城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年三月一五日            関根弘興牧師
         ハバクク一章一節〜四節、二章一節〜四節

  「おそくなっても、それを待て」

1:1 預言者ハバククが預言した宣告。2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。3 なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。4 それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています。・・・・・  2:1 私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。2 主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。3 この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。4 見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(新改訳聖書第三版)


今日も、聖書のことばを通して、希望を告白していきましょう。
 今日は、十二小預言書の一つ、ハバクク書です。
 ハバククは、紀元前七世紀の後半に活躍した預言者です。ハバククの時代、南ユダ王国にヨシヤという王が登場しました。当時、南ユダ王国は偶像礼拝に陥り、たくさんの異教の神々の神殿や偶像が町々にありましたが、ヨシヤ王は、あらゆる偶像礼拝を禁止し、偶像をことごとく破壊し、まことの神様に立ち返る宗教改革を展開しました。そして、その過程で、律法の書、すなわち、モーセの五書と呼ばれる創世記から申命記までの書物が神殿の中から発見されたので、ヨシヤ王はすべての民にその書を読み聞かせ、まことの神様にだけ従うという誓いを立てさせたのです。
 しかし、新興国のバビロニヤ帝国が勢力を拡大し、アッシリヤ帝国さえも飲み込もうとしたとき、ヨシヤ王は、アッシリヤを助けるために北上してきたエジプト軍と戦い、紀元前六〇九年にあっけなく戦死してしまいます。せっかく、久しぶりに良い王様が登場したと思ったら、また治世が変わってしまったのです。その後、南ユダ王国は、ますます混乱していきました。
 ハバククは、そんな時代背景の中で預言者として活動しました。アッシリヤ帝国という残忍な国が滅びたかと思ったら、今度はバビロニヤ帝国が南ユダの脅威になっていました。エジプトの脅威もありました。ヨシヤ王の後に即位した王たちは、まことの神様に従うことをせず、国の政治は混乱し、内部には不正と暴力があふれていました。
 そんな中で、ハバククは、こう叫びました。「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が『暴虐』とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。」(1章2節-3節)「なぜ」「どうして」というハバククは叫んだのです。
 ハバククは、神様を信頼する預言者でしたが、叫んでも叫んでも、まるで神様が沈黙しているかのような経験をしました。それは、ハバクク自身にとっての信仰の危機でもありました。預言者は神様の言葉を語るわけですから、神様が何も語ってくださらないなら、何も語ることができませんね。
 前回はナホム書を読みましたが、その中にも同じような問いがありました。「神様が本当に正義の神様なら、どうしてこの悲惨な状態を見過ごしておられるのですか」という問いです。
 私たちも神様の前で「なぜですか」「どうしてですか」という思いを持つことがたびたびありますね。「愛の神様がいるのなら、どうして世界中にこんなに悲惨な出来事があるのですか」と疑問を持つ方もいます。「どうして」「なぜ」という問いは、常に私たちを悩ませ、苦しめ、葛藤させるのです。
 しかし、前回見ましたように、預言者ナホムは、そんな疑問を持つ人々に対して、「主は必ず正義を行われる。高ぶる者は必ず滅びる。主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる」と語りました。
 では、ハバククは、どのような答えを得たのでしょう。私たちは、このハバクク書からどのようなことを学ぶことができるでしょうか。

1 祈りの答えは、私たちの期待通りでないことがある

 当時の南ユダの人々は、不正を行い、賄賂が横行し、混乱し、暴行、暴虐、争いに満ちていました。ハバククは、その状況を見て、「神様、あなたの民がこんな酷い状態になっているのに、どうして何もしてくださらないのですか」と訴えました。すると、神様が答えてくださったのですが、それは、驚くべき内容でした。どんな内容かと言えば、1章6節にあるように「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る」というものだったのです。「カルデヤ人」というのは、バビロニヤ帝国のことです。神様は、バビロニヤ帝国を使って南ユダ王国を罰すると言われたわけです。
 それを聞いて、ハバククは非常に困惑しました。確かに、南ユダの民は、神の民として選ばれたのに、神様に逆らい、悪を行っていました。しかし、あの残虐非道なバビロニヤ帝国に比べたら「まだまし」ではないか、とハバククは思っていたのです。それで、1章12節から、こう訴えました。「神様、あなたは聖なる方でしょう。どうして、悪を犯したユダを罰するのに、さらにひどい悪を犯しているバビロニヤを用いるのですか。」ハバククは、神様が正義の使者を登場させて、正しい裁きをしてくださることを期待していたのです。まさかバビロニヤの名前が出てくるとは、まったく思っていなかったのですね。そんなことは、ありえない、あっていいはずがないと考えていたのです。
 私たちは、神様に何かを祈り求めるときに、自分の願うとおりの答えを期待していることがよくありますね。そして、期待通りの答えでなかったときには、文句を言ったり、葛藤したりしてしまいます。
 しかし、神様は、私たちの「こうあるべきだ」という勝手な思いに縛られる方ではありません。神様の働きには多様性があるのです。

2 おそくなっても遅れることはない

 続く2章で、神様は、葛藤するハバククに対して、幻を与えてくださいました。それは、5節ー20節に書かれているように、高慢で、多くの国々を略奪し、暴虐を行うバビロニヤ帝国は、神様の定めた時に必ず滅ぼされるという幻、そして、14節にあるように、終わりの時には「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる」という幻です。
 そして、神様は、3節にあるように、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」とお語りになりました。聖書をわかりやすい言葉で訳したリビング・バイブルには、「遅いように思えても、失望するな。 必ず計画どおりになるのだ。忍耐して待て。 ただの一日も、遅れることはない」と書かれています。
 これは、私たちが覚えておくべき大切なことです。今までも度々礼拝でお話していますが、神様の時は、私たちの考えている時とは違うのです。私たちが「神様、今すぐ解決してください。今すぐでなければ我慢できません。待てません」と祈るときに、神様は、「わたしは、必ず解決する。しかし、わたしの定めた時があるのだ。待ちなさい」と言われることが多いのですね。
 みなさん、私たちにはわからないことがたくさんあります。世界の出来事を見ても、自分の身に起こった出来事を見ても、どうして、なぜ、という叫びはいつもありますね。そのとき、私たちは、「神の時」があることを思い起こすことが大切です。 今年の元日の礼拝で開いた聖書箇所を思い出してください。イザヤ30章15節の「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」ということばです。
 私たちの期待する時ではなく、神様が定めた時こそ、私たちにとって最善の時であることを告白していきましょう。伝道者の書3章11節にあるように、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のですから。そして、「おそくなっても、遅れることはない」と約束されているのですから、委ねることが出来るのです。
今日は「御手の中で」を歌いましたね。御手の中ですべては変わる感謝に。すべては変わる賛美に」と。この歌は、もともとは「In His Time」という英語の歌で、「神様は、神様の時に、すべてのものを美しくしてくださる」という内容です。私が日本語の歌詞を考えて、この城山教会で初めて日本語で歌うようになったのです。この歌を歌い始めた頃、私には、この歌詞がまったくぴんと来ませんでした。開拓伝道の最初の三年間、まったく思うようにいかない現実を味わい、私は神様に文句を言っていました。「神様、私は若くして献身し、大学を卒業してすぐに神学校に行ったのですよ。そして、今、この小田原に来て、主のために働いているのです。給料も家賃を払えば無くなってしまうような中で一生懸命やっているんですよ。それなのに、どうして人が来ないのですか。どうして何も起こらないのですか。」それは、自分勝手な祈りでした。「神様、あまりにも遅すぎます」と思っていたのです。ですから、「御手の中で、すべては変わる感謝に」と歌いながら、まったくその実感が湧いてこなかったのです。
 しかし、今、私は、この最初の三年間を心から感謝してます。なぜなら、もし小田原で開拓伝道を始めてすぐに何か大きな働きが始まったら、私は勘違いしたことでしょう。「こうなったのは自分の力だ。俺はすごい」と高慢になるのは見えていました。おそくなっても待つことは、不安との戦いでもあります。しかし、主の目から見れば、決して遅れることはないのですね。私は、自分の人生を振り返って、本当に主の時は最善だと確信しています。だから、焦ってはいけません。主の時を待つのです。

3 正しい人はその信仰によって生きる

では、私たちは、どのような姿勢で主の時を待てばいいのでしょうか。
 ハバククは、4節で「正しい人は、その信仰によって生きる」と言っていますね。これはとても大切な言葉です。
 ここで、「信仰」と訳されている言葉は、「真実」とも訳される言葉です。「正しい人は、その真実によって生きる」とも訳せるわけですが、では、「その真実」とは、誰の真実でしょうか。もちろん、私たちの真実、つまり、私たちが神様に対していつも誠実に、真実に信頼して生きるという意味もありますが、もう一つ、神様の真実という意味もあります。神様が私たちを信頼し、真実をもって接してくださっている、それによって、私たちは生きるのだということですね。
 詩篇36篇5節に「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます」とあります。また、ヘブル10章23節には「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」と書かれています。私たちがどうして神様を信頼し、生きることが出来るのかといえば、私たちの神様が常に真実な方だからです
ですから、ハバククが「信仰によって生きる」と書いているのは、私たちが自分で神様を信じ、信頼して生きるということだけでなく、それ以上に、神様の圧倒的な愛と真実が私たちに注がれており、神様が私たちを信頼してくださっているからこそ生きることができるということなのです。
 私たちは、自分自身を見ると、不信仰だ、信仰が弱い、と思うってしまうことがありますね。でも、私たちの信仰や真実は、揺れ動いてしまう不安定なものです。しかし、第二テモテ2章13節に「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と書かれています。主は、常に真実な方です。だからこそ、私たちは、何があっても主を信頼して「待つ」ことができるのです。
 
 今週も、先が見えない不安定で不自由な週となるかもしれません。しかし、主の前に静まり、落ち着いて、主が最善をなしてくださることを信頼し、主のみわざを待ち望みつつ生活していきましょう。
 「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」(2章3節)