城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年四月一二日             関根弘興牧師
                    第一ペテロ一章三節

 イースター説教
    「信仰の中心」

3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(新改訳聖書第三版)

 イースターおめでとうございます。
 「イースター(復活祭)」は、イエス様が十字架にかかり、死んで葬られてから三日目に復活されたことを記念する日です。クリスマスは毎年十二月二十五日と決まっていますが、イースターの日付は毎年変わります。イエス様が復活されたのが日曜の朝だということがわかっているので、イースターは必ず日曜日に行われるのです。
 では、どのようにイースターの日を決めるかといいますと、「春分の日を過ぎて最初の満月の後の最初の日曜日」ということになっています。今年は、今日がその日に当たるわけです。
 さて、イースターは、イエス様が復活されたことを記念する日ですが、このイエス様の復活こそ、私たちの信仰の神髄となる大切な出来事です。イエス様が復活されて今も生きておられるからこそ、私たちはイエス様を信頼して歩み、イエス様に祈り、毎週こうして礼拝をささげているわけですね。
 先週はイエス様が十字架上で語られた七つの言葉を紹介しました。十字架は極悪人を処刑する道具です。罪を罰するための一番残酷な処刑方法です。十字架に手足を釘で打ち付けられ、想像を絶するような苦しみを味わいながらじわじわと死んでいくのです。十字架につけられた者は、神にのろわれた者と見なされました。その十字架にイエス様はつけられたのです。なぜでしょうか。
 第二コリント5章21節に、こう書かれています。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」どういうことかといいますと、神のもとから来られた罪のないイエス様が、私たちの罪を代わりに背負い、私たちが受けるべき罰とのろいを一身に引き受けてくださった、それは、私たちが神様の前で罪のない者と認められ、神様との関係を回復するためだというのです。考えられないほどの恵みです。
 イエス様は、私たちの罪を責めるのではなく、私たちの代わりに十字架にかかり、私たちのために「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださいました。
 また、イエス様は、十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは、神のひとり子なるイエス様が、私たちの身代わりとなって、父なる神様に断罪され、関係が絶たれるという最大の苦痛を味わわれたということなのです。そして、イエス様は、十字架上で「完了した」と言われました。ご自分が十字架につくことによって、私たちのために救いの道、赦しの道を備えるというみわざを完成してくださったのです。もし十字架が失敗なら「失敗した」と言うでしょう。志半ばで断念するような出来事であったなら「まだやり残すことがあった、無念」と叫ぶでしょう。しかし、イエス様は、「完了した」と叫ばれたのです。
 ですから、十字架には、罪を正しく裁くという神様の義と、私たちのために御子イエス様のいのちさえ与えてくださったという神様の深い愛が同時に表されているのです。
 しかし、イエス様の福音は、十字架だけで終わるのではありません。イエス様の十字架は素晴らしい出来事です。しかし、十字架にかかって死んだ人は他にも大勢いましたね。もしイエス様が十字架にかかって死んだままなら、他の犯罪人と何の違いもありませんね。
 イエス様の十字架だけが特別の意味を持っていたことを証明するのは、復活の事実なのです。復活によって、イエス様が死を打ち破ることのできる神の子であることが証明され、だからこそイエス様の十字架にすべての人を救う力があることが証明されました。そして、イエス様が復活されたからこそ、私たちは、十字架によって罪が赦されたことを確信し、新しいいのちに満たされ、いつも共にいてくださるイエス様に導かれつつ、希望と平安と勇気と喜びを持って歩んでいくことができるのです。ですから、私たちの信仰は、イエス様の復活が本当にあったかどうかにかかっているわけですね。復活を否定することは、イエス様が神の子であることを否定することであり、イエス様によって成し遂げられた救いも、イエス様が与えてくださるいのちも希望も否定することになるのです。
 ですから、パウロは、第一コリント15章14節でこう言っています。「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
 イエス様の復活こそ、信仰の基盤となるものです。ですから、聖書は、十字架で死なれたイエス様の復活について、弟子たちの目撃証言を含め、様々な角度から詳しく記しています。

1 空になった墓

 イエス様は、十字架につけられたあと、墓に納められました。岩肌をくり抜いた墓で、墓の入り口は大きな石でふさがれ、その石には封印がされました。そして、総督ピラトから派遣された番兵たちが、遺体が盗まれないように番をしていました。
 ところが、日曜日の朝、大きな地震が起こり、墓の入口の石がわきにころがり、その上に御使いがすわっていました。番兵たちは御使いを見て震え上がり、急いで祭司長たちのもとに行って一部始終を報告しました。すると、祭司長たちは長老たちと相談して、番兵たちに多額の金を渡して、こう言ったのです。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。もし、このことが総督ピラトの耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
番兵たちにしてみれば、イエスの遺体がなくなったことは、自分たちの警備上の不備となるわけですから、総督の耳に入れば、責任を問われ、厳罰に処せられることでしょう。それに、正直に「あの朝、地震が起こり、石がころがったんです。そして、私たちは、御使いを見ました。その御使いがイエスは復活したと言っていました」などと証言しても、誰にも信じてもらえないでしょう。かえって、祭司長たちの猛反発を受けたり、総督から罰を受けることになるでしょう。そこで、結局、番兵たちは、お金を受け取って偽証することにしたのです。
しかし、「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った」という証言は、おかしいですね。眠っている間に盗まれたのなら、どうして盗んだのが弟子たちだとわかったのでしょう。偽証というのはボロが出るんですね。
 イエス様の遺体が消えてしまったことについて、多くの人が、「復活などあるわけがない、馬鹿げている」と考えて、別の理由を考えようとしました。
 「弟子たちが遺体を盗んだ」という説の他にも、例えば、「イエスは十字架で死んだのではなく、気絶したただけだ。三日目に意識を回復して墓を抜け出したのだ」とか、「弟子たちが墓の場所を間違って、別の墓が空っぽなのを見てイエスが復活したと勘違いしたのだ」とか、いろいろと考えたわけです。
 しかし、聖書は、イエス様の復活は事実である、と明確に宣言しているのです。

2 弟子たちの目撃証言

 科学的な事実を証明するためには実験を繰り返しますが、復活のような一回限りの歴史的出来事を証明するためには、目撃証言が大切な意味を持ちます。イエス様は、復活後四十日の間、五百人以上の弟子たちの前に現れましたが、聖書には、実際に復活のイエス様にお会いした弟子たちの様々な目撃証言が記録されています。弟子たちは、「私たちは、復活されたイエス様にお会いし、実際にイエス様のからだに触り、語り合い、食事を共にした」と証言しているのです。
 もし、その証言が嘘だったとしたら、その後の弟子たちの大きな変化を説明することができません。
 イエス様が逮捕されたとき、弟子たちは散り散りに逃げ去ってしまいました。そして、イエス様が十字架にかかり、死んで葬られた時、弟子たちは、悲しみ、意気消沈し、恐れて隠れていたのです。しかし、復活のイエス様にお会いしてからは、イエス様がまことに神の御子であり、救い主であることを確信し、どんな迫害も恐れることなく、大胆にイエス様の十字架と復活を宣べ伝えていくようになりました。もし、自分たちがイエス様の遺体を盗み出して「イエス様は復活した」と嘘を言っていたとしたら、あれほどの揺るぎない信仰を持って、命がけの伝道をすることは出来なかったでしょう。
 第一コリント15章で、パウロも、「復活したイエス様は、十二弟子やその他の五百人以上の弟子たちの前に現れ、私にも現れてくださった」と証言しています。
 その中で、最初に復活のイエス様にお会いしたのは、マグダラのマリヤたちでした。日曜日の朝、イエス様の遺体に油を塗ろうと墓に行ってみると、墓は空で、御使いに「イエス様は、よみがえられました」と知らされたのです。驚いたマリヤたちが急いで弟子たちに知らせに帰る途中、イエス様が現れました。そして、「おはよう」と言われた、とマタイの福音書に書かれています。ヘブル語では「シャローム」です。復活したイエス様が最初に言われたのは「シャローム」という言葉だったのですね。
 それから、復活のイエス様にお会いした弟子たちの中で有名なのはトマスですね。イエス様が最初に弟子たちのいる所に現れたとき、トマスだけはその場にいませんでした。肝心な時にいなかったんです。トマスが戻って来ると、イエス様にお会いした仲間たちが興奮し大喜びしています。しかし、トマスは、「私は、自分で実際にイエス様にお会いして、自分でイエス様の手の釘の跡やわき腹の槍に刺された跡に触ってみなければ信じない」と言ったのです。なかなか強情な人ですね。それで、トマスは「疑い深いトマス」と呼ばれるようになってしまいましたが、ちょっと気の毒ですね。死人が復活したと信じることは大変なことです。「実際に復活したイエス様に会わなければ信じられない」とトマスが思うのは当然ですよね。
 しかし、その八日後、イエス様はトマスのいる時に現れてくださいました。そして、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。すると、トマスは、「私の主。私の神」と言って、イエス様の前にひれ伏したのです。
 すると、イエス様は、こう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
 この言葉はよく誤解されます。「見て信じる者」より「見ずに信じる者」のほうが立派だ、という意味だと思う人が多いのですね。でも、イエス様はそういう意味で言われたのではありません。トマスは、確かに、見て信じました。しかし、他の弟子たちも皆、見て信じたのです。ですから、イエス様は、ここで「見て信じる者」と「見ないで信じる者」を比べてどちらがいいか、というようなことを言われたのではないのです。
 では、どういう意味で言われたのでしょうか。
 イエス様が本当に復活されたことを伝えていくためには、実際にイエス様をよく知っている弟子たちの目撃証言が必要でした。イエス様を知らない人がイエス様にお会いしても、それが本当にイエス様かどうかわかりませんね。でも、最初の弟子たちは、イエス様とずっと一緒に生活をしていたので、イエス様の顔も姿もよく知っていました。ですから、復活のイエス様とお会いしたときに、これは本物のイエス様だと確認することができたのです。ですから、イエス様は、弟子たちの前に現れて、ご自分が復活したことをはっきり示してくださいました。そして、弟子たちは、実際に自分の目で見たので、「イエス様が本当に復活された」とはっきり証言することができたのです。
 この弟子たちの目撃証言によって、復活の事実が全世界に宣べ伝えられていきました。弟子たちは、大胆に「自分たちの見たこと」を伝えたのです。教会では「証し」という言葉を時々使いますが、「証し」とは、イエス様について証言するという意味です。最初の証人たちは、実際に自分の目でイエス様の復活を目撃し、確かにそれが自分たちのよく知っているイエス様であることを確認し、そのことを証言していったのです。
 その弟子たちの目撃証言によって確証を与えられているからこそ、二代目、三代目のクリスチャンたちは、今度は、実際に「見ないで」も、聞いて「信じる」ことができるわけです。つまり、私たちが聞いた福音のことばは、確かな目撃証言の上に立っているのです。そして、目撃証人である弟子たちによって保証された復活の事実を私たちが信じ受け入れるとき、弟子たちが復活のイエス様を実際に見て信じた時に味わったのと同じ感動、同じ喜び、同じ平安を受けることができるのです。
 第一ペテロ1章8節ー9節には、こう書かれています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」この言葉の通り、私たちは、イエス様をこの目で見たことはないけれど、イエス様を愛し、イエス様の恵みに感動しつつ生かされ、最初の弟子たちの目撃証言が真実であることを証言する者とされているのです。

3 イエス様の復活の意味

 そして、イエス様の復活の出来事は、私たちに二つの大切なことを保証してくれます。

@復活は「みことばの確かさ」を保証する

 人は、いくら素晴らしいことを言っても、実際の行動や結果が伴わなければ信用できませんね。「かならず実行します」と言っても、何もしないなら、その人は信頼できません。
 イエス様は、どうでしょうか。イエス様は、「わたしは殺されるが、三日目によみがえります」と何度も語っておられました。ですから、もし復活されなかったのなら、「イエスは、生前、立派な教えを説き、人々に愛をもって接したすばらしい人物でした。でも、その言葉は、実現しない、いい加減なものに過ぎませんでした」で終わってしまいますね。
 そうするとイエス様が語っておられた他の数々の約束も、まったく信用できないものだということになってしまいます。
 たとえば、イエス様は「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と言われましたが、死んで葬られたままなら、それは不可能です。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われました。また、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」とも言われました。もしイエス様が復活されず死んだままなら、どうして人々に永遠のいのちを与えることができるでしょうか。どうして死んでも生きるいのちを与えると約束することが出来るでしょう。
 イエス様の復活は、「イエス様の語られた約束の言葉はすべて信じることのできる確かなものである」ということに太鼓判を押すものでした。だからこそ、私たちは聖書を読み、聖書に書かれている約束の言葉がすべて実現することを期待し、イエス様に信頼して生きていくことができるのです。
 
A復活は「朽ちることのないいのち」を保証する

 今日の聖書箇所、第一ペテロ1章3節にこう書かれています。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」イエス・キリストが復活されたことによって、私たちは新しく生まれて、生ける望みを持つことができるようになったというのですね。
 聖書は、「肉体の死」とは別のもう一つの死について教えています。神様から離れ、神様のいのちを受け取ることができない状態にいる人は皆、死んだ状態だというのです。その状態のことをパウロはエペソ2章1節で「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」と書いています。
死んだ状態の特徴の一つは「腐敗する」ということです。腐敗したもの汚れたものが内側から出てきてしまう状態です。
 もう一つの特徴は「応答しない」ということです。神様の呼びかけに応答しないのです。本当は、愛にあふれ真実に満ちた神様との関わりの中で、豊かに成長していくことができるはずなのに、神様との関係が断線状態になってしまっているために応答できなくなっている、それが死んだ状態にあるということなのです。
 旧約聖書の預言者たちを通して、神様は何度もこんな呼びかけをしておられます。「わたしを求めて生きよ。」(アモス5章4節)「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・・だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18章32節)
 神様から離れている状態、神様に背を向けている状態は、死んでいる状態だ、だから、神様の方に向きを変え、神様といのちのつながりを持って、生きよ、と神様は言われるのです。
 どんなにすばらしい家電製品も、電源が入っていなければただの箱です。本来の機能を発揮するためには、電源につながっていなければなりません。同じように、私たちが人として本来の姿で生きるためには、いのちを与える神様とつながっている必要があるのです。
 イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。イエス様の与えてくださるいのちは、肉体が朽ちてもなお続いていく豊かないのちであり、天国の望みへとつながっているいのちなのです。
エペソ2章5節ー6節には、「(神は)罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とあります。神様は、死んでいた私たちを見つけ出し、キリストとともによみがえらせ、み国に入る保証を与えてくださっているのです。

復活されたイエス様は、いつも私たちと共にいてくださいます。今、この礼拝の真ん中にもいてくださいます。イエス様によって与えられたいのちに生かされつつ、希望を持って歩んでいきましょう。