城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年三月一日             関根弘興牧師
               第二ペテロ三章一四節〜一八節
ペテロの手紙連続説教31
    「誠実に堅実に」

14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。17 愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。(新改訳聖書)


 昨年の五月からペテロの手紙第一と第二の連続説教を続けてきましたが、今回が最終回となります。
 ペテロは、忍び寄る迫害と苦難の中に置かれたクリスチャンたちを励ますためにこの手紙を書き送りました。そして、「将来に素晴らしい希望があるのだから、信仰に堅く立ち、苦難に立ち向かっていこう」と励ましたのです。ペテロは、手紙の中で宛先のクリスチャンたちに対して「愛する人たち」と繰り返し呼びかけています。自分の生涯の終わりが迫っている今、愛する人たちが、自分のいなくなった後も主の愛と恵みの中にとどまり続けてほしいという熱い願いを込めてこの手紙を書いているわけですね。今日の箇所でも、手紙を閉じるにあたって改めて「愛する人たち」と呼びかけ、最後の勧めを記しています。

1 しみも傷もない者として

 まず、ペテロは、14節でこう書いていますね。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
 「そういうわけで」「このようなことを」というのは、前回お話ししたように、「神様は、今、何もしてくださらないように見えるかもしれないけれど、将来、最善の時に必ず正しいさばきを行ってくださり、信じる者たちを永遠の御国に迎え入れてくださる」ということです。そして、「その希望があるのだから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい」と勧めているのですね。
 では、「しみも傷もない者」とは、どういう意味でしょうか。

(1)神様に献げられ、受け入れられる者

 この「しみも傷もない者」という言葉の背景には、神殿でささげられていたいけにえの動物のことがあります。旧約聖書の律法には、「神様へのささげ物には、しみも傷もあってはならない」という規定がありました。例えば、誰かが羊をささげようとしても、もしその羊に傷があったらささげることができませんでした。私たちは、少しぐらいの傷ならかまわないじゃないかと思ってしまいますね。しかし、しみも傷もまったくないものをささげるという儀式を通して、人々は、神様が一点の汚れも受け入れない完全に聖いお方であるということを体験的に学んだのです。
 それは、私たちもしみや傷がいっさいない状態でないと神様に受け入れられないということでもあります。でも、それなら、いったい誰が神様に受け入れられることができるでしょうか。皆、しみや傷や汚れがありますから、そのままでは誰も神様に受け入れていただくことなどできませんね。かといって、私たちは、自分の力や善行や努力で完全に自分のしみや汚れを取り除いたり傷を癒したりすることはできませんから、このままでは、誰も神様の御前に出ることはできないのです。私たちのしみを完全に取り除き、傷を癒してくださる方がいなければ、私たちにはどうすることもできないのです。
 だからこそ、イエス・キリストが来てくださいました。イエス様は、私たちと同じ人となってくださいましたが、神様と同じ本質を持っておられる方ですから、しみも傷も汚れもない方です。だから、十字架で御自身を完全ないけにえとしてささげることがお出来になったのです。
 動物のいけにえは、人の罪の贖いのためにささげられましたが、不完全で罪を完全に除き去ることはできませんから、人々は繰り返しいけにえをささげる必要がありました。しかし、イエス・キリストは完全ないけにえですから、私たちの罪の汚れもしみもすべてを負ってただ一度、十字架で御自身をささげらることにより、完全な罪の赦しときよめを成し遂げることがお出来になったのです。また、イザヤ書53章5節に「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」とあるように、イエス様が打たれた傷によって私たちは癒やされたのです。。
 私たちは、このことを信仰を持って受け入れたときに、「しみも傷もない者」として認められ、神様に受け入れられ、自由に大胆に神様の御前に出ることができるようになったのです。ヘブル4章16節に「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と書かれているとおりです。
 ですから、私たちが「しみも傷もない者」となるのは、私たちの力や努力とはいっさい関係ありません。ただ、神様が恵みによって遣わしてくださったイエス・キリストの救いのみわざによるのです。

(2)神様の専用品として生きる者

 でも、ペテロはここで、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように「励みなさい」と勧めていますね。この「励みなさい」という言葉は、新改訳二〇一七では、「努力しなさい」と訳されています。この「励みなさい」「努力しなさい」という言葉があるので、「しみも傷もない者になるように自分で頑張っていかなければならないのか」と思ってしまう方もおられるでしょう。しかし、そうではありません。
 この「励みなさい」というのは、「最善を尽くす」という意味ですが、ペテロがここで言いたいのは、「あなたがたは、神様の恵みによって、しみも傷もない者として受け入れていただき、神様のものとなったのだから、それにふさわしい生き方をするために最善を尽くしていきなさい。そうすれば、いつも、この世の終わりの時にも、平安をもって神様の御前に出られるのだから」ということなのです。
 以前にもお話ししましたが、イエス様を信じた人々は「聖徒」「聖なる人々」と呼ばれます。「聖である」とは、「神様の専用品」ということです。神様の専用品としてふさわしい生き方とは、どのようなものでしょうか。神様の恵みに感謝し、賛美し、与えられた救いを喜び、神様を愛し、神様のことばに信頼し、神様との親しい関係の中ですべてを神様におゆだねして生きていくことです。私たちがそのように生きていくときには、心の奥底に平安が与えられます。クリスチャン生活に大切なのは、平安があるかどうかということです。何かを判断したり決断するときにも、自分の状態をチェックするときにも、平安があるかどうかは大切な指針となるのです。イエス様も、「わたしはあなたがたに平安を与えます」と約束してくださいました。神様の専用品として生きていくときに、苦しみや悲しみや動揺があるときにさえ、この平安は失われることはないのです。
 
2 主の忍耐は救い

そして、15節で、ペテロは、改めて主の忍耐について言及しています。
 前回もお話ししましたが、当時、聖書の言葉を信じず、この世に終わりなどないと考えて、クリスチャンたちをあざける者たちがいました。彼らは、「歴史を見ても何も変わっていないではないか」「日常の生活の中にも一体どこに神の働きなどあるのか、その痕跡すらないではないか」「終わりの日があるなどと言うが、そんな日が来る気配などまったくないではないか」などと言って嘲っていました。クリスチャンの中にも、迫害の脅威に怯え、いっこうに事態が改善されない現実の中で、「いつ終わりの日が来るのだろう」「どうしてすぐに来ないのだろう」「なんでこんなに遅れているのだろう」「神様のさばきの時が本当に来るのだろうか」と不安に思っている人たちもいました。
 そういう人々に対して、ペテロは、「神様は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるので、すぐにさばきを下さずに、忍耐しておられるのです」、つまり、「神様がこの世の最終的なさばきを猶予しておられるのは、主の一人一人への深い愛に裏打ちされた忍耐があるからこそなのです」と書き送ったのです。
 そして、「主の忍耐は救いであると考えなさい」と記していますね。そして、「それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです」と書いています。パウロは、ローマ2章4節で「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」と記しています。神様の慈愛と忍耐と寛容があったからこそ、私たちは、赦され、救われ、今こうして神様を礼拝することができるようになったのです。また、私たちは、これからも失敗したり、つまずいたり、道を逸れたりしてしまうことがあるでしょうが、主の忍耐があるからこそ、赦され、助けられ、教えられ、導かれて、永遠の御国に入ることができるのです。主の深い忍耐に感謝しようではありませんか。
 
3 聖書の曲解が招くもの

 ところで、ペテロは、パウロについて「私たちの愛する兄弟パウロ」と記していますね。
 パウロは、当時のキリスト教会の中でもっとも多くの教会を建て上げた人物であり、最も有名な使徒の一人ですが、パウロには、どちらかというと、妥協を許さない厳しいイメージがあります。物事を鋭く見抜き、イエス様の福音から少しでも外れるものを素早く察知し、不必要なものを切り捨てることができる大胆さを持っていました。
 使徒の働きには、パウロの同労者であったバルナバという人が出てきます。バルナバは、いろいろなことに配慮し、「慰めの子」と呼ばれるような人物でした。クリスチャンたちを迫害していたパウロが回心してイエス・キリストを信じた時、教会の人々は最初パウロを疑っていましたが、バルナバの取り計らいのおかげで、パウロは教会の仲間として認めてもらえるようになったのです。二人はともに伝道旅行にも出かけました。しかし、パウロにすれば、バルナバの寛容な姿勢がなんともじれったく感じることもあったのでしょう。激しい意見の衝突が起こって袂を分かってしまったこともありました。
 また、パウロは、ガラテヤ人への手紙2章で、先輩のペテロがユダヤ人の目を恐れて異邦人と交際しなくなったことについて、みなの面前でペテロに抗議したと書いています。また、バルナバもペテロと同様の行動に引き込まれてしまった、とバルナバへの批判も記しています。
 つまり、パウロは、相手が誰であろうと物事をはっきりと指摘し、躊躇せず意見する人物でした。普通は、このようなことがあると、関係が崩れて疎遠になってしまいがちですね。しかし、ペテロは、パウロに対して「愛する兄弟パウロ」と呼び、彼の手紙によって福音の素晴らしさが明らかにされていったことを認め、尊敬しているのです。パウロも、ペテロやバルナバについて賞賛の言葉を記しています。
 今日の箇所で、ペテロは、パウロも自分と同様に「主の忍耐は救いである」ということを教えていると記していますね。
 ただし、パウロの手紙の中には理解しにくいところがあるとも記しています。パウロの手紙は難しいところがあるので、その手紙の意味を曲解して、自らに滅びを招いている人たちがいるというのです。
では、ペテロがここで「パウロの手紙の中には理解しにくいところがある」と言っているのは、どのような内容についてだったのでしょうか。それは、前回まで見てきた惑わす者たちが言っている言葉から推測すると、「信仰義認」についてのことではなかったかと思われます。
 「信仰義認」とは、「イエス・キリストを信じる信仰により、神様の御前で義と認められる」、つまり、「私たちが救われるのは、自分の行いによるのではなく、ただ恵みにより信仰による」ということです。これは、パウロが自分の生涯をかけて語り続けてきたことでした。パウロは、自分の力で律法を厳格に守って救いを得ようと熱心に努力していた人でしたが、イエス・キリストに出会い、自分の努力では救いを得ることは不可能なこと、そして、イエス・キリストを信じることによってしか救いの道はないのだということを誰よりも深く悟った人でした。
 ですから、そのことを繰り返し手紙に書き記しています。
 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3章23節ー24節)
 「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5章20節ー21節)
 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」(エペソ2章4節ー5節)
 パウロのこのような教えを多くの教会の人たちが聞き、「救いは、自分の努力ではなく、神の恵みによるのだ」ということを喜んで受け入れていきました。
 しかし、中には、誤解して、このように言う人々もいました。「神様が一方的な恵みによって救ってくれるなら、私たちは何も変わる必要はないのだ。」「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるなら、どんどん罪を犯してもいいじゃないか。罪を犯せば犯すほど、赦してくれる神様の恵みを感じられるんだから。」「キリストが私たちを罪の束縛から解放して自由にしてくれたのなら、自由気ままに欲望のまま生きていこう。」
 このように、パウロの手紙の内容を自分たちの都合のいいように曲解して、自らしみや傷を生み出してしまうような生活をしている人たちがいたのです。
 しかし、そうした生き方は、結局、自分自身に滅びを招いているのだと、ペテロはここで警告しています。
 パウロも、ローマ6章1節ー2節でこう書いています。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
 私たちは、ペテロの手紙を通して、聖書のことばを自分の都合に合わせて自分勝手に解釈することの愚かさを学んできました。イエス・キリストの福音は昔ながらものですが、この福音によって新しい人生が生まれ、新しい神様との関係が築かれていくのです。それ以上、何もつけ加える必要がありません。ですから、もし誰かが「これこそ新しい教えである」とか「誰も今まで気づかなかった真理がわかった」などということを言い出したら、即座に退けなければなりません。
 ペテロも、17節で、「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい」と書いていますね。
 クリスチャン生活は、特別で神秘的で異質な生活を強いるものではありません。淡々と誠実に、そして、堅実に福音に生きていくのです。そして、教会は、常に礼拝を通して聖書を開き、聖書に聞き、聖書に信頼し、すべてを神様におゆだねしていくという姿を堅持していくのです。
 皆さん、偽物を見抜くためにもっとも効果的な方法は、いつも本物を見つめていることです。ヘブル12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とあるように、まことの救い主であるイエス様を見つめ続けていくのです。

4 終わりの勧めと祈り

最後の18節で、ペテロはこう書いていますね。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」
クリスチャンたちが救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長していくことがペテロの願いです。私たちも、これからさらに深くイエス様の恵みを味わっていきましょう。尽きることなく、朝ごとに新しく注がれる主の恵み中で成長させられていきましょう。また、イエス様がどのようなお方であり、何を成し遂げてくださったのか、その愛の深さ、広さがどれほどのものなのかということをさらに知り続けていきましょう。
 このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。