城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年一月一六日            関根弘興牧師
                使徒の働き一三章一〜一二節
 使徒の働き16 
   「派遣」
 
1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。6 島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。7 この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。 8 ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。9 しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、10 言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。11 見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。12 この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。(新改訳聖書第三版)
 
 今日から13章に入ります。使徒の働きは、構造的に二つに分かれています。1章〜12章までと、今日から始まる13章から最後の28章までです。
 13章からは、今までといくつかの点で変わってきます。まず第一に、宣教の中心が、これまではエルサレムでしたが、この章以降アンテオケに移っていきます。アンテオケ教会が世界に福音を伝える基地となっていくのです。第二は、宣教の主役がペテロからパウロに代わります。第三に、宣教の対象がユダヤ人から異邦人に移っていきます。使徒1章8節でイエス様が「あなたがたは、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われた言葉が、まさにその通りになっていくわけです。
 
1 アンテオケ教会の指導者たち
 
 以前お話ししましたように、キリストを信じて教会に集まる人々が「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、アンテオケが最初でした。「クリスチャン」というのは、「キリスト党員、キリストかぶれ」というあだ名だったのです。
 そのアンテオケ教会にはどんな人たちがいたでしょうか。今日の箇所には、五人の指導者の名が挙がっていますね。
 
(1)バルナバ
 
 バルナバは、以前はエルサレム教会で重要な役割を果たしていた人です。キプロス生まれでレビ部族出身、本名はヨセフですが、使徒たちからバルナバ(慰めの子)と呼ばれていました。 以前、クリスチャンを迫害していたサウロが回心してクリスチャンになったとき、教会の人々はサウロの回心を疑い、警戒し、恐れていました。しかし、そのサウロをバルナバが受け入れて、使徒たちと引き合わせ、教会に導き入れたのです。「慰めの子」という呼び名にふさわしい働きをしていたのですね。
 その後、アンテオケで大ぜいの人々がキリストを信じるようになったという知らせを聞いたエルサレム教会は、バルナバをアンテオケ教会に派遣しました。アンテオケに行ったバルナバについて、11章24節には「彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた」と書かれています。
 バルナバは、サウロをアンテオケ教会に連れてきた人物でもあります。サウロは、キリストを信じた後、しばらく故郷のタルソに戻っていたのですが、バルナバは、わざわざサウロを捜しにタルソへ行き、アンテオケ教会に連れてきたのです。サウロが教会のために大きな助けとなってくれると信頼していたのですね。
 
(2)ニゲルと呼ばれるシメオン
 
 「ニゲル」はラテン名で「黒人」を意味します。ですから、彼はアフリカ出身であったのでしょう。
 
(3)クレネ人ルキオ
 
 エルサレムで起こった激しい迫害によってクリスチャンたちは各地に散らされていきましたが、11章20節ー21節に、こう書かれていましたね。「その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。」
 クレネ人ルキオは、このアンテオケで主イエスを宣べ伝えたクレネ人たちの一人だったのではないかと考える学者もいます。
 
(4)国主ヘロデの乳兄弟マナエン
 
 福音書には「ヘロデ」という人物が何人か登場しますが、この「国主へロデ」とは、バプテスマのヨハネの首を切ったヘロデ・アンテパスのことです。ヘロデ大王の第四婦人の息子です。マナエンは、そのヘロデの乳兄弟というのですから、王子と一緒に育てられた身分の高い人物だったのでしょう。
 
(5)サウロ
 
 サウロは、最初は、ユダヤ教徒の中でも特に熱心なパリサイ派に属し、旧約聖書の律法を厳守し、神に仕えることに情熱を傾けていました。そして、イエス・キリストやクリスチャンたちが神を冒涜していると思い込んで、クリスチャン迫害の先頭に立っていました。しかし、復活したイエス・キリストとの劇的な出会いを経験してクリスチャンになり、熱心にキリストの福音を宣べ伝えるようになったのです。サウロは、特に、「キリストが私を異邦人のための使徒として任命してくださった」という自覚を持っていました。そのことをバルナバも知っていたでしょう。ですから、異邦人がたくさん集まっているアンテオケ教会にサウロを連れてきたのかもしれませんね。そのおかげでサウロは、アンテオケ教会の支援を受けながらキリストに与えられた使命を果たすことができるようになっていくのです。
 
 さて、ここに名が記されているアンテオケ教会の指導者たちの背景はみな違います。人種も社会的地位も違います。しかし、キリストを信じて同じ思い、同じ心を持つようになったのですね。教会とはそういうところなのです。
 
2 派遣
 
 さて、アンテオケ教会の人々が主を礼拝し、断食しているとき、聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われました。「聖別する」とは「取り分ける」ことです。つまり、神様が用意した働きのために、ふたりを取り分けて派遣しなさいというのです。そこで、教会は、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから送り出しました。
 
(1)手を置いて祈る意味
 
 聖書の中では、「手を置く」こと、「按手」とも言いますが、これには特別な意味があります。
 たとえば、旧約聖書では、ヤコブが息子ヨセフの子供たちを祝福する際に、子どもたちの上に手を置いて祝福の言葉を述べました。またレビ人や祭司の任職のとき、按手の儀式が行われました。ヨシュアがモーセの後継者として任命されるときも、モーセはヨシュアの上に手を置いて彼を任命したのです。
 新約聖書では、イエス様は、子供たちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました。また病人の上に手を置いていやされました。そして、使徒たちも同じように病人の上に手を置き祈りました。使徒6章で教会の食料配給に関して問題が起こり、その対処をするために七人が選ばれた時、使徒たちは彼らの上に手を置いて祈りました。また、使徒8章では、ペテロとヨハネがサマリヤでイエス・キリストを信じた人々の上に手を置いて祈ったとき、人々が聖霊を受けた、と書かれています。そして、今回、アンテオケ教会のリーダーたちは、パウロとバルナバを伝道のために派遣する際、ふたりの上に手を置いて祈ったのです。
 つまり、手を置いて祈ることは、その人が神様の選びの中にあることを認証し、その人に必要な神様の力と祝福が豊かに注がれることを願い求める儀式なのです。
 
(2)教会が送り出す意味
 
 アンテオケ教会は、バルナバとサウロを宣教の働きのために送り出しました。ここで大切なのは、バルナバとサウロが勝手に思いつきで宣教に出かけたわけではないということです。教会がふたりを派遣したのです。そして、その教会も、自分たちで勝手にバルナバとサウロの派遣を決めたわけではありません。まず、聖霊が言われたこと、つまり、神様から示されたことに従ったのです。
 「聖霊が言われた」というのが、具体的にどのようなことだったのか、詳しく書かれていないのでわかりません。祈っている時に指導者たちの耳に不思議な声が聞こえてきたのかもしれませんし、誰かが神様の言葉を預言したのかもしれませんし、夢か幻によって示されたのかもしれません。あるいは、共に主を礼拝し祈っているうちに、異邦人に対する宣教の志が与えられ、誰が適任なのかを考え、準備しているうちに、「これは主のみこころだ」という確信が与えられていったのかもしれません。いずれにせよ、大切なのは、教会の皆が納得し、思いを一つにしてバルナバとサウロを送り出すことができるように神様が導いてくださったということです。ピリピ2章13節に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と書かれているとおりです。今日の箇所には、「聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた」と簡単に書かれているだけですが、ここから、神様が人の心を動かし、志を与え、最善な時を用意してくださっている、ということを覚えていきたいですね。
 宣教は、神様から与えられた志に従って、教会から始まり、教会に支えられ、聖霊によって、神様の保証の中で行われていくものなのです。
 
3 第一次伝道旅行の開始
 
 バルナバとサウロは、伝道旅行に出発しました。
 ところで、13章9節に「サウロ、別名でパウロ」とありますね。ここからは、サウロではなくパウロという名が使われることになります。「サウロ」は、ユダヤ人の由緒ある名前です。イスラエルの初代の王の名前でした。一方、「パウロ」はローマ名です。彼は、ローマ市民権を持っていたので、ローマ名も持っていたのです。これから異邦人に福音を伝えていくために、彼は、パウロと名乗っていくわけです。
 使徒の働きには、パウロの三回の伝道旅行が記録されていますが、今日の箇所は、第一次伝道旅行の始まりです。
 彼らが最初に向かったのは、地中海に浮かぶキプロス島でした。そこは、バルナバの故郷です。その島には、ユダヤ人の会堂がいくつもありました。当時、離散したユダヤ人たちが各地に会堂を建てて、そこに集まり礼拝し、聖書を学んでいたのです。バルナバとパウロは、諸会堂を訪れ、島全体を巡回して福音を宣べ伝えていきました。今日の箇所には、彼らが出会った二人の人物のことが記録されています。
 
(1)魔術師バルイエス(別名エルマ) 
 
 彼は、地方総督セルギオ・パウロのおかかえの魔術師です。いろいろな奇術やいかさま治療を行って人々を驚かせ、地方総督に取り入って生活していたようです。
 当時の魔術師は、総督や支配者たちと深く結びついていました。何か決断しなければならないときなど、魔術師の助言は必須のことでした。人は力を持てば持つほど、それを失いたくないのでいろいろなことにより頼むわけです。もっとも手っ取り早い方法は、力のあるおかかえ魔術師を身近に置いておくことでした。ですから、魔術師たちは、総督や支配者に気に入られたら生活は安泰です。彼らの行う魔術は、いつも自分の利益と結びついていました。まして不思議なことをすればするほど、総督や支配層に人気が出たのです。今でも、政治家がいろいろな占い師のところに行ったというような記事が時々出てきますね。昔、アメリカのレーガン大統領の奥さんにお抱えの占い師がいたというのが話題になりましたが、今も昔も変わらないのですね。
 しかし、その魔術師の生活を脅やかしかねない存在が現れました。バルナバとパウロです。彼らは、魔術師エルマがまねできないような不思議なわざを行うことができました。しかし、自分たちの力を誇示するのではなく、そのわざを行わせてくださるイエス・キリストを宣べ伝えていました。イエス様の御名によって行う不思議なわざを、自分たちの利益のために用いることもなく、指導者に取り入ろうともしませんでした。
 そんなふたりに魔術師エルマは脅威を感じました。もし、総督がイエス・キリストを信じて、神様の教えに従うようになったら、魔術に頼る必要がなくなり、自分はお払い箱になってしまうだろうと恐れたことでしょう。だから、何としても総督が信仰を持つことを阻止しようとしたのです。
 使徒19章で、パウロがエペソに行ったときも同じようなことがありました。エペソには、女神アルテミスの神殿の模型を作って生計を立てていた銀細工人たちがたくさんいました。パウロが語る福音を聞いてイエス・キリストを信じる人々が増えていくと、銀細工人たちは、このままでは商売あがったりだということで、パウロたちに反対して大騒動を起こしたのです。彼らにとっては死活問題ですからね。
 イエス様が伝えられるいくところには、どうしても「波風」が立ちます。今まで頼っていたものが、もはや不要になるからです。イエス様を信頼して、聖書の言葉を指針として歩み始めたら、もう占いや霊媒や様々な宗教や迷信は必要ありませんね。
 魔術師エルマは、なんとしても総督が信仰に入ることを阻止しようとしました。しかし、9節ー11節にこう書かれていますね。「パウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。『ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる』と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。」
 魔術師エルマは、目が見えなくなってしまったというのです。なんだか、どこかで見た光景ではありませんか。
 実は、パウロ自身も同様の経験をしたことがありましたね。 パウロは、クリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていた途上で、突然まばゆい光に打たれて何も見えなくなり、手を引かれてダマスコに行かなくてはならなくなりました。それまでのパウロは、自分は周りの物事が見え、正しい判断ができ、何が正しく、何が間違っているかを識別できると考えていました。しかし、イエス・キリストの光に照らされ、キリストの声を聞いて、自分が実は何も見えていなかったことに気づいたのです。自分自身の判断がいかに愚かで間違っていたかを痛いほど思い知らされたのです。彼は、自分の目が塞がれたことによって自分の愚かさや罪を知りました。そして、盲目のまま過ごした三日間は、彼の魂の目が開かれる準備の時となったのです。三日後、ダマスコに住むアナニヤの祈りによって目が開かれたパウロは、キリストを信じて生まれ変わった者として新たな人生を歩み始めました。
 ですから、パウロにとってダマスコの途上で目が塞がれてしまった経験は、神様の「審判・さばきの時」であるとともに、救いに至る「恵みの時」でもあったわけです。
 そのパウロが、いま魔術師エルマに向かって、「主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と告げたのです。パウロは彼の中に自分の過去の姿を見ていたのかも知れませんね。
 魔術師エルマは、今こそ、自分自身の本当の姿を自覚して、心の目を開く備えをしなければなりませんでした。しばらくの間、盲目になるのは、まさに、主の審判・さばきです。しかし、それは、彼が新しく変えられるための「恵みの時」ともなりえるのです。
 私たちの主は、気に入らないからといって感情まかせに裁きを下す方ではありません。時には、厳しいさばきを下すこともあります。でも、それは、私たちが「主に帰る」ことができるようにするための「恵みの時」でもあるのです。
 私たちは、見えると思っていても本当は見えていないことがよくあります。しかし、見えないと気づいたときこそ、見えてくるものがあるのです。困難や苦しみの中でこそ知り得る神様の豊かな恵みがあります。失敗の中でこそ味わうことのできる神様の愛や慰めがあるのです。罪の中に落ち込んだときこそ、神様の大きな愛の赦しと恵みがあることを知っていただきたいのです。
 
(2)地方総督セルギオ・パウロ
 
 地方総督セルギオ・パウロは、賢明な人で、神のことばを聞きたいと願っていました。ロ-マ10章17節に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とあるとおり、聞きたいと願うことが、信仰への第一歩です。その総督を魔術師エルマは信仰の道から遠ざけようとしましたが、結局は自らが闇の中に陥ってしまう結果になりました。
 そして、12節に「この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った」とありますね。総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入りました。
 信仰を持って生きるとは、主の教え、主の約束の言葉に驚嘆し、信頼して生きていくことです。私たちも、聖書の教えと約束に感動して受け入れたからこそクリスチャンになりましたね。 信仰の土台は、主の教えと約束です。感情は後からついてくるものです。これが反対だと大変ですね。「信じているような気分だから、私はクリスチャンだと思います」というのでは大変です。もし信じていないような気分になったら、クリスチャンでなくなってしまうことになるからです。自分の力や感情に基づく信仰生活は不安定です。でも聖書に記された主の教えと約束の言葉は決して揺るぐことはありません。聖書の言葉に信頼して生きていきましょう。