城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年八月三〇日            関根弘興牧師
              ローマ人への手紙七章一節〜六節

ローマ人への手紙連続説教16
  「キリストの花嫁」
 
1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか ---- 私は律法を知っている人々に言っているのです。---- 2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(新改訳聖書)


 世界の歴史は、イエス・キリストの誕生を境にして二つに分けられました。BCとADに分かれたのです。BCとは「キリスト以前」、ADとは「主の年」という意味です。まさに、イエス様の誕生を境に、歴史は大きく二つに区切られたのです。
 それと同じように、私たちの人生においても、キリストとの出会いが人生の大きな分かれ目となります。
 私たちには、二つの誕生日があります。一つは、この肉体の誕生日です。そして、もう一つは、イエス様を信じ受け入れることによって神の子とされたという第二の誕生日です。第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と書かれています。イエス様を信じ、心に迎え入れて、イエス様に従って歩むということは、新しく生まれ、新しいいのちを持って生きていくことなんですね。

 ヨハネの福音書3章にニコデモという人がイエス様に会いに来た出来事が書かれています。ニコデモは、ユダヤ人の指導者でしたが、イエス様のもとに夜こっそりと尋ねてきました。そのニコデモに、イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われたのです。
 ニコデモは、宗教的にも社会的にも当時の模範的なリーダーの一人で、人々から尊敬されていました。しかし、彼は、一つの不安を抱えていたようです。それは、「このいのちが閉じたら、どうなってしまうのだろう。私は、このままで神の国に入ることができるのだろうか?」ということでした。その不安を見抜いたかのように、イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われたのです。
 ニコデモは、びっくりして、「人がもう一度、母の胎に入って生まれてくるなんてことができましょうか」と尋ねました。イエス様の言葉を誤解して、またお母さんのおなかに戻って生まれ直さなければならないのか、と思ったのですね。
 しかし、「新しく生まれる」とは、そういうことではありません。ヨハネの福音書1章12節ー13節には、こう書かれています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」つまり、キリストを信じ、受け入れた人は、神様の力によって、新しく神の子として生まれたのだ、というのです。パウロも、第二コリント5章7節に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と書いています。

 さて、今日は、7章に入りましたが、パウロは少しくどいのではないかと思われるくらい、同じテーマについて、いろいろな視点から語っていきます。思い出してください。
 5章の後半からは、人は皆、アダムの末裔で、アダムが犯した罪の影響を受け、その罪の根っこを持っているのだと書いていましたね。すべての人は、自分の意志とは無関係に罪の中にあるのだというのです。しかし、イエス・キリストが来られ、私たちの罪のすべてを背負って十字架についてくださったことにより、アダムにある罪と死の支配から、今度は、キリストにある赦しと恵みの支配の中に生きる道が開かれた、とパウロは説明していました。
 そして、6章の前半では、キリストの十字架は、単なる私たちの身代わりの十字架であるばかりか、私たちもキリスト共に十字架につけられ、死んで葬られたのだと語っています。古い人は十字架につけられ葬られたのだから、過去に捕らわれ、引きずられてながら生きることから解放され、キリストの復活のいのちに合わされて、新しいいのちに歩むことができるのだと
いうことでしたね。
 そして、前回の6章の後半では、クリスチャンとされた私たちは、もはや罪の奴隷ではなく義の奴隷であり、神様とのまっすぐな関わりの中で生きていくことのできるようになったのだということが書かれていました。
 つまり、パウロが5章後半から今日の7章に至るまで繰り返して言っていることは何かといいますと、私たちが単純な信仰によってイエス様を受け入れてクリスチャンとされたということは、周りの景色や状態は変わらなくても、生かされている世界がまったく変わってしまったということなのです。古い束縛から解放されて、キリストの恵みの傘下の中に生きる者とされているのだというわけです。
 「あなたの古い自分は、もはや葬り去られたのだ。あなたの過去はすべて十字架に釘付けされてしまったのだ。今は全く新しい立場の中で、あなたは生かされているんだ。あなたは自分の姿を見て、『昔と全然変わっていない』と思うかもしれない。でも、神様の目から見たら、あなたは全く新しく造り変えられた者とされているのだ」とパウロは何度も何度も繰り返して説明しているのです。
 そして、パウロは、それに見合わない生き方をしている人たちや、それに反することを言っている人たちに対して、「そうではありません。キリストの恵みの中に生かされている、という素晴らしさをぜひ知ってください。なぜなら、あなたの過去はいっさい葬り去られたのです。古いあなたは死んでしまったのです」と語っているのです。

1 律法に対して死んだ者

 しかし、当時のユダヤ人クリスチャンたちの中には、こう考えている人たちがいました。「私たちは、旧約聖書にあるいろいろな戒めや先祖からの伝統をずっと守ってきた。その上で、イエス様を信じて救いを受けることができたんだ。でも、異邦人たちは旧約聖書を知らず、その戒めを守ってこなかった。割礼も受けていない。それなのに、イエス様を信じさえすれば救われるなんて、ちょっと虫がよすぎるじゃないか。」「異邦人も、イエス様を信じるだけでなく、もう少し良い行いをして、まず、割礼の儀式を受けて宗教的な意味でユダヤ人になって律法を守る生活をしてから、その上で、イエス様を信じるなら救われるのではないか。」こういうことを言い出したユダヤ人クリスチャンたちが教会の中にいたわけですね。
使徒の働き15章を見ると、教会が直面した大きな問題が出てきます。教会が誕生し、福音が世界に伝えられていこうとするときに、教会は、二つに分裂してしまうかもしれない重大な危機を迎えたのです。
 一方のグループは、「イエス様を信じる信仰も大事だけれど、旧約聖書の示す律法や戒めをきちんと守ることも大切ではないか」と主張していました。
 もう一方のグループは、「律法は必要ない。イエス様を信じる信仰だけで充分である」と主張していました。そのグループのリーダー的存在がパウロだったわけです。
 そこで、「使徒の働き」15章に書かれているように、エルサレムで教会リーダーたちの会議が開かれました。「エルサレム会議」として知られているものです。その場で、「信仰のみでいいのか。律法も必要なのか」というテーマが議論されたのです。神様がこの会議を守ってくださり、結局、「人の救いは、信仰のみによる」ということを皆で確認しました。ただし、ユダヤ人たちは戒めや伝統を守ることを大切にしているので、彼らがつまずかないように、配慮を持って伝道していくことを取り決めたのです。
 しかし、この会議の後も、「いや、やはり律法は必要だ!」と唱える人があちこちの教会の中にいました。そこで、パウロは、この手紙の中でも、これでもかというほど「救いは神の恵みにより、ただ信仰によって与えられるのです」と繰り返し語っているのですね。
 たぶん、パウロは、6章まで記して、本来なら8章の内容に話を進めようとしていたのではないかと思います。しかし、やっぱり念には念をということで、7章の内容を付け加えたのではないかと思うのですね。
 パウロは、この7章で、当時の婚姻法を持ち出して説明し始めました。当時の婚姻法によれば、夫の生きている間に他の男と結婚生活をしたら、それは姦淫であり、許されないことでした。しかし、夫が死んでしまったら、その夫婦関係は解消され、妻は再婚の自由が保証されるのです。これが当時の婚姻法の定めでした。
 パウロは、この婚姻法を例にとって次のように説明しました。
 私たちの以前の主人は、律法であって、律法と結婚生活を送っていた、というわけです。もちろん律法は大切なものです。律法があるからこそ、その律法を守れない自分は罪人なのだということがわかるからです。また、自分の熱心や頑張りや努力である程度までは律法を守り行うことができても、律法をすべて完全に守ることはできないという自分の弱さがわかってくるわけです。つまり、律法は私たちの罪と弱さを教え、救い主が必要であることを教えてくれるわけですから、その意味では大切なものなのです。
 しかし、この律法を自分の主人として生きて行くのは大変疲れるわけです。自分で律法を完全に守ることなどできませんから、いつまでたっても救いを見い出せません。また、律法の命令を守れない自分、律法が禁じていることをしてしまう自分、そういう自分の姿が明らかになっていくばかりです。その結果、どんな実を結ぶでしょう。「私は駄目だ。私は何もできない。私は正しくない」と自己嫌悪に陥ってしまうのです。また、「所詮、私は罪人だ」という罪責感も実を結ぶでしょう。そして、「私は罰を受けて死ぬしかない。何と惨めな人間なんだろう」という絶望感が襲うのです。
 しかし、パウロは声を大にして言います。「兄弟たち。あなたがたは律法に対して死んだのだから、もはや律法に縛られる必要はありません。律法から解放されて自由になったのです」と。つまり、パウロは、「あなたがたは、イエス様と共に十字架で死んだのです。つまり、以前の主人である律法とは死別したのですよ。そして、いま、あなたはキリストと共に生きる者とされたのです。全く新しい婚姻関係に入れられたのであって、今は、恵みあふれるイエス・キリストがあなたの主人なのですよ」と言っているのです。
 ですから、クリスチャンとされているということは、キリストの花嫁として生活を送っているということです。それは、どのような生活なのでしょうか。

2 キリストの花嫁

(1)解放されて生きる

 古い主人のもとでは、ああしなければならない、こうしてはならない、というような様々な戒めに縛られ、また、従えないときには罰や呪いを恐れる生活をしていました。しかし、今では、罪を赦し、愛とめぐみにみちたキリストが主人です。ありのままの私たちを受け入れ、ともに歩み、守り、助け、導き、育んでくださる方が主人なのですから、安心して自由に自分らしく生きていけるのです。
 ですから、クリスチャンになると、様々な迷信から解放されていきます。先祖のたたりだとか、何かの罰が当たるとか、そういう宗教的な束縛の世界から解放され、自由にされていきます。また、様々な律法、ねばならいない式の戒律から解放されていきます。
 また、私たちを罪に定める訴えの声から解放されていきます。クリスチャンになった私たちに対して、いろいろなことを言う人がいますね。「あなたは、それでもクリスチャンですか」「あなたは、まだまだ、どうしようもない人間だ」「キリストを信じるだけで救われるなんて、そんなのは甘いぞ」「もっと努力したり、修行しないと駄目だ」などという声が襲ってくるかもしれません。でも、私たちはこう答えるだけです。「そうですか。確かに私には欠点があります。弱さもあります。でも、イエス様が私を覆ってくださいます。私はイエス様の救いの中に生かされているのです。神様の一方的な恵みの中で生かされているのです」と告白することができるのです。

(2)神のために実を結ぶ

 パウロは、4節で、「あなたがたは、死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになる」と書いていますね。
 死者の中からよみがえった方、つまり、イエス・キリストと結ばれているなら、神様に喜ばれるような実を結ぶことができるというのです。ヨハネの福音書15章5節でイエス様はこう言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」キリストにつながっていると、キリストのいのちや愛や恵みが私たちの内に流れてきます。そうすれば、自然に神様のための実を結ぶようになるのです。それは、どんな実でしょうか。ガラテヤ5章22節ー23節にこう書かれています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」このリストを見ただけでも、イエス様が主人であることによって、人生がどんなに豊かになるかが分かると思います。
 クリスチャン生活は、決して平坦というわけにはいきません。順調な時ばかりではないのです。台風が来ます。寒さ、暑さもあります。そして、枯れてしまいそうな状況になることもあるのです。しかし、キリストにつながってさえいれば、たとえ、表面的には枯れたように見えることがあったとしても、私たちの内には、キリストのいのちが流れているのです。ですから、目の前のことに悩み、振り回されとしても、イエス様に委ね、信頼して歩んでいってください。

(3)新しい御霊によって仕えている

 そして、今日の箇所の最後にパウロは、「古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」と書いていますね。
 「古い文字」とは律法のことです。律法に仕えるのは、苦しいものです。律法は「神を愛しなさい」「自分と同じように隣人を愛しなさい」と教えます。しかし、私たちは、そうしようと思っても、そうしたいと願っても、できない自分を見いだすのです。しかし、イエス様の花嫁である私たちの内には、聖霊が宿ってくださっています。聖霊が私たちに神を愛する思い、自分や隣人を愛する思いを起こさせてくださるのです。聖霊が私たちを成長させ、最終的にイエス様に似たものと変えてくださるのです。

 さて、パウロは、今日の箇所で、律法とイエス・キリストを二人の夫にたとえて説明していました。律法を夫にしている生き方と、イエス様を夫としている生き方の二つがあるというわけですね。私たちは、両方に仕えることができますか。両方に仕えたら重婚罪ですね。それは、決して望ましい本来の生き方ではありません。かえって苦しくなる生き方なのです。
 私たちは、時々、心の中から自分を責めるいろいろな声を聞くでしょう。自分の行動に失望してしまう弱さを見い出すことがあるかもしれません。でも、そんなとき、あなたが置かれている場はどこかを思い出していただきたいのです。あなたの主人は誰なのかを思い出すのです。恵みとまことに満ちておられるキリストこそ、私たちの主人なのです。
 もちろん、キリストは、私たちがさらに良い実を結ぶことができるように、刈り込みをなさることもあります。時には、戒めたり、あえて困難を経験させたりなさることもあるでしょう。しかし、反省すべきところはきちんと反省し、改めるべきことは改め、学ぶべきことを学びながら、キリストにつながっていることを常に思い起こしつつ、勇気をもって進んでいきましょう。そして、古いこだわりを捨て、身軽になって、キリストのいのちをたっぷりと受けながら、豊かな実を結ぶ者へとさらに変えられていきましょう。