城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一〇月二五日           関根弘興牧師
             ローマ人への手紙九章一節〜一八節
 
 ローマ人への手紙連続説教22
  「パウロの心の痛み」
  
 1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。5 父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。 6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」10 このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、12 「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。 14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。(新改訳聖書)
  
 今日からローマ人への手紙の9章に入ります。前回の8章の終わりで、パウロは、「だれもキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。私たちは圧倒的な勝利者だ」と力強く、喜びと確信を持って語っていました。ところが、この9章に入ると、雰囲気も内容も急に変わります。
 実は、この「ローマ人への手紙」は、大きく三つに分けられます。まず1章から8章は、イエス・キリストによって与えられる「救い」について体系的に教えている箇所です。次の9章から11章は、「神の民イスラエル」の問題について書かれています。そして、最後の12章から16章は、「クリスチャンは、どう生きるべきか」という実際の生活や倫理の問題が扱われていまるのです。つまり、今日から始まる9章から11章までは、「神の民イスラエル」がテーマになっているわけですね。詳しく見ていきましょう。
 
1 パウロの心の痛み
 
 まず、2節で、パウロは「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と訴えています。パウロの悲しみ、心の痛みとは何だったのでしょうか。
 それは、パウロの同胞であるイスラエル人たちのことでした。彼らは旧約聖書を小さい頃から学び、旧約聖書が約束している救い主を待ち望んでいました。しかし、イエス様がその救い主であることを認めようとはしませんでした。そんな彼らの姿を見るたびに、パウロの心は痛んだのです。
 昔、モーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させ、荒野を旅している途中のことでした。神様はモーセに、シナイ山に登るようにお命じになりました。モーセはシナイ山で四十日四十夜過ごし、十戒を授かりました。その間、麓で待っていたイスラエルの民は、モーセの帰りが遅いので不安になってきました。そこで、モーセの兄アロンに、「私たちを導く神を造ってください」と懇願したのです。アロンは、彼らから金の耳輪を集めて、金の子牛の像を造りました。すると、彼らは、その金の子牛の像の前に祭壇を築き、礼拝し、戯れ始めたのです。
 神様はモーセに言われました。「さあ、すぐ降りて行け。あなたの民は堕落してしまったから。わたしは彼らを絶ち滅ぼす。」しかし、モーセは、神様に嘆願して言いました。「神様。彼らの罪を赦してください。もしも、赦してくださらないなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32・32参照) モーセは、「この民が救われるなら、自分は滅んでもかまわない」と告白したのですね。
 パウロも3節で同じような告白をしています。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(2-3節)
 モーセの心とパウロの心には共通点があります。「自分さえ神様に祝福されていればそれでよい」というのではなく、「仲間が神様に祝福されるためなら、自分はどうなってもかまわない」という思いを持っていたのです。パウロは、この手紙を書きながら、あらためてキリストの恵みの大きさ、深さ、高さに驚嘆していました。だからこそ、同胞のイスラエル人たちもその恵みを知ってほしいと切実に願っていたのです。
 イスラエル人は、旧約聖書を持っています。神様から与えられた契約も律法もあります。神殿で礼拝もしています。先祖たちが神様に従うことによって祝福されたことも知っています。そして、救い主イエスも、人としてはユダヤ人としてお生まれになりました。ですから、彼らが求めさえすれば、すぐに救い主を見いだすことのできる絶好の環境にあったわけです。それなのに、キリストを否定し続ける多くの同胞の姿に、パウロは心が引き裂かれるような痛みを感じていたのです。
 
2 神の選びの計画
 
 それと同時に、パウロは神様がずっと以前に語ってくださった祝福の約束のみことばは、決して無効になることはないと確信していました。それは、神様が御自分のお選びになった者たちを祝福してくださるという約束です。11節に「神様の選びの計画の確かさ」と書かれていますが、神様には、祝福を受け継がせるために誰を選ぶかという御計画があって、その御計画は必ず実現するのだ、とパウロは確信していたのです。
 「イスラエル」とは、「神様に選ばれた民」であることを示す名前です。イスラエル人たちは、自分たちこそ神様に選ばれた者だと誇り、異邦人を神の祝福を受けられない者たちだと見下していました。しかし、実際には、せっかく与えられた救い主であるイエス様を信じず、神の祝福を受け取ろうとしていないイスラエル人がたくさんいたのです。
 それについて、パウロは、6節で、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない」と書いていますね。肉的には、イスラエル民族であるからといって、みなが神様の祝福を受けるために選ばれているわけではない」というのです。
 また、7節では、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではない」と書いていますね。アブラハムはイスラエル民族の最初の先祖で、神様は、アブラハムの子孫に祝福を与えると約束なさいました。ですから、「アブラハムの子」と言えば、「神様の祝福を受ける人」という意味があるのです。イスラエル人はみな肉的には、アブラハムの子孫です。しかし、それだけで、神様の祝福を受けるために選ばれたアブラハムの子どもになるわけではないのだ、とパウロは言うのですね。そのことを、パウロは、旧約聖書の二つの出来事を挙げて説明しています。
 
(1)イサクから出る者
 
 まず、7節ー9節で「イサクから出る者」について書かれています。「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」というのは、神様がアブラハムに言われた言葉です。
 神様は、アブラハムに「あなたに多くの子孫を与える」と約束なさいましたが、アブラハムには子どもがいませんでした。妻のサラは年を取っていて、子どもを産むのは不可能に思えました。そこで、アブラハムは、当時の習慣に従って、サラの女奴隷ハガルに子どもを産ませ、イシュマエルと名付けました。このイシュマエルに神様の祝福の約束を受け継がせようとしたのです。ところが、神様は、「あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17・19)と言われたのです。そして、その神様のことばのとおり、アブラハムが百歳、サラが九十歳になった時、もはや子どもなどできるわけがないと思われた時に、イサクが生まれたのです。
 この出来事について、パウロはガラテヤ4章23節で、こう説明しています。「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。」イシュマエルは、アブラハムが考えた人間的な方法で生まれた子ども、つまり「肉によって生まれた子ども」でした。一方、イサクは、人間的には不可能なのにもかかわらず、「神様の約束によって生まれた子ども」というわけです。このイサクが、アブラハムに与えられた神様の祝福の約束を受け継いでいくことになりました。
 
(2)ヤコブの子孫
 
 そのイサクがリベカと結婚して、今度は双子が生まれました。兄のエサウと弟のヤコブです。普通なら、イサクの跡継ぎは兄のエサウのはずですね。ところがそうはなりませんでした。神様は、エサウではなく弟のヤコブを選ばれたのです。
 エサウは狩人でした。野山を駆け回り、獲物を仕留めて来るのです。弟のヤコブは、「穏やかな人となり、天幕に住んでいた」と書かれています。ある時、ヤコブが豆の煮物を煮ていると、兄エサウがお腹をすかせて狩りから帰ってきました。エサウが煮物を食べさせて欲しいと言うと、ヤコブは「あなたの長子の権利をくれるなら、この煮物をあげてもいいですよ」と答えました。すると、エサウは、「長子の権利なんか、腹の足しにもならない」と言って一杯の豆の煮物と引き替えに、大切な長子の権利をヤコブに売ってしまったのです。(創世記25章)
 なぜエサウはこんな愚かなことをしたのでしょう。「この弟なら、いつでも長子の権利など取り戻せる」と考えていたのかもしれません。または「どうせこの家は自分のものになる。ここで口約束したからって、どうってことないさ」と考えていたのかもしれません。エサウは、行動的ではありましたが、神様の祝福を受け継ぐ長子の権利がどれほど価値のあるものかわかっていませんでした。自分の力を過信して、神様の助けなど要らないと思っていたのかもしれません。
 一方、ヤコブは、ずるがしこいところがありました。名前からしておもしろいですね。生まれるときに兄エサウのかかとを掴んで出てきたので、「かかと」と同じ語根からきている「ヤコブ」という名が付けられたのです。また、この言葉には、「だます」という意味もありました。その名の通り、ヤコブは兄の長子の権利をまんまと奪い取ることに成功したのです。
 しかし、ヤコブは、このことで兄の恨みを買い、逃げ出さなくてはならなくなりました。そして、遠い場所にある母の兄の家に住み込んで、二十年もの間、幾多の困難を経験することになったのです。しかし、その困難の中で、ヤコブは、自分の弱さや身勝手さを知り、神様のあわれみと祝福が必要であることを学びました。「神様なしでは自分は生きていけない」ことを知ったのです。そして、やっと自分のものとなった家族や家畜を連れて故郷に帰る途中、ヤコブは神様から新しい名前を与えられました。「イスラエル」という名前です。これは「神は争われる」という意味もありますが、「神の王子」という意味もある言葉です。このヤコブ、別名イスラエルから生まれた十二人の息子たちの子孫がイスラエル民族と呼ばれるようになるのです。その後、イスラエルの国が南北に分裂し、それぞれ敵国に滅ぼされ、南のユダヤ地方の人々だけが正統的なイスラエルの子孫として残ったので、新約聖書の時代には、ユダヤ人と呼ばれることが多いのですが、彼らにとって「イスラエル人」という呼び方は、「神様の祝福を受ける者」という特別な意味がありました。
 
(3)本当のイスラエル人
                          
 イスラエル人は、神様によって選ばれたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫です。しかし、それだけでは本当のイスラエル人とは言えない、とパウロは言います。アブラハムの子どもの中のイサクが選ばれ、イサクの子どもの中のヤコブが選ばれたように、神様によって選ばれることが大切だというのです。
 逆に言えば、肉体的にはイスラエル人でなくても、神様の約束によって選ばれれば、神様の祝福を受け継ぐことができる本当の意味での「イスラエル人」になることができるということです。
 ローマ3章には、「神は、ユダヤ人だけの神ではなく、異邦人にとっても神である」と書かれています。また、ガラテヤ6章16節では、イエス様を救い主として信じる人々が「神のイスラエル」と呼ばれています。国籍や民族に関係なく、イエス様を信じる人は皆、神様の祝福を受け継ぐ「イスラエル人」なのだというのですね。
 
3 神様には絶対に不正はない
 
 ところで、今日の箇所には気になる言葉がいくつか出てきます。誤解されやすい言葉なので、ここで改めて意味を確認しておきましょう。
 一つは、13節の「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉です。なんだか、神様がえこひいきしているような感じがしますね。しかも、二人が「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに」、もう神様はヤコブを選んでいたというのです。「神様はすべての人を愛しているっていうけれど、本当は、好き嫌いがあるんだ。自分の好きな人を勝手に選ぶんだ。それじゃ、選ばれなかった人がかわいそうだ」と思う人がいるかもしれませんね。また、「神様。勝手じゃないですか。あなたは勝手にこっちが良いとか、あっちが悪いとか言われるんですか」と言う人もいるでしょう。でも、本当にそうでしょうか。
 これは、神様が気ままに「ヤコブが気に入った。エサウは気にくわない」と思われたというような単純なものではありません。聖書に出てくる「憎む」という言葉は、とても誤解されやすいのですが、「神様がAを愛し、Bを憎む」という表現が使われる時、それは、「BではなくAのほうを選び取る」という意味なのです。ですから、「エサウは、けしからん奴だ。憎んでやる」ということではなくて、神様はエサウも愛しておられるのですが、「エサウを選ぶのではなく、ヤコブを選ばれた」というのです。
 また、もう一つ引っかかる言葉がありますね。18節の「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」という言葉です。これは、エジプトの王パロのことについて語られた言葉ですね。
 モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させる時に、パロに「私たちを出て行かせてください」と頼むのですが、パロは、どうしてもその願いを聞き入れようとしませんでした。そこで、神様が、ナイルの水を血に変えたり、蛙やあぶやイナゴの災害を下したり、疫病や雹で壊滅的な被害を与えたりなさるのですが、それでもパロはかたくなにモーセの願いを拒否したのです。それについて、聖書には「神はパロの心をかたくなにされた」と記されているのでのですね。それを読むと、私たちは、「神様がパロの心をかたくなにされたのなら、パロが悪いわけじゃない。神様の責任だろう」と思ってしまいますね。「神様はどうしてパロにあわれみをかけなかったのか。もしかすると、私もパロと同じかも知れない。私の心がかたくななのは、神様がそうさせているのかも知れない。そうか。神がそうさせているなら、私には責任がない」とちょっと飛躍して考えてしまう人もいるわけです。自分がかたくなな理由を神様のせいにするわけですね。
 しかし、それは全くの間違いです。神様は、すべての主権者です。すべての事柄の中に神様の主権があるのです。だから、いつも主語は「神」です。「神は何々された」です。主権者だから、そういう書き方になるのです。たとえば、「私はいついつ教会に行き、イエス様を信じ、洗礼を受けました」と普通は言いますね。しかし、聖書の世界は、神様が主語です。「神は、関根弘興を教会に導き、心を開き、神の言葉を受け入れさせ、洗礼に至らしめてくださった」となるわけです。
 「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」というのは、神様が自分勝手に、ある人をあわれみ、ある人をかたくなにされる、ということではありません。「ある人をあわれみ、ある人をかたくなにされる」ということの背後には、すべての人に自由意志が与えられ、選択の機会が与えられているという前提があるのです。人は、自分で自分の道を選び取ることができ、また、選び取った結果を受けるのです。それを、神様が主権を持って許容してくださっているということなのです。
 パロの場合も、「神はパロの心をかたくなにされた」と記されていますけれども、神様は何回もパロが心を変えるように機会をお与えになっています。それでも、パロは拒み続けたのです。
 神様のあわれみは広く、大きく、深いのです。神様は、すべての人を愛し、すべての人にイエス・キリストによる救いを提供してくださっています。もしその救いを受け取ったら誰でも「選ばれたイスラエル人」として祝福を受け継ぐことができるのです。だからこそ、私たちは、与えられた機会を大切にして、自分の意志を持って選び取っていく必要があるのです。神様は決してえこひいきをなさる方ではありません。求める者には必ず与えてくださる方だからです。
 だからこそ、パウロは同胞に対して、「自分たちの歴史から学んでほしい。神様の約束が基にあったではないか。心をかたくなにしていては何も生まれない。今の機会を十分に生かしてほしい。神様が与える救いを受け取って欲しい」と訴えているのです。
 私たちは、神様に選ばれ、神様の祝福を受け継ぐ者としていただいたことを感謝しつつ、今週も神様の約束を信頼して歩んでいきましょう。