城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年二月七日              関根弘興牧師
            ローマ人への手紙一四章一節〜二三節
 
 ローマ人への手紙連続説教32
    「愛の配慮」
 
 1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(新改訳聖書第三版)
 
 今日は、14章全体を見ていきましょう。
 まず、今までの内容を振り返ってみたいのですが、私たちは皆、キリストのからだの一員であり、器官です。それぞれが大切であり、不要なものなどありません。ですから、互いを自分よりすぐれた者と思う謙遜さを持つこと、相手の立場にたって「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」こと、互いに希望をもって忍耐強く励まし合い祈り合うことが大切であることを学びました。また、善を持って悪に打ち勝つという勝利の方法があることも学びました。そして、先週は、「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に」という原則に沿って社会生活を営んでいこうとお話しました。私たちは、社会の一員としての責任と義務を果たしつつ、神のものは神に返すという大切な信仰の姿勢を保ちながら歩む者とされているのですね。
 ところが、それぞれの背景の違いや信仰の理解の仕方によって、教会の中がぎくしゃくしてしまうことがあったのです。ローマ12章3節に「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」とありますが、どうも、ローマ教会の中には、思うべき限度を超えて思い上がっている人や、14章1節にあるように、信仰の弱い人をさばいている人たちがいたようです。その結果、教会の雰囲気が冷たく喜びのないものになってしまい、居心地の悪い場所になってしまうということが起こっていたようです。
 そこで、パウロは、今日の14章で、クリスチャンが備えなければならない大切な「他者への配慮」について記しています。
 当時のローマの教会には、様々な人が集まっていました。その中には、ユダヤ教から改宗してクリスチャンになったユダヤ人たちもいました。彼らは、幼い頃から旧約聖書にある戒めを大切に守ってきた人たちです。例えば、レビ記11章には、食べてよいきよい動物と食べてはならない汚れた動物の規定があります。彼らは、その規定に沿った食生活をしていました。
 ところで、なぜ神様は、そのような食物の戒めをお与えになったのでしょうか。それは、「神様の聖さ」ということを体験的に教えるためのものでした。聖いものと汚れたものを区別することを実際の生活の中で行うことによって、神様の聖さとは、決してあいまいなものでなく、きちんと区別されるべきものだということを体験的に学ばせるためだったのです。
 そして、それは、聖なる神様が罪によって汚れた人間をそのままの状態で受け入れることは決してできない、ということを教えるためでした。人が神様に受け入れられるためには、罪の問題を解決し、きよい者となる必要があるのです。しかし、人は自分の力で自分を罪のないきよい者とすることはできません。そこで、人々は救い主の到来を願い求めるようになったのです。 神様は、私たちの罪を赦し、きよいものにするために、御子イエスを遣わしてくださいました。聖なる神の御子イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったので、私たちは、イエス様を信じるだけで、罪のないきよい者、神様に受け入れられる聖なる者と認められるようになったのです。ですから、イエス様を信じてクリスチャンになった人々は、もはや旧約聖書の戒めに縛られる必要はなくなりました。
 しかし、長い間、ユダヤ教の中で育ってきた人たちは、クリスチャンになってからも、食べてはいけないとされる動物の肉を食べることに抵抗を感じていました。旧約聖書の規定では、牛肉は食べられますが、豚肉は駄目です。うろこのある魚は食べられますが、ウナギは駄目です。そういう戒めが身についていたわけです。また、特にローマのような異教の社会では、異教の神殿にささげた肉が市場で売られている場合がありました。それで、市場の肉は汚れているかもしれない、ということで肉はいっさい食べずに野菜だけ食べる人たちもいたのです。
 余談ですが、私は高校時代、昼は大抵パン食でした。すると、クラスメートは、「やっぱり関根はクリスチャンだから、パンを食べているんだな」と言うんです。ある時、珍しく弁当を持っていったのですが、その弁当には我が家では珍しく肉が入っていたんですね。そしたら、クラスメートがやって来て、「大変だ。関根が肉を食べてるぞ。クリスチャンでも肉を食べんのけ?」って言うのです。もちろん食べますよね。私たちは何を食べようが自由ですからね。イエス様は、マルコ7章で「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません」と言って、すべての食物はきよいとされました。ですから、パウロも今日の箇所の20節で「すべての物はきよい」と言っていますね。先ほどお話ししたように、イエス様を信じる人は、すでに聖なるものとされたのですから、宗教的な食べ物の戒めを守ることはもはや必要ないのです。
 ですから、ローマ教会の中には、平気で肉も食べる人もいました。そして、肉を食べない人に対して、「あいつは福音がまったくわかっていない。イエス様は『すべての食物はきよい』とおっしゃったではないか。何を食べても自由なのに!」とさばく人がいたというのです。逆に、肉を食べない人は、食べている人を「あの人たちは全く良心が汚れている」と言ってさばいたり、卑屈になったりしていました。食べ物のことで、教会に本来あるはずの麗しい暖かさが失われていったのです。
 それは食べ物だけにとどまりませんでした。暦の中で、ある日を特別な日と考えて大切にする人がいました。それに対して、「どの日も主が造られた日なのだから毎日が同じように大切だ」と考える人もいました。そして、その両者がお互いにさばき合うようになっていったというのです。
 キリストのからだである教会を破壊するものは何でしょう。それは、さばき合うことです。人をさばくということは、「自分は正しい。よく知っている。しかし、あの人は、間違っている。わかっていない」という自分の思うべき限度を超えた思い上がりがあるのです。
 皆さん、私たちは同じ信仰を与えられていますが、それぞれの背景はみな違います。信仰の年数も理解の仕方や度合いも違います。考え方、感じ方もそれぞれです。ですから、パウロは、「互いにさばき合うのではなく、互いに愛の配慮をしていこう」と勧めているのです。パウロは、特に、教会の中でも信仰年数の長い先輩のクリスチャンたちに、この愛の配慮を求めているようです。
 私たちは気をつけないと、自分の慣れ親しんだ伝統や慣習などで人を型に押し込めようとすることがあります。また、自分と意見や考え方の違う人を無理矢理矯正したり排除したくなることもあります。本当に些細なことで人をさばいてしまうことがあるのです。
 「使徒の働き」の6章には、初代教会で最初に起こった問題が記されています。それは、神学的な問題だったでしょうか。信仰上の重大な問題だったでしょうか。いいえ、なんと、食事の配給に関する問題でした。一部の人たちが食事の配給でなおざりにされていたというのです。ちょっと配慮が足りなかったために大問題に発展してしまったようです。幸い、その問題は、適切に解決することができましたが、私たちも、互いに愛の配慮をもって接するなら、不要なさばき合いもつまずきも少なくなっていくでしょう。
 さて、そこでパウロは、その愛の配慮について、三つのことを理解する必要があると語っています。
 
1 一人一人は、キリストがいのちを与えるほどに価値がある
 
 15節でパウロはこう書いています。「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」つまり、「ささいなことで相手の人生を台無しにしてはいけない」と言っているのです。
 私たち一人一人は、キリストがいのちを捨ててくださるほどに価値ある存在です。それほどまでに神様に愛されている存在です。神様御自身も「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)とおっしゃっています。それなのに、互いに「肉は食べるな」「いや、食べてもいい」「そんなふうに言われるくらいなら、もうイエス様を信じるのはやめる」、こんな風になっていくなら、それは神様にとっての大きな痛みなのです。
 私の父は牧師をしていますが、昔は大変厳しかったそうです。母も言っていました。「パーマをかけてはいけない」「映画館は悪魔の潜む場所だから行ってはいけない」と言われたそうです。私が高校生の頃は、教会でギターを弾くのを非難されることもありました。「教会でギターだって。何と世俗化した教会だ」と言われたのです。特にエレキギターなどは悪魔の楽器、ドラムは悪魔の雄叫びで、騒音以外の何ものでもないと言われていたのです。でも、キリストが死んでくださったほどの大切な人をエレキギターのことで滅ぼしたら、何と愚かなことでしょう。
 といっても、教会では何でも好き勝手にやらせましょうというのではありませんよ。秩序は必要です。音量を調整するというような配慮も必要です。また、明らかに誤っている時には、互いに戒め合うことも大切です。ただ、いつも愛の配慮をもって、相手の最善を願って戒めることが大切です。それは、自分勝手にさばいて相手を切り捨てるのとは違いますね。
 たとえ、どんなに正しいことを言っても、相手に対する愛の配慮を忘れる時、それはただの冷たいさばきの言葉にしかならないことも多いのです。
 ヨブ記を読むと、そのことがわかります。正しい人ヨブが大きな苦難に遭いました。財産を失い、家族を失い、自分もひどい病に陥ってしまうのです。大変な苦しみです。そんな時、ヨブの友人たちが見舞いにやってきたのですが、彼らは愛の配慮のない厳しい言葉で「あなたが罪を犯したから罰を受けているのだ。悔い改めなさい」とヨブを責めました。それは、ヨブには何の助けにもならないどころか、さらに苦しめただけでした。
 信仰生活においては、キリストのからだの一員として共に歩むことが大切です。しかし、時には、共に歩むことがじれったくなったり、面倒になったりすることもあるでしょう。つい歩みの遅い人を責めたくなったり、逆に、人と比べて自分の信仰が弱いように思われて卑屈になることもあるかもしれません。
 しかし、みなさん是非知っていただきたいのですが、本来、信仰に強いも弱いもありません。なぜなら、信仰はイエス様が一人一人に与えてくださった賜物なのですから。
 パウロは、1節で「信仰の弱い人」という表現をしていますが、この「弱い」と訳される言葉は、「病気」という意味の言葉です。つまり、与えられた信仰が、理解が不足していて成長不良だったり機能不全になってしまっているということです。そのような人に対して、さばくのではなく、愛の配慮を持って助け、教え、受け入れていくことが大切なのですね。
 パウロが言っているように私たちの信仰理解の度合いはみな違います。でも成長しているように見えても、時には、病になりますよ。弱さを思い知らされることもあります。助け助けられ歩んでいくの信仰生活です。皆、神様を信頼して歩んでいる仲間です。それぞれの成長に合わせて必要な配慮をしていくことが大切なのです。
 13節に「兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」、19節の「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」とあります。この二つの言葉を基準にして自らの行動やふるまいを点検しながら、お互いに配慮しつつ歩んでいきましょう。
 
2 神の国は、義と平和と聖霊による喜びである
 
 そして、パウロは、17節で「神の国は、義と平和と聖霊による喜びだ」と言っています。
 「神の国」とは、いったい何でしょう。それは、「神様が支配しておられる場所」ということです。イエス様は公生涯の初めに、開口一番こう言われました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)。それは、「神様があなたの人生を支配してくださる、そういう人生が到来するのだ」ということです。
 そして、その神の国の特徴は、義と平和と聖霊による喜びだというのですね。「義」とは、繰り返しお話ししているように、神様とのまっすぐな関係のことです。罪とは、神様との関係が破壊され、ずれてしまっている状態を意味しています。私たちは皆、その罪の状態にいましたが、イエス様の十字架と復活によって、神様との関係が回復し、神様との親しい関係の中で歩むことができるようになりました。神様に愛され、受け入れられ、また、自分の内に聖霊が住んでいてくださることを自覚して生きていくとき、平和が生まれ、喜びが湧いてくるのです。
 そういう一人一人が集められた教会の特徴も、義と平和と喜びです。もし、教会からその特徴が失われていたら、どうして失われているのかを考え、それぞれのあり方を反省する必要もありますね。
 
3 信仰から出ていないことは罪である
 
 それから、22節、23節でパウロはこう言っていますね。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」
 私たちは、自分の信仰を人と比べる必要はありません。神様に信頼していく中で、神様が自分にふさわしい歩み方を示し、導いてくださることを信頼していけばいいのですね。神様の御前で平安があり、自分が納得できるならば、進んでいけばいいのです。パウロは12章3節に「その与えられた信仰によって、お互いに慎み深く判断しなさい」と書いていましたね。それぞれの信仰に応じて、身の丈に合った判断をしながら行動することが大切なのです。
 その一方で、もし何かをするときに、疑いを感じるなら、つまり、平安が持てず、心から納得できないなのに、無理にやろうとしたら、それは罪に定められるというのですね。いったいどういうことなのでしょうか。
 これまで、パウロは、食べ物や暦のことで他の人をさばいてはいけないと記していましたが、実は、もう一人さばく者がいるのです。それは、自分自身です。
23節に「疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます」とありますが、この「罪に定められる」とは、「有罪としてさばかれる」という意味です。つまり、自分自身で疑いながら何かをしていくとき、結局、自分で自分をさばいて苦しめてしまうということが起こるということです。つまり、何か神様に対して明らかに罪とされる悪を行ったということではなく、疑いながら、良くないなと思いながら何かを行うなら、結局、そのことが自分の中に罪意識をもたらし、自分をさばき、自分自身を不自由にしてしまう、ということなのです。そして、その結果、神様に後ろめたい感情を抱くようになり、神様との親密な関係が傷つくことにもなるのです。
 疑いを感じるかどうかは、日常生活の中で大きな判断基準となります。私たちの毎日は様々な行動を選択することが求められるからです。もし、疑いを感じながら、「これは良くないな」と思いながら行動するなら、結果的に自分を苦しめることになりかねません。良いのか、良くないのか、迷う時には、聖書の判断を仰ぎながら、神様の御前で平安があるかどうかを確認することが大切です。その上で、自分の意思で「これでいこう」と決めて進んでみましょう。その時に、「もし違っていたら教えてください」と祈りつつ、神様に委ねて進んでいくのです。もし間違っていたら、神様は必ず何らかの方法で教えてくださるでしょう。そして、その間違いさえも益に変えてくださるでしょう。そういう経験を積み重ねていく中で、私たちの信仰に生きることのコツのようなものを知り、慎み深い判断ができるようになっていくのです。
 私たちは愛の配慮を持ちつつ、自分が良いと認めたことを行動していきましょう。それは、人によって違う行動になるかもしれません。しかし、そのことに対して互いにさばき合う必要はないのです。
一人一人が与えられた信仰の量りに応じて、慎み深く、神の国の一員として、愛の配慮を持って歩んでいきましょう。私たちは、キリストが代わりに死んでくださったほど尊い一人一人なのですから。麗しいキリストの姿が形造られるために、神様の支配の中で、義と平和と聖霊による喜びがさらにあふれていくことを期待していきましょう。