城山キリスト教会 礼拝説教          
二〇二一年八月二九日             関根弘興牧師
              使徒の働き五章一二節〜三二節
 使徒の働き連続説教6
    「神に従う」
 
 12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。15 ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。17 そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、18 使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。19 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、20 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。21 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。22 ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。23 「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」24 宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。25 そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」と告げた。26 そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。人々に石で打ち殺されるのを恐れたからである。27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、28 言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。30 私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」33 彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。(新改訳聖書第三版)
 
 前回の箇所には、初代教会の内部に起こった問題が記されていましたね。教会には、互いに助け合うために自分の持ちものを売ってささげる人々がたくさんいました。アナニヤとサッピラの夫婦も自分たちの土地の代金をささげに来ました。ただ、そのささげ方に問題がありました。彼らは、代金の一部を自分たちのために取り分けておいたのに、それを隠して「全額ささげます」と嘘を言ったのです。自分の持っているものをどのように使うかはそれぞれが自由に判断すればいいのですから、アナニヤ夫妻が代金の一部を取り分けておいたこと自体には問題はありませんでした。しかし、彼らは、神様の前で偽りを言ったのです。すべてをご存じの神様を欺こうとするのは愚かなことですね。神様は外側の行いよりも、心を御覧になるからです。もし教会の中にこのような偽りが入り込んできたら、教会はいのちも神様の祝福も失ってしまいます。ですから、アナニヤとサッピラは、その場で息絶えてしまうという厳しいさばきを受けることになりました。それまで、何千人もの人がイエス・キリストを信じるという素晴らしい出来事の連続に酔っていた教会にとって、これは目を覚まさせるような出来事だったでしょう。天地万物を造り、すべてを支配しておられる聖なる神様に対して、いつも誠実に、畏敬の念を持って、崇め、賛美し、礼拝していくことが大切なのですね。
 さて、それに続く今日の箇所では、こんどは外部からの問題が起こりました。問題が次から次へと起こってくるわけですが、そもそも問題の起こらない教会などありませんね。また問題のない人生もありません。もし「人生には何も問題はありません」と言っているなら、それが問題かもしれません。そうした中で、教会は、「問題がなくなりますように」と祈ったのでなく、「神様、この問題をご覧ください!」と祈りました。神様がこの状況を見ていてくださるなら、適切な時に神様の方法で解決が与えられる、しかも、神様はこの問題をも益に変えることがおできになる、と信頼していたからです。そして、教会は、「私たちが、さらに、大胆にみことばを語り、みことばに生きることができますように」と祈っていったのです。そして、神様はその祈りに答えてくださいました。
 
1 多くのしるしと不思議なわざ
 
 12節に「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた」とありますね。16節には、「また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まってきたが、その全部がいやされた」と書かれています。すごいですね。イエス様がなさっていたわざを、今では使徒たちが聖霊の力によって行うようになったのです。
 イエス様は、天に昇って行かれる前、最後の晩餐の時に、ヨハネ14章12節で、弟子たちにこう言っておられました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
 イエス様が私たちと同じ人として肉体を持っておられた時には、そのみわざの範囲は限られていましたが、イエス様が天に昇り、聖霊を弟子たちに送ってくださった今では、弟子たちを通して、イエス様のみわざがより大きな規模で行われるようになったのです。特に、使徒たちは、イエス様に選ばれ、イエス様とずっと行動を共にし、イエス様の復活を実際に目撃した者として、イエス様がまことの救い主であることを宣べ伝える使命を担っている人々です。その使徒たちの言葉が正しいことを証明するために、神様は聖霊によって、使徒たちに素晴らしいみわざを行わせてくださったのです。
 でも、使徒たちは、決して自分を誇ることをしませんでした。「病人がいやされるのは、私たちの力ではない。イエス・キリストの御名によるのです」と語り、迫害や弾圧を受けても恐れずに、イエス・キリストが救い主であることを大胆に語り続けていったのです。
 それに対して人々はどんな反応をしたでしょうか。今日の箇所には、大きく分けて三種類の人々が出てきますね。
 
2 三種類の人々
 
(1)主を信じた人々
 
 14節には、「主を信じる者は男も女もますますふえていった」とありますね。そして、12節に「みなは一つ心になってソロモンの廊にいた」と書かれています。
 このソロモンの廊というのは、エルサレムの神殿の中にある異邦人の庭の東壁に沿って造られた屋根付きの回廊です。その屋根は、等間隔で据えられた二列の大理石の円柱によって支えられていました。ヨハネ10章には、イエス様が宮きよめの祭りの時にこの場所に来て、集まってきたユダヤ人たちに対して、「わたしと父は一つです」と言われたという記事があります。それを聞いたユダヤ人たちは「イエスは神を冒涜している」と怒り、イエス様を石打にしようとしたのですが、イエス様はこう言われました。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい」。それから、美しの門で足の不自由な人が癒やされた時、ペテロたちがイエス様の復活と救いを大胆に語ったのもこの場所です。そのソロモンの廊に、イエス様を信じる人たちが「一つ心になって」集まっていたのです。
 ヘブル10章25節には「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と記されています。当時は迫害が断続的に起こっていましたが、信じる人々は共に集まって支え合っていたのです。
 今は、コロナ禍で自由に集まることができないでいますね。これまでは「是非、教会に来てください」と言っていたのに、いまは「無会衆にします」と連絡せざるをえないわけですから、とても辛いことです。先日、知らない方から電話があって、「どうして神様はコロナを自由させ、人々を苦しませるのですか」と質問されましたが、私は「わかりません」としか答られませんでした。神様のなさることには人の理解を超えたことがたくさんあります。でも、「いっしょに集まる」ことを文字通りには出来ない状況にあっても、私たちは、いろいろな方法で一つ心になって礼拝し、連絡を取り合いながら互いに励まし会っていくことができるのです。それに、今のこの経験は、将来、高齢や病気で教会に通えない時があっても、なお一つ心で礼拝できるために、神様が備えてくださったものかもしれません。この状況をも感謝しつつ共に礼拝をささげ続けていきましょう。
 
(2)弟子たちを尊敬する人々
 
 それから、13節にあるように、弟子たちの姿を遠巻きに見ながら、心の中では、弟子たちを尊敬し、好意を持っている人々がいました。イエス様が与える救いは、人生の変革をもたらします。絶望から希望へ、嘆きから賛美へ、虚しく目的のない人生から愛され満たされた人生へと変えられていくのです。
 この教会も、人々の尊敬の場となり、ここに来ると他では味わえない平安や喜びがあると噂される教会となれるように、イエス様に期待していこうではありませんか。
 
(3)反対する人々
 
 その一方で、弟子たちを敵視し、弾圧しようとする人々がいました。17節に「大祭司」とその仲間である「サドカイ派の者」とありますね。サドカイ派というのは、神殿を管理する祭司の家系に属す人々です。大祭司は、その頂点です。彼らは、ユダヤ社会の中で、宗教的にも政治的にも経済的にも特権階級でした。その彼らは、イエス様を十字架に架けた中心人物です。そして、今やイエス様の弟子たちをも厳しく取り締まろうとしていました。なぜでしょうか。
 
@自分たちの地位や立場が脅かされることへの恐れ
 
 神殿内には、ささげものの動物を売る商売人や、ささげもの専用のお金に両替する両替人がたくさんいたのですが、サドカイ派の祭司たちは、彼らから多くのリベートを受け取って私服を肥やしていました。イエス様は、その光景に怒り「あなたがたは神の家を強盗の巣にしている」と批判なさいましたね。また、サドカイ派は、死人の復活を信じていませんでした。ですから、イエス様が復活したなどとは絶対に認められないことでした。また、自分たちこそ宗教的指導者だと自負しているのに、イエス様は「あなたがたは聖書の教えを正しく理解していない」と批判されました。しかも、彼らはイエス様を十字架につける陰謀の中心にいましたから、イエスが救い主だと認めれば、自分たちの大きな罪も認めなければならないことになります。しかも、当時は、ローマ帝国の支配下にありましたが、サドカイ派はローマ帝国におもねり、自分たちの政治的地位を獲得していました。もしクリスチャンが、騒動を起こしたら、ローマ軍に制圧され、自分たちの権力も失うかもしれないと恐れていました。ですから、自分たちの地位や立場やプライドを守るために、イエス・キリストが救い主であることを絶対に認めようとはしなかったのです。
 
Aねたみ
 
 17節に彼らが「ねたみに燃えて」とありますね。彼らが使徒たちを弾圧した一番の理由は「ねたみ」だったというのです。彼らがイエス様を十字架につけたのも、「ねたみ」からでした。
 イエス様や使徒たちを通して神様の大きなみわざが行われ、多くの人々の尊敬と称賛を集めていました。大祭司やサドカイ派の人々も、それを見て神様をあがめ、イエス様を救い主として認めてもいいはずでした。ところが、彼らは、自分たちこそ神様のことを一番わかっている、自分たちこそ最も尊敬され、注目されるべきだという高慢さのゆえに、かえってイエス様や弟子たちに強烈なねたみを感じたのです。
 ねたみは、「喜ぶ者とともに喜べない」姿を引き起こしていきます。そして、聖書には、ねたみによって自らの身に滅びを招いた人々の姿がいくつも記されています。ヤコブ3章16節に「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです」とあるとおりです。私たちは、ねたみに支配されないように気をつけなければなりませんね。
 
3 主の助けと命令
 
 さて、宗教指導者たちは、使徒たちを逮捕し投獄してしまいました。そして、議会と長老たちを招集して審問にかけようとしたのです。議会はサンヘドリンと呼ばれる七十人の議員からなる政治的宗教的最高議決機関です。
 しかし、何と不思議なことに、使徒たちは、主の使いによって牢屋から脱出することができたというのですね。
 ただ、誤解しないでいただきたいのですが、クリスチャンは投獄されてもいつも脱出できるというわけではありません。12章では、使徒ヤコブが殺されてしまいました。ペテロもパウロも、様々な危機的状況から救い出されましたが、最後には殉教してしまいます。ですから覚えておいてください。問題や病の中にいるとき、そこから救い出されるように祈り、期待することは大切です。しかし、すべてが私たちの思い通りになるわけではないことも理解しなければなりません。神様の思いは、私たちの思いよりも遙かに高く深いのですから。
 今日の箇所では、使徒たちは奇跡的に牢から脱出することができましたが、主の使いは彼らにこう言いました。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」そこで、使徒たちは夜明けごろ神殿に入って教え始めました。夜明けごろとは早い時間ですね。あまり人がいなかったかもしれません。でも、使徒たちにとっては人の多い少ないは関係なかったでしょう。神様の命令に従って福音を大胆に語ったのです。せっかく牢屋から脱出できたのに、すぐ見つかってしまう宮の中で語ったのですね。それで、またすぐに逮捕されてしまったので、わずかな時間しか語ることができませんでした。しかし、宮には夜明けごろから神様を求める人がいたのです。どんなに短い時間でもどんなに少人数でも、そこに求める人がいるならイエス様の福音を語ることが彼らの使命だったのです。人々は使徒たちを尊敬していましたから、彼らの言葉に心を開いていったに違いありません。
 信頼できない人の言葉には、最初から心を閉ざしてしまいますね。話し手の態度や言動によって、聞く側の受け取り方が違ってきます。ですから、もし、語る側が、信頼されておらず、確信もなく、感動もなく語っていたなら、相手の心には何も届けることができません。しかし使徒たちは、確信と感動をもってイエス様の救いのメッセージを語ったことでしょう。
 こんな言葉を聞いたことがあります。「人々は、聖書を読まずに、私たちを読む。キリストを見ないで、私たちを見る。」つまり、人々は、私たちを見て、クリスチャンとはどのような人か、イエス・キリストはどういう存在かを判断するというのです。でも、プレッシャーを感じないでくださいね。前回お話ししましたように、私たちは自分を偽ることなく、正直に誠実に生きていけばいいのです。私たちが、不完全であっても神様に愛され、赦され、生かされていることに安心し、喜んで生きているなら、人はそこにキリストを見るのです。私たちが失敗し、落ち込んで涙するときにも、なおキリストを信頼し、すべてを委ねて生きていこうとするとき、人はそこにキリストを見るのです。私たちが非の打ち所のない完全な人間だからではなく、欠点や不足があっても神様に感謝しつつ礼拝をささげているなら、人はその姿の中にキリストをみるのです。ですから、いいところを見せようなどと気負うことはありません。キリストと共に歩み、生かされている姿をそのまま見せればいいのです。
 
4 神に従う
 
 さて、使徒たちは、また捕らえられ、議会の中に立たされました。そして、「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか」と厳しく責め立てられたのです。すると、ペテロたちは大胆にこう言いました。「人に従うより神に従うべきです。」
 考えてみてください。議会に集まっていたのは、宗教指導者たちです。いつも人々に「人に従うより、神に従いなさい」と説教している人たちでした。ですから、彼らは、使徒たちから「人に従うより、神に従うべきです」と言われて、激怒しました。人にはプライドがあります。まして、その道の専門家と自負している人が素人に注意されたら、面目丸つぶれですね。使徒たちの多くは田舎のガリラヤ出身の漁師たちです。特別な教育を受けたわけではありません。中には、罪人呼ばわりされている取税人もいました。そんな使徒たちの言葉に、宗教指導者たちは素直に耳を傾けることができませんでした。それどころか、怒り狂って、殺そうとまでしたのです。
 しかし、相手が誰であろうが神様に従う勇気を養いたいですね。もし相手が間違っていると思ったら、勇気を持って指摘することが必要ですし、逆に、自分が間違っていることを指摘されたら、謙虚に反省することも大切です。
 それとともに、「人に従うより、神に従うべきです」という言葉を誤用しないように気を付けることも必要です。
 たとえば、教会の指導者が人々を自分の思い通りに操るためにこの言葉を使う場合があります。神に従うべきだと言いながら、実は自分に従わせようとするのです。指導者を絶対化して、人々は指導者に盲目的に従い、過度に依存するようになります。教会のカルト化です。これはいつの時代にも起こる問題です。
 また、「人に従うより、神に従うべきです」という言葉を自分の都合のいいように使ってしまうこともあります。たまたま聖書を読んでいるときに何か用事を頼まれると、「人に従うより、神に従うべきです」なんて言ったりするわけです。自分がやりたいことややりたくないことに理由づけをするために、この言葉を無理矢理引用するのですね。
 私たち、このような間違いに十分気を付けなければなりません。特に、指導者は自分が聖書の真理を正しく語っているだろうか、イエス様の福音を恵みを伝えることができているだろうか、自分が神のように人を支配しようとしていないだろうか、と自己点検する必要があります。そして、教会に集う人々は、もし指導者が間違ったことを語り、行っているなら、使徒たちのようにきっぱりと「人に従うより、神に従うべきです」と言うべきです。城山教会も、そういう教会でありたいですね。
 どんな時にもイエス様を救い主として信頼し従っていきましょう。