城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年二月九日              関根弘興牧師
               第二ペテロ二章一一節〜二二節
ペテロの手紙連続説教28
    「不義な者たち」

11 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。12 ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。13 彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。17 この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。18 彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。20 主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。22 彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。(新改訳聖書)

 
 ペテロは、イエス・キリストによって救われるという福音には、確かな根拠が二つあるのだと書いていましたね。
 一つは、イエス様といつも行動をともにし、イエス様の言葉、みわざ、十字架、復活を実際に見聞きした弟子たちの目撃証言です。それは、今では新約聖書としてまとめられています。
 もう一つは旧約聖書に書かれている神様から与えられた預言のみことばです。旧約聖書は、「人は、いくら頑張っても、自分の力で神様の律法を守って救いを得ることはできない。だから、神様が救い主を送ってくださる」ということを教え、また、その救い主がどこで生まれ、どのような方で、何をしてくださるかということをいろいろな形で預言しています。イエス様は、その預言の通りに来てくださいました。
 ですから、この二つの根拠によって、私たちは、イエス様がまことの救い主であり、イエス様を信じるだけで救いが与えられるということを確信することができるのです。
 ペテロは、この二つの根拠をいつも思い起こしつつ信仰にしっかり立っていなさいと勧めています。なぜなら、当時から、教会の中ににせ教師が忍び込み、滅びをもたらす異端の教えを密かにもたらし混乱させるという問題が起こっていたからです。前回の箇所で、ペテロは、その異端の働きについて厳しく警告していましたね。
 異端の特徴は「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ということです。「自分たちを買い取ってくださった主」、つまり、「贖い主イエス・キリスト」を否定するのです。イエス様が十字架で御自分のいのちを支払ってくださり、復活によって新しいいのちを与えてくださったことによって、私たちは罪と死の奴隷状態から贖われ、神様のものとして、神様とともに生きていくことができるようになりました。イエス様は、神なる方なのに、私たちと同じ人となって私たちの身代わりに十字架にかかり、救いの道を開いてくださったのです。ですから、私たちはその救い主イエスを信じ受け入れるだけでいいのです。
 ところが、異端は、そのイエス様の贖いによって成就した完全な救いを否定します。「十字架は失敗だったから、別の救い主が必要だ」とか、「イエスを信じるだけでは十分ではない。律法もきちんと守らなければならない」などと教えたり、「イエスは、神ではない。ただの人間だ」「神が罪深い人間と同じ姿になるはずがない」などと教えるのです。
 また、異端の中には、「キリストによって自由になったのだから、何をしてもいいのだ。罪を犯しても赦されるのだから」といって、キリストの尊い贖いを軽んじ、自分たちの欲望を正当化するために詭弁を用い、自由と放縦をはき違え、享楽的に生きることを勧める者たちもいました。
 ペテロは、そのような問題に大変心を痛めていました。ですから、贖い主キリストを否定する者たちを非常に厳しい口調で断罪しています。前回の9節で、ペテロは、こう書いていましたね。「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」今日の箇所では、主の贖いの恵みを侮る不義な者たちについて、さらに詳しく記されています。

1 不義な者たちの特徴

(1)不遜な態度

 まず、10節の後半にこう書かれていましたね。「彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」これは、新改訳二〇一七では、こう訳されています。「この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。」不義な者たち、惑わす者たちには、いかなる存在に対しても恐れを知らない不遜な態度があるというわけです。
 そして、11節に「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません」とありますね。不義な者たちと御使いたちが比較されているのです。不義な者たちは、自分たちより立派な人々をそしったり、ののしったりしますが、御使いたちは、彼らより遙かに力ある存在なのにもかかわらず、彼らをそしるようなことはしないというのです。
 新約聖書のユダの手紙の中に、この第二ペテロ2章の内容と重複している箇所がいくつも出てきます。ユダは、8節ー9節で、異端者たちについてこう書いています。「それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように』と言いました。しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。」
 ここに「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争った」とありますが、この出来事は旧約聖書のどこにも記されていません。ユダヤ人の伝承として語り継がれていたようです。それをユダがここで引用しているのは、「御使いの長であるミカエルでさえ、悪霊をののしることをせず、そのさばきを主に委ねた。それなのに、この人たちは、自分の無知を省みず、不遜な態度で権威ある人たちや栄えある人たちをののしったりさばいたりしている」と言いたかったのですね。
 彼らは、救い主を与えてくださった神様の愛や恵みを理解し味わうことができていませんでした。その一方で、自分が知りもしないことをあたかも知っているかのように語っていました。特に、霊的な存在や霊的な事柄について、聖書にはっきり記されていないことを自分勝手に解釈して、自分たちこそが真理を知っていると言わんばかりの不遜な態度で教えていました。
 今でもそういう人々がいます。でも、皆さん、惑わされないでください。聖書にはっきりと書かれていないことは、誰がどう考えてもわからないのです。はっきり書かれていないのは、私たちが知らなくてもいいことだからです。それなのに、自分勝手な詮索をして、「私は、霊的な啓示を受けて、今まで明らかにされていなかった真理を見出した」「私は、霊の存在を感じて、コントロールすることができる」などと言い出す者たちが後を絶ちません。十分注意してください。

(2)バラムの道に従う

それから、15節=16節にこう書かれていますね。「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。」
バラムは、旧約聖書に登場する占い師です。ペテロがここで引用している出来事は、民数記22章=24章に記されています。
 モーセとともにエジプトの奴隷状態から脱出したイスラエルの民は、四十年間の荒野の生活の後、神様の約束の地であるカナンを臨むモアブの平原までやってきました。モアブの王バラクは、イスラエル人を恐れ、同族の占い師バラムに使者を送って、こう言わせました。「どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」
 バラムもモアブ人も元はイスラエル人の先祖と同じ民族でした。ですから、天地を作られた神様に対する漠然とした信仰は持っていたようです。依頼を受けたバラムは神様に伺いを立てました。すると神様は、「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民を呪ってもいけない。その民は祝福されているからだ」とはっきり言われたのです。そこで、バラムは、使者たちの願いを断ってモアブ王のもとに返しました。ところが、モアブ王は、もっと大勢の位の高い使者たちを遣わし、多大な見返りを保証する代わりにイスラエルの人たちをのろって欲しいと再び要請したのです。するとバラムは、「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません」ときっぱり断りました。ここだけ読むと、バラムは責められるどころか、立派な態度をとっているのですね。しかし、彼は続けてこう言いました。「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」一旦は断るのですが、提示された報酬の額に心が引き寄せられてしまったのです。すると、神様は、揺れ動くバラムが自分の心ときちんと向き合うことができるように、こう言われました。「彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」
 翌朝、バラムは、自分のロバに鞍をつけて、モアブの使者たちと一緒に出かけていきました。ある聖書注解者は、「バラムが迎えに来た者たちのロバではなく、わざわざ自分のロバに鞍をつけて出かけたのは、うずたかく積まれた報酬を持ち帰ることを期待していたからだろう」と解説しています。
 しかし、行く途中で、主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがりました。バラムには見えなかったのですが、彼を乗せたロバは、それを見て、道からそれて畑の中に入ってしまいました。すると、バラムはロバを打って道に戻しました。さらに進むと、今度は、両側に石垣のある狭い道に御使いが立ち塞がっていました。ロバはそれを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたのです。バラムはまたロバを打って進んでいきました。すると今度は、右にも左にもよける余地のない狭い処に御使いが立っていたので、ロバはそこにうずくまってしまいました。怒りを燃やしたバラムが杖でロバを打ちたたくと、神様がロバの口を開かれたので、ロバは「あなたがずっと乗ってこられた私が、今までこんなことをしたことがあったでしょうか」とバラムに言いました。それを聞いたバラムは目が開かれて、やっと主の使いが剣をもって立ちふさがっているのを見ることができたのです。主の使いは、言いました。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」
 不思議な話ですね。ロバには主の使いが見えましたが、先を見通し、呪いも祝福も言葉一つで与えることができると自負していたバラムには何も見えなかったのです。バラムは自分の欲望を満たすために道を進んでいくのですが、その道は次第に狭められていきました。ロバが道を外れ畑に逃れたとき、バラムは自分の道が曲がり始めていることを知るべきでした。ロバが石垣にバラムの足を押しつけたとき、自分自身の進もうとしている道こそが足を傷つけ歩けないようにさせるものだと気づくべきでした。狭い道でロバがうずくまり進もうとしなかったとき、この道をこれ以上進むべきではないことを悟るべきでした。しかし、彼は自分の願いと思いを優先させ、ロバを打ちたたいたのです。
 御使いを見たバラムは、自分が罪を犯したことを認め、モアブに到着すると、神様の命令に従ってイスラエルの民を祝福し、モアブ王の怒りをかい、報酬を受け取ることなく帰っていきます。ここまでなら、バラムもいろいろなことがあったけど、神様にちゃんと従ったではないかと思えますね。
 しかし、その後、バラムは、ミデアン人の娘たちを使ってイスラエル人を誘惑し、不品行と偶像礼拝の罪を犯させて災いをもたらす元凶となったことが民数記31章16節に書かれています。ですから、バラムの名は、何が主にあって正しいことなのかを見失い、自分の欲望を正当化して歩む者、そして、人々を惑わす者の代名詞となったのです。
ペテロは、一見神様に従順に従っているように見えるが、実は自分の欲望に引かれて正しい道から逸れてしまうバラムのような者になってはならないと警告しているのですね。
 
(3)自由を放縦に変えてしまう

自分が変わりたくないときに人が発想することは、相手に変わってもらうことです。それが一番楽ですからね。神様に従えないときには、神様が教えていることを変えてしまえばよい、と考えるわけです。ペテロは、1章20節で「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」と記していましたね。自分勝手な解釈はするなということです。しかし、偽教師たちは、自分を変えるのではなく、聖書の言葉を自分の都合のいいように勝手に解釈して意味を変えてしまったのです。
 今日の箇所では、「自由」という言葉がありますね。
 ヨハネ8章31節ー32節で、イエス様はこう言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 ガラテヤ5章1節にはこうあります。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
 キリストは私たちに自由を与えてくださいました。その「自由」とはどのようなものでしょうか。それは、死と滅びからの自由です。私たちはこの肉体が滅びた後も永遠のいのちによって神様とともに生かされていくのです。また、罪からの自由です。善をしたいと願っているのにできない、悪をしたくないのにしてしまう、という罪に束縛された状態から自由にされるのです。また、律法からの自由です。強制させてしかたなくではなく、心から喜んで自ら進んで神様に従いたいと思えるようになったのです。また、この自由は、神様を愛し、人を愛するための自由です。神様を悲しませることや人に害を与えることをしない自由です。神様を信頼し、平安と希望をもって、自分本来の生き方ができる自由なのです。
 ところが、不義の者たちは、「自由」という言葉を自分たちの欲望を正当化するために都合のいい意味に変えて使うのです。例えば、「キリストが自由にしてくださったのだから、もう何をしてもよいのだ」「自由になったのだから、本能のまま、欲望のままに歩みなさい」などと教えるのです。しかし、それは、キリストにある自由とはまったく違う、ただの「放縦」です。
 ペテロは、そのような生き方は、水のない泉や突風に吹き払われる霧と同じだというのです。自分の肉の欲望のままに生きるなら、一瞬の開放感や快楽を味わえるかもしれません。一瞬の自由を味わうかもしれません。しかし、それは、渇きを潤してくれると思って汲もうとしても水がない泉のようなもの、突風でたちどころに消えてしまう霧のようなものなのです。そして、結局は、大切なものを見失い、迷い、自らを破壊する滅びの奴隷になってしまうのです。
 自分勝手な放縦な生活は、人を不自由にします。ルカ15章の放蕩息子もそうでした。父と離れて遠い場所で放蕩三昧した結果、人生に行き詰まり、生きる希望を失ってしまいましたね。しかし、父のもとに返ったときに、つまり、本来いるべき場所に帰ったときに、本当の自由を得ることができたのです。
 私たちが本当の自由を満喫するためには、自分のいるべき場所にいる必要があります。魚は陸上では死んでしまいます。水の中にいるときにこそ自由に生きることができます。鳥は大空を羽ばたくことが出来ますが、私たちが屋上から飛び降りたら、大けがをするか死んでしまいます。私たちが与えられた自由を本当に謳歌し、自分らしく生きていくためには、それにふさわしい場所にとどまっていなければならないのです。
 では、そのとどまるべき場所とはどこでしょうか。ヨハネ15章でイエス様はこう言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
 私たちがキリストにつながれた枝としてとどまるなら、キリストのいのちを受けて豊かな実を結ぶことができます。キリストを離れたら、枯れてしまうのです。
 ですから、ペテロは、キリストを知っていたのに、そこから離れてしまった人々について厳しく警告しています。20節で「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります」と書いていますね。
 ただ、心配しないでください。「私は、このままキリストにとどまり続けていられるだろうか。いつか世の汚れに巻き込まれてしまうのではないだろうか」と恐れる必要はありません。私たちが必死にキリストにしがみついていなくても、キリストが私たちを守ってくださるからです。だから、私たちは、ただそのキリストに信頼していればいいのですね。
そして、ペテロは、二つの格言を引用しています。一つは旧約聖書の箴言26章11節の「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す」という言葉です。そして、もう一つは、当時の人々に馴染みのある「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」ということばです。今は、犬はペットとして飼われていますが、この当時、犬も豚も不浄な生き物の代表格でした。野犬は汚物をあさり、豚は体を洗ってもすぐに泥の中に転がりこんでしまうからです。
 私たちは、イエス様の尊い十字架の血によって罪赦され、きよめられ、神の子とされ、自由にされたのですから、不義の者たちの声に惑わされることなく、聖書のみことばを信頼し、キリストにとどまり続けていきましょう。