城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年八月二日             関根弘興牧師
              ローマ人への手紙六章一節〜五節

ローマ人への手紙連続説教13
  「キリストにつぎ合わされる」
 
1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(新改訳聖書第三版)

 先週は、「私たちの側では信じるだけで救いを得ることができるという単純なことだけれども、神様の側では私たちに救いを与えるために長い間に渡って周到な準備をしてくださっていたのだ」というお話をしました。
 たとえば、テレビは電源を入れればすぐ見ることができますね。とても単純です。でも、このテレビを最初から作りなさい、と言われたら、とても難しいですね。私たちは、何の疑いもなくテレビのスイッチを押すのと同じように、神様から差し出された永遠の救いをただ信頼して単純に受け取りました。それが信仰によって救われるということなのです。しかし、その救いを「あなた自身で最初から完成させなさい」と言われたら、私たちにはどうすることもできませんね。どんなにがんばって修行をしても、善行を重ねても、とてもできないわけです。
 しかし、神様のほうで救いを完成し、私たちに差し出してくださいました。私たちは、その救いを単純に受け取り、それによって、先週お話ししましたように、アダムにある罪の支配の中からイエス様にある恵みの支配の中に移されたのです。
 そして、今日の箇所には、私たちの単純な信仰の応答によってもたらされる、さらに深い真理が記されています。
 パウロは、口を開けば、「恵み、恵み」と、いつも恵みを語る人でした。しかし、恵みを強調するあまり、しばしば誤解されることもあったようです。前回の5章20節でも、パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と書いていますが、こういう言葉を聞いて、こんな誤解をする人たちがいました。「パウロ先生、あなたは『神様の恵みはすばらしい。そして、神様の恵みはあらゆる罪を赦す大きなものだ』と言っていますね。それなら、私たちがたくさん罪を犯したほうが、神様の恵みをたくさん受けることができて、神様のすばらしさをもっと知ることになるのではありませんか。『罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれる』というなら、恵みが増すために、大いに罪を犯したほうがいいでしょう。」こんな誤解が生まれるくらい、パウロは恵みについて語ったのです。
 しかし、本当に神様に愛され、神様の恵みの中に生かされていると確信しているなら、「神様の恵みを知るために、もっと罪を76+


犯そう」なんて考えるはずがありません。たとえば、「うちの親が本当に私のことを愛していることがわかっているんですよ。だから、もっと悪いことをして、どれほど自分が愛されているかを味わうと思うんです。」こんなことを言う子供はいませんね。本当に愛されていることを知っていれば、愛してくれる相手を悲しませるようなことをしようとは思わないでしょう。神様に愛されていることを知れば、その神様を誇り喜ぶ姿が生まれてくるはずですね。ですから、パウロは、今日の箇所の冒頭で、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません」と強い口調で記しているのです。
 そこで、前回のことを思い出していただきたいのですが、私たちは、アダムによってもたらされた罪と死の支配の中から、キリストよってもたらされた恵みといのちの支配の中に移されていることを学びましたね。パソコンを動かすOSと呼ばれる基本ソフトを変えるとパソコンの性能や機能が変わってしまうように、私たちの基本ソフトがOSアダムからOSキリストに変わると、まったく新しい人生が始まるのです。
 そして、パウロは今日の箇所で、キリストの恵みの支配の中に生かされているとは、どういうことなのかをさらに詳しく記しています。
 今日の中心的な聖書箇所をもう一度読みましょう。6章3-4節です。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
 ここには何度も「バプテスマ」という言葉が出てきますね。バプテスマとは「洗礼」のことです。「洗礼」というと、皆さんは、どんなイメージを持ちますか。教会以外でも洗礼という言葉をよく使いますね。たとえば、政治家が不祥事で辞職した後、再出馬して当選すると、「選挙の洗礼を受けた」と言いますね。また、プロ野球で新人の投手が初登板で失点を重ねると「初先発でプロの洗礼!」こんな見出しが新聞に載ることがありますね。辞書には、「その後に影響を与えるようなことについて初めての経験をすること」、また、「ある集団の一員となるためなどに、避けて通れない試練」などの意味が載っています。
 それでは、聖書で教える洗礼とはどのような意味があるのでしょう。
 プロテスタント教会では、イエス様が命じられた二つの礼典を行っています。
 一つは、聖餐式です。パンとぶとう酒(ぶどうジュース)を分かち合う儀式です。イエス様が私たちの罪を贖うために十字架についてくださったとき、イエス様の肉が裂かれ、血が流されたことを象徴するもので、この聖餐式を通して、私たちは、イエス様の十字架によって示された大きな愛と恵みを思い起こすのです。
 そしてもう一つは、洗礼式です。これは、「私は、キリストを信じてクリスチャンになりました」ということを公に表明するとともに、3節にあるように、「キリストにつくバプテスマを受けた」ということを象徴的に表すものなのです。
 では、この「キリストにつくバプテスマを受ける」とは、どういう意味があるのでしょうか。

1 キリストの中に浸されること

 「キリストにつく」という言葉は、「キリストのまっただ中にまで」という意味です。そして、「バプテスマ(洗礼)」とは、「浸す」という意味です。ですから、「キリストにつくバプテスマを受ける」とは、「キリストのまっただ中に至るまで浸る」ことなんです。つまり、「キリストべったら漬け」になることなんですね。キリストの味が体中に染み渡り、キリストの香りを放つ者とされるということなんです。
 エペソ5章2節には、「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」とあります。キリストの香りは、無条件の愛の香りです。私たちが弱く、罪人で、敵対している者であるにもかかわず、ご自分のいのちさえも惜しまずに差し出してくださるほどの愛の香りなのです。この愛と真実に満ちたキリストのまっただ中に浸り生きるからこそ、「互いに愛し合う」という香りを放つ者へと育まれていくのです。
つまり、キリストにつくバプテスマとは、キリストの中に浸り、キリストと共に歩むことを確信させるものなのです。

2 キリストとともに死んで葬られること

 3節、4節に、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」と書かれています。
ちょっと、むずかしい内容ですね。私たちは、洗礼式を、クリスチャンとしての公の表明の儀式という程度にしか考えていなかったかもしれません。しかし、パウロは、私たちがキリストにつくバプテスマを受けたということは、キリストと共に死んで葬られたことを示すことなのだと記しているのです。
 これは、考えると大変なことですね。キリストの死とは、十字架の死です。「洗礼を受けると、私たちも十字架のような苦しみを受けるのか」と考える方がいるかもしれませんね。
 しかし、そうではありません。「キリストの死にあずかる」とは、「イエス様の十字架の死とつなぎ合わされる」という意味です。今まで、イエス様の十字架をちょっと離れた距離から見ながら、「イエス様は、私の罪のために、あの十字架で死んでくださったのだ」と告白してきた方が多いかもしれません。「あの十字架」には、茨の冠をかぶせられたイエス様がついているわけです。しかし、パウロは、「イエス様がつけられた十字架は、あなたから遠く離れているのではありません。実は、あなたもキリストと共に十字架に付いたのです。洗礼にはそういう意味があるのです」ということを教えているのです。
 パウロは、ガラテヤ2章20節に、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と書いています。キリストの十字架には、私たちも一緒に釘づけされているのだと言っているのです。そして、キリストとともに十字架につけられ、葬られたなら、私たちは、死んだ者だと言うわけです。
 私たちは、人生で二回お葬式を行うのですね。この肉体が死んだ時にお葬式をしますが、もう一つ、イエス様を信じて洗礼を受けることもお葬式なのです。
 ところで、「葬られる」とは、どういうことでしょう。有名な人でも、葬られたら、一年、二年、三年、十年、五十年、百年たったら、墓の前に花を手向ける人もいなくなるかもしれません。その人が存在したことすら忘れられてしまうかもしれませんね。テレビでも、有名な芸能人が亡くなると追悼番組を行いますが、それも数回ですね。そのうち、話題にすら上らなくなりますね。葬られるとは、寂しいものですね。
 家族や友人のお墓に行って、墓前でほめ言葉をかけてみてください。答えはないでしょう。今度は、言葉汚く罵ってみてください。これだけ罵ったら死人だって墓の中から出てくるのではないかというほど罵しるのです。でも、その人が墓から出てくることはないでしょう。葬られるとはそういことなんですよ。
 もう一度ガラテヤ2章20節を読みましょう。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
 つまり、葬られた者として生きることが、クリスチャン・ライフの秘訣なんです。私たちは、あまりにも人の言葉に一喜一憂しますね。ほめられればうれしくなり、有頂天になってしまうこともよくあります。逆に、けなされ、ちょっと嫌なことを言われれば、ふて腐れて失望してしまうこともしばしばですね。上がったり下がったりの弱い存在です。でも、そんな時、「私はキリストと共に葬られているのだ。人がほめようが、けなそうが、私の価値はちっとも変わらない。私は今、キリストと共に生きているのだ」と考えていくのです。これは、とても大切なクリスチャンとしての生き方なんです。

3 キリストのいのちにあって新しく歩み出すこと

 洗礼とはお葬式だとお話ししたばかりなのに、今度は、いのちに新しく歩むことだというのですから、頭が混乱してきますね。あのキリストの十字架は、私たちも共につけられた十字架です。そして、私たちは、キリスト共に死んで葬られたのです。 しかし、聖書はそこで終わっていません。そこで終わっていたら福音ではありません。希望がありません。イエス様は十字架につけられましたが、三日目に復活されたのです。そして、私たちは、キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に葬られ、復活においても、キリスト共に復活のいのちにあずかり生きる者とされたのです。そして、そこから、キリストの失われることのない新しいいのちに歩む生涯が始まるのです。
 つまり、洗礼は、葬りの時であるとともに、新しいいのちに歩み出す誕生の時でもあるのです。
 5節にこう書かれていますね。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
 この「つぎ合わされ」というのは、「キリストに接ぎ木された者となった」という意味です。私たちは今までどんな実を結んできたでしょうか。あまりたいした実は結んでこなかったかもしれません。自分自身を見たら、豊かな実を結びそうもないなと思うかもしれません。しかし、イエス様の福音は、「そのままでは何の良き実も結ばない枝が、接ぎ木されて豊かな実を結ぶものとされていく」ということを約束しているのです。
 イエス様は、ヨハネ15章4-5節で、はっきりとこう言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
 枝は、幹から十分な養分を吸収しなければ、実を結ぶことはできません。もし枝が幹から離れたら、枯れてしまいます。私たちは枝です。キリストにつぎ合わされているときに実を結ぶことができるのです。その実とは、ガラテヤ5章22ー23節にあるように「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の実なのです。

 今日、私たちは、「キリストにつくバプテスマ」について考えてきました。それは、キリストにつぎ合わされることを意味しています。洗礼式は、キリストの恵みに浸り、キリストとともに十字架に付けられ、死んで葬られ、キリストと共に復活して新しいいのちに生きるものとされたことを象徴的に表すものなのです。
 すでに洗礼を受けている方々は、もう一度、洗礼の深い意味を覚え、歩んでいってください。
 また、まだ洗礼を受けていない方は、改めて考えてみてください。イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と言われました。勇気を持って一歩踏み出して、洗礼によって信仰のスタートを切っていただきたいと思います。
 パウロは、第二コリント5章17節でこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。