペテロは、自分たちが伝えてきたイエス・キリストの福音は「うまく考え出した作り話」ではなく、確かな根拠があるのだということを説明していました。
 そして、確かな根拠として二つのことを挙げていましたね。一つは、ペテロたちがイエス様とともに生活する中で実際に目撃した目撃証言です。彼らは、イエス様の教えのことばを聞き、イエス様が行われた様々な奇跡を目にし、天の父なる神様がイエス様に語られた御声も自分の耳で聞きました。そして、十字架で死なれた後、三日目によみがえられたイエス様と直接お会いし、そのからだに触れ、食事を共にしたのです。また、天に昇られたイエス様が送ってくださった聖霊が自分自身の内に宿り、知恵や力を与えてくださるのを経験しました。だからこそ、イエス様こそまことに神様から遣わされた救い主であり、イエス様の十字架と復活によって、罪の赦しと永遠のいのちが与えられたのだということを確信をもって宣べ伝えていったのです。そのペテロたちの証言は、今では、新約聖書にまとめられています。つまり、私たちにとって、イエス・キリストの福音の確かな根拠の一つは新約聖書です。
 ペテロが挙げたもう一つの根拠は、「預言のみことば」、つまり、神様が救い主を与えてくださるという預言が記されている旧約聖書です。ペテロたちの時代には、まだ新約聖書は完成していませんでしたから、ペテロは、旧約聖書を指して、ここに確かな根拠があると言ったわけですね。旧約聖書は、天地を万物を作られた神様に背き、神様との関係が破壊された人間が滅びに向かっていること、人間がもう一度神様との関係を回復するために神様の律法を自分の力で守ろうとしても不可能であること、そして、だからこそ、救い主が必要であり、神様がその救い主を遣わしてくださるのだという預言が書かれています。
 イエス様は、その旧約聖書の預言通りに来てくださいました。そして、そのイエス様の姿が新約聖書に記されているのです。ですから、旧約聖書と新約聖書を合わせた聖書全体こそが、私たちの信仰の根拠であり土台だということをペテロは強調しているわけですね。
 ペテロがそのことを強調したのには、理由があります。せっかくイエス・キリストの福音を聞いて救われた人々が集まる教会の中に、にせ教師が滅びをもたらす異端の教えを持ち込む心配があったからです。今日の箇所で、ペテロは、その異端について警告しています。

1 異端の教え

 ペテロは、1節で「旧約聖書の時代に多くのにせ預言者が登場して人々を惑わしたように、教会の中ににせ教師が現れてあなたがたを異端に引きずり込もうとするから注意しなさい。その行き着く先は滅びなのだから」と警告していますね。では、異端とは、どのようなものでしょうか。

(1)異端とは

 「異端」と訳されている言葉は、本来は「派閥」とか「グループ」という意味でした。それが「分派」を意味するようになり、「異端」という意味に使われるようになりました。
 「分派」は、ただ意見の違うグループという意味ですが、「異端」というのは、聖書と違うことを教えるグループのことです。前回の箇所で、ペテロは、聖書こそキリストの福音の根拠であると強調していましたが、その聖書と違うことを教えるわけですから、キリストの福音が正しく伝えられなくなってしまうのですね。
 異端のほとんどは教会の中から起こってきました。彼らは、聖書を自分たちの都合のいいように使おうとします。聖書の中で自分たちに都合のいい部分だけ強調し、不都合な部分を無視したり、聖書の本来の意味とは違う、自分たちに都合のいい解釈をしたり、聖書の他に新たな啓示が与えられたと言って聖書以外の教えを付け加えたりするのです。ですから、異端に惑わされず、キリストの福音を土台としてしっかり立ち続けるために、私たちは聖書を読み、その教えを正しく理解していく必要があるのですね。

(2)異端の特徴

 さて、ペテロの時代から現代まで様々な異端が現れていますが、共通した特徴が一つあります。それは、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ということです。それは、どういうことでしょうか。
 この「自分たちを買い取ってくださった主」という言葉には、深い意味が含まれています。まず、「主」とは、イエス・キリストのことですね。そして、「買い取る」とは、別の言葉で言えば「贖う」ですが、「奴隷を買い取る」とか、「奴隷を身代金を払って身受けする」という意味です。つまり、私たちは罪と死の奴隷のような状態にいましたが、イエス・キリストが私たちを買い取って身受けしてくださったということなのですね。
 ですから、今、私たちはイエス・キリストの奴隷(しもべ)です。そして、主人であるイエス様は、愛と恵みとまことに満ちた方ですから、私たちは、この主のもとで、安心して喜びと希望を持って生きることができるようになったのです。
 では、なぜイエス様は、私たちを買い取る必要があったのでしょうか。
 先ほどもお話ししたように、人は、神様に背いた結果、神様との関係が破壊されてしまいました。愛と真理と光の源である神様から離れたために、本当の愛や真理を見失い、生きる意味や目的を見失い、暗闇と混乱の中を歩み、罪と死に支配されて生きるようになりました。
 しかし、神様は、そんな人々を救う御計画を立ててくださったのです。まず、人々に律法を与え、「この律法を完全に守れれば、あなたはわたしとともに歩むことができる」と言われました。しかし、人には、神様の律法を自分の力で完全に守ることなど不可能です。かえって、律法を破ってばかりいる自分自身の弱さを思い知らされる結果になりました。このままでは、律法違反の罪人として罰とのろいを受けるしかないのです。人は、そんな自分を救ってくださるように神様に願い求めるようになります。救い主を迎える準備ができたわけですね。そこで神様は、救い主イエスを送ってくださいました。ヨハネ3章16節にこうありますね。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」人は自分の力で律法を守って救われることはできないので、神様が御自分の御子を救い主として遣わしてくださったのです。
 そして、イエス様は、私たちを救うために十字架にかかってくださいました。奴隷状態の私たちを買い取るために、御自分のいのちを代価として支払ってくださったのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3章23節ー24節)
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです」(エペソ1章7節)
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3章13節)
 イエス様は、神であるのに私たちと同じ人として来てくださいました。私たちの身代わりに十字架にかかるためです。もしイエス様がただの人だったら、自分の罪のために罰を受けなければなりませんから、私たちの身代わりになることはできません。罪も汚れもない神の御子だからこそ、私たちのすべての罪を背負って救いを与えることができたのです。また、神の御子だからこそ、三日目に復活して、十字架の救いが完成したこと、また、御自分を信じる者を罪と死の力から解放することがおできになることを証明することができたのです。
 聖書は、このイエス・キリストの贖いの力は完全なのだから、私たちはただそれを信じれば救われるのだと教えます。ですから、もはや律法の戒めを頑張って守ろうとしたり、律法の儀式をきちんと行おうとしたりする必要もなく、律法違反でのろいを受けるのではないかと恐れたりする必要もなくなりました。第一コリント6章20節に「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」とあるように、私たちは、イエス様のいのちを代価として買い取られ、神様の栄光を現すために生きる者に変えられたのです。
 しかし、異端は、その贖い主イエス様を否定します。「イエスは神ではなく、ただの人間だった」とか、「神の子イエスが人になるはずがない」とか、「十字架は失敗だったから、別の救い主が必要だ」とか、「イエスを信じるだけでは十分ではない。律法もきちんと守らなければならない」などと教えて、イエス・キリストによる完全な贖いを否定しようとしたり、イエス様の贖いや神様の愛を軽んじようとするのです。そういう教えに惑わされると、どうなってしまうでしょうか。

(3)異端の生き方

 2節に「多くの者が彼らの好色にならい」とありますね。ある異端は、「私たちは、すべての罪が赦されて自由になったのだから、何をしてもいいのだ」といって、自分たちの欲望を正当化するために詭弁を用い、享楽的に生きることを勧めました。イエス様がいのちをかけて贖ってくださったことを忘れ、「神に従い、神の栄光のために生きる」という視点がすっかり抜け落ちてしまったわけですね。また、3節には「彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします」とありますね。異端の指導者の中には、人々を自分の利益のために利用するために、「救われるためには、私の言うとおりにしなければならない」と教える者が多いのです。

2 不敬虔な者たちへのさばき

 しかし、ペテロは、こうした異端の働きは自らに滅びをもたらすのだと強く警告しています。3節では「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません」と書いていますね。そして、4節から、神様のさばきの三つの例を挙げています。

@罪を犯した御使いたち
4節に「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました」とあります。
このことは、旧約聖書のどこにも記されはいないのですが、ユダヤでは、神様の最も近くで仕えていた御使いたちが神様よりも自らを高めようとした傲慢の罪で捕らえられ、暗やみに閉じ込められたという伝承があります。ペテロは、ここで、「神様のさばきは、神様の最も近くで仕えている御使いたちにさえ例外なく下されるものなのだ」と言いたいのでしょう。神様のさばきは公平であり、えこひいきなどないということなのです。

Aノアの洪水
 創世記のノアの箱舟の記事は、ご存じの方が多いでしょう。 人が神様に背いて自分勝手に生きるようになると、全地が悪と堕落に満ちてしまいました。そこで、神様は、ノアにこう言われました。「わたしはこれから大洪水を起こして全地を滅ぼそうとしている。あなたは大きな箱舟を造って妻と三人の息子夫婦と共に乗りなさい。」ノアが、巨大な箱舟を完成させるまでには、長い年月が必要でした。その間、ノアは、まわりの人々に警告を与え続けたことでしょう。しかし、人々はまったく見向きもしませんでした。その結果、ノアの家族以外はすべて大洪水で滅びてしまったのです。

Bソドムとゴモラ
 もう一つの例も創世記に載っています。イスラエルの父祖アブラハムの時代の出来事です。ソドムとゴモラは、罪と不品行に満ち、人々は、倒錯した欲望と暴力に支配されていました。そこで神様は火と硫黄を下し、ソドムとゴモラの町を一瞬にして滅ぼしてしまわれたのです。6節に「以後の不敬虔な者へのみせしめとされました」とあるとおり、このソドムとゴモラの出来事は、神様の断固としたさばきを示す象徴として、聖書の中で繰り返し言及されるようになりました。

 ペテロは、この三つの例を挙げて、異端をもたらす者は、必ず神様のさばきによって滅ぼされるのだと警告しているのです。

3 敬虔な者たちの救い

 その一方で、ペテロは、敬虔な者たちが救い出されたことも記していますね。
 5節には、「義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し」とあります。また、7節ー8節には「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました」と書かれています。
 まず、ノアですが、創世記6章9節に「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」とあります。それに、ノアは神様の言葉を信じ、神様の命令通りに箱舟を造りました。そして、神様の警告を人々に宣べ伝えたでしょうから、救われたのは納得できますね。
 しかし、ロトは、どうでしょうか。ペテロは、「義人ロト」と書いていますが、創世記に書かれているロトの記事を読むと、どう見てもロトは「義人」と呼ばれるにはふさわしくないように思えるのです。ロトはアブラハムの甥で、アブラハムとともに神様の約束の地にやってきたのですが、しばらくして、アブラハムと別れて肥沃な低地にあるソドムの町に移り住みました。退廃し堕落しきったソドムに留まり、娘たちをソドムの人々に嫁がせ、安住していたのです。そして、ソドムの人々の影響を受け、良心が麻痺し、鈍感になっていたようです。そんなある日、神の使いが二人、ロトの家に来て、「この場所から家族を連れ出しなさい。神様がこの町を滅ぼそうとしておられるからです」と告げました。しかし、ロトは、すぐに逃げようとしないでためらっていました。
 創世記19章19節にこう書かれています。「すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。ーーー主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。『いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。』」
 ところが、ロトは、またためらいます。「山までは遠すぎます。途中で私は死んでしまうでしょう。もっと近くの町に逃げさせてください」と言うのです。神の使いがロトの願いを聞き入れてくれたので、ロトは近くの町に逃げ込んで難を逃れましたが、こういうロトの姿を見ると、神様の警告を真剣に受け取ることができず、何としても神様の言葉に従おうとする思いがないように感じられますね。神の使いに無理矢理に連れ出されなければ、救われなかったのではないかと思います。
 それなのに、なぜペテロは、ロトを「義人」と呼んでいるのでしょうか。8節にこう書いていますね。「この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」
 つまり、ペテロがロトを「義人」と呼んだ所以は、ロトが毅然として立派なことをしたとか、しっかりした信仰を持っていたということではありませんでした。この町に留まるべきか脱出すべきかを悩み、なかなか決心ができないような優柔不断な人でしたが、ソドムの人々の不法な行いを見聞きして、日々心を痛めていたということだったのです。この「心を痛めていた」ということが神の民の一員であることの証であるとペテロは記しているのですね。
イザヤ書59章15節に「そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた」と書かれています。
 創世記1章31節には「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」とありますが、本来、非常に良かったのに、今では真理も公義も失われ、人々は悪のとりこになっている、その状態を見て主御自身が心を痛めておられるというのです。その主の痛みを、ロトは共有していたというのですね。
 つまり、この世界の状態を見て、また異端的な働きを見て、神様と同じように心を痛める人が義人と呼ばれるのです。神様とともに歩む人生は、喜びと平安と希望をしっかりと確かなものとしていきながら、心の痛みを持ちつつ歩んでいく人生でもあるのですね。
 しかし、その痛みが終わる日が来ると聖書には約束されています。9節に「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです」とありますね。今、置かれている状況は心痛むものであるかもしれない、しかし、さばきの日に、主の正しいさばきが必ず行われるというのです。
 ノアもロトも長い年月、心痛めつつ生活していたことでしょう。私たちも心の痛みが長く続く場合があります。しかし、神様が敬虔な者を救い、不備なる者をさばかれる日が必ず来るのです。
 この「敬虔な者」とは、立派な清い生き方をしている者という意味ではありません。欠点や弱さや間違いがあっても、ただ神様を信頼し、神様と同じ心を持って歩んでいこうとする人は、神様の救いの対象なのです。
 この世にあっては様々な悪や異端への誘惑もあるでしょうが、私たちは、聖書の教えに立って、イエス・キリストの福音をしっかり握りしめつつ生きていくことにしましょう。