城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年二月二三日             関根弘興牧師
                第二ペテロ三章八節〜一三節
ペテロの手紙連続説教30
    「主の忍耐」

8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(新改訳聖書)


 「初め」があって「終わり」がある、それが聖書の歴史観です。この世界には終わりがある、そして、その終わりの時には復活して天に昇って行かれたキリストが再び来られ、神様の正しいさばきが執行されるというのです。この世には、正しいことが正しいとされず、正直者が馬鹿を見る、というような不条理がまかり通っているような現実が続いているように見えるかもしれませんが、神様は、必ず正義と公正をもって最終的なさばきを行ってくださいます。それは、神様を信頼する私たちにとっては新しい始まりの時であり、完成の時です。神様は今の欠けだらけの私たちを見るのではなく、神様によって整えられ、完成させられた『やがての私』を見つめていてくださるのです。
 しかし、聖書の言葉を信じず、この世に終わりなどないと考えて、クリスチャンたちをあざける者たちがいました。彼らは、歴史を見ても何も変わっていないではないかと言い、日常の生活の中にも一体どこに神の働きなどあるのか、その痕跡すらないではないか、終わりの日があるなどと言うが、そんな日が来る気配などまったくないではないか、と嘲っていたというのです。その一方で、クリスチャンの中には、迫害の脅威に怯え、いっこうに事態が改善されない現実の中で、いつ終わりの日が来るのだろう、どうしてすぐに来ないのだろう、なんでこんなに遅れているのだろう、と不安に思っている人もいました。
 そういう人々に対して、ペテロは、9節にあるように、「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありあせん」と言い、終わりの日についていくつかの大切なことを今日の箇所で教えているのです。

1 神の時と人の時

 まず、8節で、ペテロは「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と書いていますね。これは、旧約聖書の詩篇90篇の引用です。詩篇90篇1節ー4節には、こう書かれています。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」この詩篇は、神様がすべての創造者であり、永遠なるお方であること、しかし、それに比べて人間の生涯は、ほんの一瞬、瞬く間に終わってしまうのだということを歌っています。ペテロは、この詩篇を引用しながら、一瞬の間生きているにすぎない有限な人間が、永遠の神様の働きをすべてわかるはずがないではないか、私たちの限られた小さな知識で永遠の神様の働きや存在をすべてわかったかのようにふるまうのは滑稽なことではないか、と語りかけているのです。
 伝道者の書3章11節に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」とあります。私たちは、神様の行われるみわざを見極めることなどできませんが、ただ「神のなさることは時にかなって美しい」と信じて生きることができるのです。
 ただ、神様の「時」と、私たちが考えている「時」は、一致しないことが多いのです。神様の時がなかなか来ないので、遅すぎると感じたり、本当に来るのだろうかと疑ってしまったりするのですね。ペテロの時代のクリスチャンたちの中にも、9節で「ある人たちがおそいと思っているように」とあるように、「主が約束を実行されるのが、どうしてこんなにおそいのだ!」と言う人たちいたのです。この「おそい」と訳されている言葉は、「のろのろしている」「グズグズしている」「怠惰」「無関心」という否定的な意味合いのある言葉です。つまり、「神様が御自分で約束していることなのに、どうしてこんなにぐずぐずのろのろしているのだ。神様は、本当に約束を実行する力があるのか。どうして私たちにこんなに無関心なのだ」と考えている人たちがいたのですね。
 ペテロは、それに対して、何と答えているでしょうか。

2 主の忍耐

 ペテロは、9節でこう書いていますね。「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」つまり、「神様がこの世の最終的な裁きを猶予しておられるのは、主の一人一人への深い愛に裏打ちされた忍耐があるからこそなのだ」というのです。
 神様は、すべてを一瞬のうちに終わらせることの出来るお方です。悪を一瞬で滅ぼすことのできるお方です。しかし、神様は、すべての人一人一人を愛しておられるので、ひとりでも滅びることを望んでおられません。だから、すぐにさばきを行うことをせず、ひとりでも多くの人が神様のもとに帰ってくることを忍耐強く待っておられるというのです。
 前々回の箇所には、ソドムの町に住んでいたロトの話が出てきましたね。ロトは、イスラエル民族の父祖であるアブラハムの甥です。主がソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしておられることを知ったアブラハムは、甥のロトを思い、主に懇願しました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。」すると、主は、「わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう」と言われました。アブラハムは、それでも心配になって言いました。「五十人に五人不足しているかもしれません。」すると、主は、「それでも滅ぼさない」と言われました。アブラハムは、さらに、「いや四十人しかいないかもしれなせん。いや三十人、二十人、十人かも知れません」と必死に食い下がっていきました。すると、主は「滅ぼすまい。その十人のために」と約束されたのです。実は、ここに神様御自身の思いがあるのです。
 また、旧約聖書のヨナ書には、北イスラエル王国の預言者ヨナのことが記されています。神様はヨナにこうお命じになりました。「ニネベに行って、『もし悔い改めなければ、あなたがたは滅ぼされる』と警告しなさい」と。しかし、ニネベはイスラエルを散々苦しめている敵国アッシリア帝国の首都です。ヨナは、「もし神様に言われたとおりに語ってニネベの人々が悔い改めたら、神様はあの町を滅ぼさなくなってしまうだろう。それは絶対に避けなければ」と考え、神様の命令に背いてニネベとは正反対の方向に向かう船に乗って旅立ちました。しかし、途中、激しい嵐がおこり、船が沈みそうになってしまいました。ヨナは、その嵐は自分が神様に逆らったせいだとわかっていたので、同じ船に乗っている人々に自分を海に投げ込むようにと自ら願い出たのです。あのニネベで神様の言葉を語るくらいなら死んだ方がましだと考えたのですね。どうしても嵐が収まらないので、人々が思い切ってヨナを海に投げ込むと、すぐに嵐は静まりました。そして、ヨナは、主が備えておられた大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中にいたのです。ヨナは、その間に主の命令に従う決心をしました。そして、魚がヨナを陸地に吐き出すと、ヨナはニネベに行き、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と告げて回りました。ただ、ヨナは、その時もなお、ニネベの町が滅ぼされることを期待していたのです。ところが、ニネベの人々は、ヨナが語った神様の言葉を聞くと、王から身分の低い人々までが皆、断食して悔い改め、神様のあわれみを祈り求めたのです。そこで、神様は、ニネベを滅ぼすのをおやめになりました。
 すると、ヨナは、腹を立て、ふてくされて言いました。「私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていました。だから、来たくなかったのです。もう私のいのちを取ってください。私は死んだ方がましです。」
 ヨナは、それでもまだ神様がニネベを滅ぼしてくださるのではと一縷の望みを抱いて、町を見渡せる場所に座っていました。そこは、暑い日差しの照りつける所だったのですが、神様は、ヨナのために一本のとうごまを生えさえ、日陰を作ってくださいました。しかし、翌日、今度は神様は一匹の虫にそのとうごまをかませたので、とうごまは枯れてしまいました。ヨナは、再び太陽に頭を照りつけられました。しかも、焼けつくような東風も吹いてきたのです。すると、ヨナは怒って、また、「私は死んだ方がましだ」と文句を言いました。すると、神様は、こう言われました。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
 神様は、御自分の約束を果たすことに決してのろのろしておられるのでもなく、ぐずぐずしておられるのでもありません。何とかして一人でも多く、いや、願わくはすべての人が悔い改めて自分の姿を見つめ直し、イエス様の福音によって救いにあずかることを願い、忍耐深く待っておられるのです。
パウロは、ローマ2章4節で「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」と記しています。神様の慈愛と忍耐と寛容があったからこそ、私たちは、今こうして主を礼拝する民に加えられているのですね。愚かで神に背を向けていた私たちを、神様は見捨てず、愛し、赦し、救いに導いてくださったのです。その主の忍耐深さにあらためて感謝しましょう。

3 突然おとずれる主の日

 主は、忍耐深く待っていてくださいます。しかし、それは、神様が最終的なさばきを行われる時が永遠に来ないということではありません。その日は必ず来るのです。
 ペテロは、10節でこう書いていますね。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」
 ここでペテロが言っている「主の日」とは、神様が最終的な審判を下される日であり、イエス様が再び来られる再臨の時であり、私たちにとって完成の時です。そして、13節に「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」とあるとおり、「主の日」は、神様の正しさが現されるときであるともに、主と共に憩う永遠の始まりでもあるのです。
 この世界がいつ終わるのかは、誰もわかりません。しかし、聖書は、終わりの日に備える生き方を教えています。以前にもお話しましたが、私たちは三つの終末に生きています。
 一つは、この世界の終末です。この世界はいつかは終わりを迎えますね。そして、二つ目は、自分の人生の終末です。そして、三つ目は、自分と関わりのある者たちの終末です。家族や友人たちの終末があるわけです。私たちは、誰もが終末の時代に生きています。そうした終末がどのように来て、私たちがどのような備えをすべきかを聖書は次のように教えています。

(1)主の日は、盗人のようにやって来る

 ペテロは、「主の日は、盗人のようにやって来ます」と記しています。パウロも同じように、第一テサロニケ5章2節で「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」と記しています。ただし、パウロは、第一テサロニケ5章4節で、「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」とも記しています。つまり、主の日は、神様の言葉を信じようとしない人々のもとには、盗人のように突然襲ってくるけれども、イエス様と共に歩む者たちは、心配することはないということです。ですから、私たちは、不必要に終末についての危機感や不安感を煽ることは控えるべきですね。

(2)「主の日が来るのを早める」とは

 ペテロは、12節で、「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません」と記していますね。といっても、誤解しないでください。私たちがこの世界を支配して、神様の働きを早めたり遅らせたりすることなどできるはずがありません。まして、終末の日を私たちが早めることなどできるものではありません。それでは、ペテロのこの言葉は何を意味しているのでしょうか。
 ペテロは、迫害の中で、主の来臨を待ちわびていた一人でした。パウロは、「主よ、来たりませ」といつも祈っていました。私たちは、毎週礼拝の中でイエス様が教えてくださった「主の祈り」を唱えますが、その中で「御国を来たらせたまえ」と祈りますね。「御国」とは、「神様の支配する所」ですから、「御国を来たらせたまえ」とは、「神の御支配がすべてのものに及びますように」という祈りです。この世界に、私たちの人生に、また、人々の人生に、神様の愛の支配、恵みの支配、義の支配が豊かにもたらされますように、と祈り続けているわけです。
 そのような神の日が来るのを待ち望む一人一人を、神様は用いてくださいます。一人一人の内に志を与え、それぞれにふさわしい方法でイエス・キリストの福音を伝えることができるように導き、必要な知恵や力を与え、適切な時を備えてくださるのです。私たちがその神様の導きに従ってそれぞれの日常生活を送っていけば、神様が最善の時に終わりの日をもたらしてくださるのです。
 ですから、私たちは、自分たちの力で神の日の来るのを早めなければならないと思い込んで無理する必要はありません。終末の時代だからと言って、危機感に煽られ、落ち着いた生活を放棄してしまうのは愚かなことです。それは、かえって神様の働きを妨げることになってしまうかもしれません。
 私たちは、神様が必ず約束を実行してくださることを信頼して御国を待ち望みつつ、すべてを神様にお委ねし、賛美と感謝をささげながら、淡々と日常生活を送り、その時々に示されたことを実行していけばいいのです。それこそが、ペテロが11節で書いている「聖い生き方をする敬虔な人」、つまり、神様の専用品として神様を信頼して生きる人の生き方です。「聖い生き方」とか「敬虔」という言葉は、道徳的に完璧になるということではなく、主を礼拝し、主とともに生きることなのです。そういう生活の中で、私たちは、主の愛と主の深い忍耐を味わい知ることができます。ですから、与えられた毎日の生活を感謝しつつ、大切に生きていこうではありませんか。終末を恐れるのではなく、神様の大きな愛とあわれみによって支配される永遠の御国が待っていることを深くうなずきながら歩んでいきましょう。