城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年二月六日              関根弘興牧師
               使徒の働き一四章一〜一八節
 使徒の働き18               
  「あがめられるべきお方」
 
 1 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。4 ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、6 ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、7 そこで福音の宣教を続けた。8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。13 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。16 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」18 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。(新改訳聖書第三版)
 今日の箇所は、パウロの第一次伝道旅行の続きです。パウロとバルナバは、シリアのアンテオケ教会から送り出されて、まず、キプロス島を回って福音を宣べ伝えた後、今のトルコにあたる小アジア地方に向かいました。そして、前回の箇所では、、ピシデヤのアンテオケでパウロたちのもとに多くの人々が集まってきて福音を聞き、クリスチャンになったことが書かれていましたね。しかし、ねたみに駆られたユダヤ人たちは、パウロとバルナバをピシデヤ地方から追い出してしまいました。
 そこで、パウロたちは隣のルカオニヤ地方にあるイコニオムにやって来ました。ここは、現在、トルコのコニャという町になっています。パウロたちはいつもの通り、まず、ユダヤ人の会堂に行って福音を語りました。そして、ここでも、大勢の人々がクリスチャンになる一方、悪意を抱いて妨害してくるユダヤ人たちもいたのです。しかし、パウロたちは怯まずに大胆に福音を語り、また、主も、しるしと不思議なわざを行わせて、パウロたちの宣べ伝えるイエス・キリストこそまことの救い主であり、人々を救うことのできる方だということを証明してくださいました。
 信じる人々が増えていくと町の人々は二つのグループに分かれて対立しました。そして、遂に、反対派のユダヤ人たちが、パウロたちを石打にしようと企てました。パウロたちが神を冒涜しているということで大きな石を投げつけて死刑にしようとしたのです。キリストを伝えるのは、まさに命がけだったのですね。しかし、味方の人々がその情報を教えてくれたのでしょう。パウロたちは難を逃れて、こんどは、約四十キロ離れたルステラに行きました。今日は、そこでの出来事を見ていきましょう。
 
1 足の不自由な人のいやし
 
 ルステラに、生まれつき足の不自由な人がいました。
 9節ー10節にこう書かれていますね。「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」
 
(1)いやされる信仰
 
 私たちは、いろいろなことを選び取りながら生きています。何時に食事をするか、何を着るか、どこへ行くか、何を語るか、選択の連続です。しかし、自分では選べないこともあります。自分の生まれです。どこで、どんな状況や状態で生まれるかは、選べませんから、その現実をただ受け取ることしかできません。時には、不公平だと思いますし、無力感や絶望感を感じることもあるでしょう。
 今回の生まれつき足のなえた人も複雑な思いを持っていたことでしょう。しかも、まわりの心ない人々から「お前の先祖が悪いことをしたから報いを受けたんだろう」などという冷たい言葉を浴びていたかもしれません。いつの時代にもそういうことはありますね。
 しかし、やっと希望が湧いてきました。パウロたちが宣べ伝えている救い主なら、自分を癒やし、自分の人生を変えてくれるかもしれないという思いを持つようになったのです。彼は、パウロの語る福音に耳を傾けていました。するとパウロは、この人に「いやされる信仰」があるのを見たというのです。この人は、これまで何度も人生を投げ出したことがあったでしょう。この世を恨んだこともあったでしょう。しかし、今、イエス様に対する期待にあふれていたのです。
 信仰には、立派な行いや功績や努力は必要ありません。ただ、イエス様がきっと私を救ってくださると期待し信頼すること、それが信仰なのです。パウロの話を聞いている内にこの足の不自由な人のうちにそういう信仰が生まれてきたのです。まさに信仰は聞くことからはじまり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。そして、イエス様は、その信仰に応えて、パウロを通して彼をいやしてくださいました。
 期待のないところには、何も生まれません。イエス・キリストに期待し信頼していくなら、主は、豊かな恵みをもって応えてくださるのです。
 
(2)人々の反応
 
 この人がいやされたのを見た群衆は、大騒ぎを始めました。「神々が人間の姿をとって下ってこられたんだ。バルナバという人は、ゼウスに違いない。パウロはヘルメスだ。この方たちにいけにえをささげよう」と行って、パウロたちを祭り上げ、いけにえをささげようとしたのです。
 ゼウスとヘルメスはギリシャ神話に登場する神々です。ゼウスは、神々と人間たちとの父であり、雲や雨や雷など天気を支配することのできる最高神ということになっていました。また、ヘルメスは、ゼウスの使いで、智恵に富む雄弁な伝令者と考えられていました。
 実は、このルステラの町にはこんな伝説があったそうです。「ある時、ゼウスとヘルメスがお忍びでこの地方を訪れました。町の人々は、二人が神々とは気づかず、無頓着で、だれひとり丁寧なもてなしをしませんでした。しかし、ピレモンとバギウスという農家の老夫婦だけが手厚く彼らをもてなしたので、この老夫婦だけがたくさんの報いを受けました。おしまい。」この伝説をもとに、ルステラでは、「今度ゼウスとヘルメスが来たときには、決して粗相があってはならない」と言い伝えられていたようです。
 ですから、パウロたちがゼウスとヘルメスの再来かもしれないと思い込んだ人々は、二人を熱烈に祭り上げようとしたのでしょう。
 人間を神に祭り上げてしまうことはよくありますね。日本でも、神に祭り上げられた人はたくさんいます。天神様は菅原道真、権現様は徳川家康、明神様は平将門、明治神宮は明治天皇、東照宮は徳川家康、報徳神社は二宮尊徳などなど、日本は、神に祭り上げることが得意ですね。そして、ちょとした不思議や奇跡が起こると「現代に神様出現!」となってしまうのです。
 
(3)パウロたちの応答 
 
 熱狂した人々の姿を見て、パウロたちはどうしたでしょう。 14節ー15節にこうありますね。「バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。』」
 自分が神様のように祭り上げられたいと思う人間は多いですね。自分が中心で、自分の思い通りにできたら気持ちがいいのですね。神のようになりたいとまでは思わなくても、自分が称賛されたい、自分が評価されたい、自分に関心を向けてもらいたいという欲求は誰でも持っていますね。ですから、皆、自己中心で高慢な生き方になる誘惑に襲われるのです。
 この誘惑は時々教会にも襲ってきます。たとえば、すばらしい賜物をもっている牧師が、まるで「教祖」のようになってしまうことがたびたびありますね。「先生の語られる言葉に間違いはない」「先生は神様から直接声を聞いている」「先生に祈ってもらえば必ず問題が解決する」などと言われて、牧師がいい気になっていたら要注意です。祭り上げる方も祭り上げられる方も、互いに注意しなければなりません。
 私たちは人間に過ぎません。何か立派なことができたとしても、何か素晴らしい経験を味わったとしても、主イエス様が力を与え、みわざを成してくださったからです。それを忘れると、神様を無視した高慢な生き方になり、愚かで危険な道に向かうことになるのだ、と聖書は一貫して教えています。
 旧約聖書のダニエル書5章にこんな記事が出てきます。
 バビロニヤ帝国のベルシャツァル王は、大宴会を催したとき、大変傲慢なことをしました。父ネブカデネザル王が南ユダ王国を滅ぼしたときにエルサレムの神殿から奪い取ってきた金や銀の器を持ってこさせ、それを使って飲み食いしたのです。それは、神様に対する挑発行為でした。「何が天地を造った神だ!俺たちはその神の神殿を破壊したぞ。俺は神より優れているんだ。神など何の力もない」、そう言わんばかりの態度をとったのです。すると、突然、人の手の指のようなものが表れ、宮殿の壁に文字を書きました。王は、その光景を見て顔を真っ青にして怯え震えました。その文字を読むこともできず、意味もわかりません。バビロンの呪法者や知恵者たちも解読することができません。そこで、ダニエルが呼ばれました。ダニエルは王に言いました。「あなたが高慢になって、神様を侮ったので、この文字が書かれたのです。これは『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』というこどばで、神様があなたの治世を終わらせ、この国が二つに分割されメディヤとペルシヤに与えられるということです。」その夜、ベルシャツァル王は暗殺され、バビロニヤ帝国は滅亡しました。
 新約聖書でも、使徒の働き12章の終わりに、自分を神のように思って高慢になっていたヘロデ王が一匹の虫にかまれて、あっけなく死んでしまったという記事がありましたね。
 パウロもバルナバも聖書を熟知していましたから、人が神のようになることがどれほど危険なことかを知っていました。ですから、衣を裂き、叫び声を上げて群衆を阻止しようとしたのです。
 パウロは、第二コリント12章7節で「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」と書いています。復活のイエス様と出会い、神様の特別な啓示を与えられ、福音のために豊かに用いられていたパウロは、自分が高慢になる危険をいつも自覚していたのですね。「肉体の弱さは、私が高慢にならないために神様が与えてくださったのだ」という思いをもっていたのです。
 フランスにリジューのテレジアという人がいました。彼女は十五才でリジューの修道院に入り、一八九七年に二十四才で天に召されるまでの短い生涯を送った修道女です。「小さきテレジア」と呼ばれた人です。彼女がこう語ったそうです。「あなたたちの修行のやり方を見ていると、まるで正反対のように見えます。キリストの心に近づくために、一生懸命、徳を積み上げて、獲得しようとしているように見えます。キリストの心に近づくのに大切なことは、獲得するということではなく、失うということなのです。」大変考えさせられる言葉ですね。
 私たちは、いろいろなものを獲得したい、脚光を浴びたい、と願うことがあります。あれも、これも欲しい、力が欲しい、そして、頑張って立派なクリスチャンを目指そうと考えるかもしれません。でも、まず自分のこれまで握っていた思いや考え方を手放すということが大切なのですね。いろいろなことに固執している手を離すのです。そして、自分の弱さを知ることが大切です。なぜなら、キリストの力が私たちの弱さを覆うからこそ、私たちは強いのですから。
 聖歌五五四番は、次のような歌詞です。
 
 主ひとり誉められたまえ 世人に見られたまえ
 主ひとり慕われたまえ あまねく知られたまえ
 われは御手のなかに 消えされかし
 この身に生くるは キリストなり
 
 主ひとり慰め与え 涙を拭き去りたもう
 主ひとり重荷を除き 恐れを取り去りたもう
 われは御手のなかに 消えされかし
 この身に生くるは キリストなり
 
 私たちはいつも「私ではなく、キリストだけがあがめられ、ほめたたえられるように」という心を大切にしていきましょう。
 
2 パウロの説教
 
 さて、パウロは続けて、本当に礼拝すべき方について説教を始めました。前回の13章の説教は、ユダヤ人向けだったので、旧約聖書をたくさん引用していましたが、今回は、異邦人たち向けの説教でした。どのような内容だったでしょうか。
 
(1)まことの神とは
 
@天地万物を創造した生ける神
 
 パウロは、まず、15節で「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神」がおられると語りました。
 私たちが礼拝している神様は、天地万物の創造者です。無から有を生み出すことができるお方、全能なる方です。そして、その神様は、石や木で作った偶像や人間が考え出した神々とは違い、実際に存在し、生きておられ、常にみわざを行い続けてくださる方です。その神様を信頼して生きていくことができるのは、何と幸いなことでしょうか。
 
A忍耐深い神
 
 それから、16節に「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました」とありますね。神様は、人に自由意思を与え、神様に信頼するかどうかを自分で選び取ることができるようにしてくださいました。何でも従うロボットではなく、自発的に神様を愛することのできる者としてお造りになったのです。そして、人が神様を無視して自分勝手に歩んでいる間、神様は、人が御自分のもとに立ち返ってくるのを忍耐深く待っていてくださるのです。
 
B恵み深い神
 
 そして、17節に「とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」とありますね。
 神様は、いろいろな自然の恵みを通して、御自分の存在を示してくださっています。たとえ、人が自分勝手な生活をしていても、神様は、雨を降らし、豊かな自然の実りをもって、食物と喜びを与えてくださる方なのです。
 私たちは聖書を通して神様について知ることができますが、神様が造られた自然界の営みを見ても、神様の偉大さと恵みの深さを知ることができます。
 考えてみてください。さんさんと輝く太陽が一日でもストライキを起こしてしまったなら、私たちはもう生きていけません。当たり前のように吸っている空気が、ほんの短い間でもなくなったら生きていけません。私たちがこうして毎日生きていくことのできる背後に神様がいてくださるのです。ですから、この生ける神様を知ったら感謝が生まれるのです。
 茅ヶ崎教会の牧師をしておられた守本愛子先生は、片肺しかなく、晩年は酸素ボンベを持ち歩いておられました。その先生がこう言われたことがあります。「関根先生、この酸素ボンベ毎月いくらかかるか知っている?高いのよ。もし、神様から空気の酸素の請求書が送られてきたら大変よね。でも、こうして自由に空気を吸うことができるのだから、、私たちは神様に感謝しすぎることなんかないのよ。感謝の領収書をたくさん出さなきゃね。」その通りだと思いますね。 
 
(2)神に立ち返りなさい
 
 神様は、天地万物を創造した生ける神であり、忍耐強く恵み深い神様です。パウロは、「私たちは、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、この神様に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのだ」と語りました。
 この「立ち返る」というのは、「帰る」という意味で、聖書の大切な言葉の一つです。名詞形は「回心」と訳される言葉です。神様に背を向けていたけれど、向きを変えて神様のもとに帰るということです。
 旧約聖書には、「神に帰れ」という言葉がよく出てきます。例えば、イザヤ44章22節で神様がこう呼びかけておられます。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」また、イザヤ55章7節にはこう書かれています。「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
 愛と恵みに満ちた神様のもとこそ、私たちがもっとも自分らしく安心して生きることのできる場所です。その場所に帰るために私たちは努力や修行や犠牲が必要でしょうか。いいえ、救い主イエス様が私たちのためにすべての条件を満たして、道を整えてくださったので、私たちはただ、「わたしに帰れ」という神様の呼びかけに応じて神様のもとに帰ったのです。それが福音、「良き知らせ」です。パウロたちは、そのことを全世界に宣べ伝えようとしていたのです。
 さてパウロは、このあと、ユダヤ人たちに石打にあいながらも、この地方でみことばを語り、クリスチャンたちを強め、アタリヤに下り、船でアンテオケに戻っていきました。困難な中にあっても多くの異邦人たちがイエス様を信じていったのです。私たちの神様は、生ける神様です。賛美を受けるにふさわしい方を続けて礼拝していきましょう。