城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年二月二八日             関根弘興牧師
          ローマ人への手紙一五章一四節〜二一節
 
 ローマ人への手紙連続説教34
    「確信と誇り」
 
 14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。15 ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。16 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。17 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、19 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。20 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。21 それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、15章の前半から学びました。神様は、「忍耐と励ましの神」であり、また、「望みの神」であると書かれていましたね。神様は、弱く欠けの多い私たちを忍耐をもって導き、励まし、希望を与えてくださる方です。だから、私たちも、互いに弱さを補い会いながら、心を一つにして神様を見上げ、賛美していこう、そして、信じる私たちの内に住んでくださる聖霊の力によって神様の愛に満たされながら、喜びと平安を持って歩んでいこう、という内容でした。
 今日は、その続きの15章の後半です。ここには、パウロがローマ教会の人々について期待し、確信していること、そして、パウロが自分自身をどのように自覚しているかということが書かれていますね。それぞれについて見ていきましょう。
 
1 パウロの確信
 
 前回お話ししましたように、ローマの教会には、様々な背景の人々が集まっていました。ユダヤ教から回心したユダヤ人もいれば、世界各地から集まってきた異邦人もいました。それぞれ、育った環境や生活習慣や考え方が違います。そのため、いろいろな問題が起こっていました。
 たとえば、食べ物のことでは、ユダヤ人クリスチャンの中には、旧約聖書の食べ物に関する規定をきちんと守ることが神様を敬うことであると考えている人がいました。その一方では、食べ物はすべて神様が与えてくださったのだから何でも食べていいのだと考える人もいました。そして、お互いにさばき合って、ぎくしゃくした関係になっていたわけです。
 そういうローマ教会の人々に対して、パウロは、前回の15章の最初にこう書いていましたね。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
 信仰とは、ただ自分を喜ばせるだけの自己満足ではありません。自分の考え方を押し通すことに熱心なあまり他者に対して配慮を欠いてしまうなら、それは決してイエス様の心ではありません。お互いの立場を思いやり、お互いに愛の配慮をもって接していくことが大切だと教えたのです。
 そして、パウロは、さらに、今日の箇所の14節で、こう書き送っています。「あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを確信しています。」
 ここで、パウロは、ローマ教会の人々について三つのことを確信していると書いていますね。
 
(1)善意にあふれる
           
 まず、「善意にあふれ」というのは、どういうことでしょうか。
 ルカ6章27節で、イエス様は、こう言われました。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」
 この「敵」とか「あなたを憎む者」という言葉を聞くと、信仰を理解しない人、迫害をしてくる人など、教会の外部の人たちをイメージすることが多いかもしれません。
 しかし、イエス様の言われる「敵」とか「あなたを憎む者」というのは、以前から何度もお話ししていますように、基本的には「自分と立場の違う人」を指しているのです。ちょっとした考え方の違いがある人、捕らえ方の違う人、意見の違う人、生活スタイルの違う人など、そういう「自分と立場の違う人」なら教会の中にもたくさんいますね。私たちは、そういう人たちに対して、ほんの些細なことでさばいたり、悪意すら持ってしまうことがあるのです。
 皆さん、私たちは、お互いの「違い」を数え上げたらきりがありません。しかし、その違いのゆえにさばき合い、攻撃し合うのでなく、お互いの違いを認め合い、相手を尊重し、相手の最善を願い、善を行っていくことが大切です。「あなたがたは、神様に赦されて、愛されているクリスチャン同士なのだから、それができると確信している」とパウロは言っているのですね。
(2)すべての知恵に満たされる
 
 次に、「すべての知恵に満たされ」とありますね。
 善意にあふれることは、大切です。でもそれだけでは十分ではありません。善意という感情を持つだけでなく、相手にとって何が最善なのかを判断する「知恵」が必要なのです。では、その「知恵」とは、どのようなものでしょうか。
 ヤコブ1章5節に、こう書かれています。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」
 私は高校時代にこの箇所を読んで、何と素晴らしい言葉かと思いましたね。そして、テスト前に、勉強しないで、一生懸命にこう祈りました。「主よ、明日はテストです、知恵の欠けた者ですので、知恵を与えてください」と。でも、祈りの効果はほとんどありませんでした。テスト結果を見て、「神様に知恵を願ったのに、与えられなかったじゃないか」と文句を言った覚えがあります。でも、実は、私が考えていた「知恵」は、聖書が教えている「知恵」とは違っていたのです。
 ヤコブ3章15節にこう書かれています。「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」
 「上からの知恵」というのは、神様が与えてくださる知恵ということです。その知恵は、第一に「純真」だとあります。これは、動機が何かが問われているわけですね。勉強はしないでテストでいい点が取れるようにというのは、そもそも純真とはほど遠いですね。また、「上からの知恵」は、「平和、寛容、温順であり」とありますね。つまり、他者を認め、受け入れることのできる包容力を備えるものだというわけです。また、また、「あわれみと良い実に満ち」とありますから、他者のために最善のことを行うためのものであり、「えこひいきがなく、見せかけのないもの」ですから、公正さ、誠実さのためにも必要なものなのです。
 では、その「上からの知恵」に満たされるためには、どうしたらいいのでしょうか。聖書には、こう書かれています。
 「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2章3節)
 「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(第一コリント1章24節)
 つまり、知恵に満たされるとは、イエス・キリストに似た者とされていくということです。そして、そのために、神様は、助け主である聖霊を一人一人に遣わしてくださいました。
 聖霊は、聖書の言葉を通して、キリストの姿を私たちに示してくださいます。ですから、聖書の言葉に親しむことは、とても大切なことです。
 また、聖霊は、私たちの内に住み、私たちをキリストに似た者へと変えていってくださいます。これまでも何度も引用した箇所ですが、第二コリント3章18節にこう書かれているとおりです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 「すべての知恵に満たされる」とは、私たちの生活の全領域にイエス様の知恵が与えられるということです。そして、パウロは、信じる一人一人の内に与えられている聖霊のみわざを信頼し、期待して、「そうなることを確信しています」と言っているのです。
 
(3)互いに訓戒し合うことができる
 
 そして、「互いに訓戒し合う」とありますが、この「訓戒」と訳されている言葉は、「諭す」「忠告」とも訳せます。この言葉は、二つの言葉からできています。「ヌース」(心、理性、知力、判断)と「ティセーミ」(置く)という言葉の合成なのです。つまり、「訓戒する」というのは、上から目線で一方的に教え諭すということではなく、相手の心に自らを置き、何が最善かを理解していくことです。
 ですから、訓戒するためには、順番が大切です。まず、善意を持つことが必要です。善意を持たずに語るなら、それは、単なる非難、叱責となってしまいます。それから、知恵を求めるのです。相手の状態を理解し、相手にとって今何が必要かを見分け、相手の最善が何かを判断する知恵です。その上で、互いに訓戒し合うのです。
 
 パウロは、ローマ教会の人々が「善意にあふれ、すべての知恵にみたされ、また互いに訓戒し合うことができる」ようになることを願っていました。それは、神様が私たちに対して接してくださる時の姿でもあるからです。
 私たちの神様は、真実で善意あふれる神様です。神様に敵対しているような私たちに対して、忍耐し、考えられないような大きな愛をイエス・キリストを通して示してくださいました。 また、神様は、いつも私たちの最善のためにみわざを行ってくださいます。えこひいきなどありません。神様の知恵は、私たちには量り知ることができない完全なもので、イエス・キリストの中に豊かに表されています。
 そして、神様は、私たちを愛しておられるからこそ、戒めることもなさるのです。
 ヘブル12章5ー7節、11節には次のように書かれています。「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。・・・すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
 このような神様の子とされた私たちも、同じような関係を互いの間に築いていくことができる者とされているのです。
 教会だからといって、何の問題もないということはありません。もしそう思うなら、大きな誤解です。しかし、パウロは、ローマ教会のことを思うとき、多少問題があっても、善意にあふれ、豊かな知恵に満たされ、互いに戒め、励まし合うことのできるうるわしい共同体になることを確信している、と記しました。わざわざ「確信」という強い言葉を用いて、教会の将来を見ていたのです。
 私たちも、今日、同じように確信しましょう。今は不十分でも、知恵の欠けた者であっても、イエス様は私たちと共にいてくださいます。私たち一人一人を神様は喜んでくださっています。ですから、私たちは聖書が与える知恵に生かされ、聖霊の助けを受けながら、互いに訓戒し、励まし合いつつ、恵みあふれる教会とさせていただくことを確信していきましょう。
 
2 パウロの自覚
 
 さて、パウロはローマ教会への願いと確信を記した後、この手紙を書き終えるにあたって、自分自身の姿をローマの教会の人々に示しています。パウロは自分がどのような者だと自覚していたのでしょうか。
 
(1)キリストの仕え人
 
 まず、パウロは、16節にあるように、自分が神様の恵みによって「異邦人のためのキリストの仕え人」となったということを自覚していました。
 パウロは、以前は、熱心なユダヤ教徒で、キリストを否定し、クリスチャンたちを迫害していました。また、「ユダヤ人は神に選ばれた民だけれど、異邦人は、神を知らず、神の愛を受けるに価しない存在だ」と考えていたのです。
 そのパウロが、キリストとの出会いによって劇的に変わりました。そして、今では、異邦人のためにキリストの仕え人となっていると記しているのです。なんという変革でしょう。
 パウロは、今の自分があるのは、ただ神様の一方的な恵みによるのだということをよくわかっていました。御子イエス・キリストに激しく敵対していたパウロを、神様が赦し、招き、新しいいのちによって生きる者へと変えてくださったのです。そして、神様は、パウロに異邦人のために仕える使命をお与えになりました。パウロと異邦人と間にあった隔ての壁を取り除いてくださったのです。パウロは、「異邦人かユダヤ人かはまったく問題ではない。私たちは主にあって一つとされているのだ」と公言する者になりました。
 ところで、パウロは、自分を「仕え人」と言っていますが、この「仕える」というのは、すべてのクリスチャンの特徴の一つです。私たちは、それぞれがキリストのからだの器官です。どの器官も必要で、互いに仕える心をもって、自分の役割を果たしていくとき、からだの健康が保たれます。もし何かの器官が自分勝手なことを始め、仕えることをやめたら、とたんに具合が悪くなります。からだが破壊され始めるのです。ですから、互いに仕え合うことは、とても大切なことなのです。
 そして、パウロは、17節で神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです」と記しています。神様に仕えることの中には、平安と喜びがあります。神様は愛と恵みに満ちた方だからです。神様に仕えている限り、決して裏切られることはありません。途中解雇も、首切りもありません。時には困難や悲しみがあるかもしれませんが、その中で愛や誠実や忍耐が育まれていきます。ですから、パウロは、どんな時にも、神様に仕えているという誇りを決して失いませんでした。
 また、パウロは、ピリピ3章3節では 「キリスト・イエスを誇っている」とも記しています。
 パウロには、学歴、家柄、宗教的熱心、社会的地位など、この世で誇ることの出来るものがたくさんありました。しかし、彼は、「それらをちりあくたと思っている」と書いています。キリストを知ることの素晴らしさに比べたら、この世の栄誉は無に等しいというのです。「私たち自身には、何も誇るものはない。しかし、胸を張ってイエス・キリストを誇りなさい」とパウロは大胆に記しているのですね。
 そして、パウロは、コリント人への手紙の中で「自分の弱さを誇る」とも記しています。普通、自分の弱さは、恥ずかしく、人に見せたくも知られたくもないものですね。しかし、パウロは、躊躇することなく「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語っています。
 パウロは、神様に仕えていることを誇り、自分を導いてくださるキリストを誇り、弱い自分自身さえも誇っているのです。これが、パウロの生きる秘訣だったのですね。
 
(2)キリストに用いられた者
 それから、18節でパウロはこう書いています。「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。」
 パウロは、素晴らしい働きをした人です。パウロの働きを通して、多くの人がキリストを信じ、各地に教会が生まれていきました。また、新約聖書の中の手紙の多くはパウロが書いたものです。普通なら、自分の功績を誇っても当然のように思えますね。しかし、パウロは、「自分がこれだけのことをやった」と誇ることは一切ありませんでした。「すべては、私の功績ではなく、キリストが私を用いて成し遂げてくださったのだ」という意識を持っていたのです。とても爽やかですっきりした生涯ですね。
 皆さん、私たちも何かを成し遂げることがあったなら、「主が私を用いてくださったのです」と告白する者でありたいですね。
 
(3)福音を宣べ伝える者
 
そして、パウロは、2021節にこう書いています。「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる』」
 パウロは、まだ福音が伝えられていない地域に何とかして福音を伝えたいという情熱を持っていました。誰もキリストを知らない所に福音が宣べ伝えられ、その地域の人々がイエス様によって救いを与えられ、人生が変えられていくのを見ることを願って進んでいきました。
 日本では探検家として有名な、アフリカに行った宣教師リビングストンという人がいます。彼が宣教師として志願したとき、「あなたはどこへ行きたいのか」と質問されました。すると、彼はこう答えたそうです。「前進できる限りどこまでも。」
 パウロも同じ情熱を持っていました。彼は、自分の目的を説明するために、21節で、旧約聖書のイザヤ書52章15節を引用しました。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」パウロの願いは、一人でも多くの人が、イエス・キリストによって示された神様の愛と真実を見ることができ、イエス・キリストの福音を聞いて信じることができるようになることでした。
 パウロは、16節で「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしている」と語っています。祭司は、神様と人との仲介をする役割を担っています。パウロは、まさに、この務めを担い、世界各地に出かけていきました。
 今日、私たちも、キリストの福音を分かち合う務めを神様から委ねられています。決して気負う必要はありませんが、忍耐と善意と知恵をもって、キリストの仕え人として歩んでいきましょう。