城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年六月五日               関根弘興牧師
              使徒の働き二一章一七節〜二六節
 使徒の働き連続説教31
 
   「パウロの原則」
 
17 エルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで私たちを迎えてくれた。18 次の日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。19 彼らにあいさつしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。20 彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。21 ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。22 それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。23 ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。24 この人たちを連れて、あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。25 信仰に入った異邦人に関しては、偶像の神に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきであると決定しましたので、私たちはすでに手紙を書きました。」26 そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、ともに身を清めて宮に入り、清めの期間が終わって、ひとりひとりのために供え物をささげる日時を告げた。(新改訳聖書)
 
前回は、パウロが第三回伝道旅行を終えて船でエルサレムに向かう途中、ミレトに寄港し、そこにエペソ教会の長老たちを呼び寄せて告別説教をした、という箇所を読みましたね。
 そのミレトから出帆したパウロは、シリヤ地方のツロに上陸し、そこにいる弟子たちのもとに七日間滞在しました。21章4節に「彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した」と書かれています。ツロの弟子たちは、パウロがエルサレムで困難に遭遇することを神様から示されていたので、パウロを引き止めようとしたのです。
 しかし、パウロは、自分がエルサレムに行くことは神様のみこころだと確信していたので、再び船に乗り、カイザリヤに着くと、伝道者ピリポの家にしばらく滞在しました。このピリポは、8章でサマリヤ伝道に活躍し、エチオピアの高官を信仰に導いた人です。パウロがピリポの家に滞在しているとき、アガボという預言者がユダヤからやって来ました。このアガボは、以前、11章でアンテオケ教会にやって来て「世界中に大飢饉が起こる」と預言した人物です。その預言通りに飢饉が起こると、アンテオケ教会の人々はエルサレムに援助物資を送りましたが、それを運んだのがパウロとバルナバでした。
 そのアガボが、今回は、パウロの滞在するピリポの家にやって来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、こう預言したのです。「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される』と聖霊がお告げになっています。」
 ツロのクリスチャンたちと同じように、アガボも「パウロがエルサレムに行くと苦難に遭う」と預言したのです。さあ、あななたら、この状況の中でパウロに何と言いますか。私なら、「パウロ先生、まだあなたにはなすべき事がたくさんあるのですから、いのちの危険があるような場所には行かないでください」と言いますね。この福音書を書いたルカはその場にいましたが、21章13節-14節にこう書いています。「私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。するとパウロは、『あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています』と答えた。彼が聞き入れようとしないので、私たちは、『主のみこころのままに』と言って、黙ってしまった。」
 前回、ミレトの告別説教の中でパウロはこう言っていました。「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロも自分がエルサレムで苦しみを受けることを神様から示されて知っていました。しかし、同時に、今、何としてもエルサレムに行かなければならないという強い思いを神様から与えられていたのです。神様のみこころなら何があっても従う、そうすれば神様の最善が成し遂げられる、というのがパウロの基本姿勢でした。ですから、まわりの人々は、結局、「主のみこころのままに」と言ってパウロをエルサレムに送り出したのです。
 
1 兄弟たちの歓迎
 
 パウロは、カイザリヤから陸路を取って、エルサレムに到着しました。エルサレムの兄弟たちは喜んで迎えてくれました。そして、パウロたちはまずヤコブを訪問しました。そこには、長老たちもみな集まっていました。
 聖書には、ヤコブという人が何人も登場しますが、このヤコブはイエス様の母マリヤから生まれたイエス様の弟にあたる人物です。「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれています。彼は、エルサレム教会のスタートの時から教会の一員でした。ペンテコステの日に弟子たちの上に聖霊が下られたときも、母マリヤや他の兄弟たちとともにそこにいました。それから、今日の箇所まで二十年以上の間、ヤコブはエルサレム教会の指導者としての役割を果たしてきたのです。
 といっても、ヤコブも母マリヤもイエス様の家族だったからといって特別扱いされることはありませんでした。他の人々より特権や権威を持ち、人々からあがめ奉られるということもありませんでした。
 マタイ12章46節-50節にこういう記事があります。イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。すると、だれかが言った。『ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。』しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。『わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。』それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
 天の父のみこころを行う者、つまり、イエス様を救い主と信じて歩む者は、皆、イエス様の家族だというのですね。主の兄弟ヤコブも、自分がそのうちの一人であるという自覚を持っていたのです。
 
2 パウロの報告
 
 パウロは、早速、自分が伝道旅行で回った小アジアやギリシヤ地方で神様が行ってくださったみわざを一つ一つ報告しました。ユダヤ人たちはずっと、異邦人が救われることはないと思っていました。しかし、神様は、異邦人の中からイエス様を信じて新しい人生を歩み出す人々を起こしてくださり、各地に教会を誕生させてくださったのです。ユダヤ人か異邦人かは関係なく、社会的身分や地位も関係なく、すべての人が神の家族とされ、キリストにあって一つとなりました。そして、今、各地の異邦人教会がエルサレムのユダヤ人教会を助けるために支援金を届けてくれたのです。エルサレム教会の長老たちは、パウロの報告を聞いて、神様をほめたたえました。
 
3 パウロに対する風評
 
 ところで、エルサレム教会の長老たちには、パウロについて一つ心配していることがありました。ユダヤ人クリスチャンの間に、パウロについての間違った噂が広まっていたのです。
 長老たちが20節-21節でこう言っていますね。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセ(の律法)にそむくように教えているということなのです。」もちろんこれが誤解であることは、長老たちもよくわかっていました。
 パウロもエルサレム教会の長老たちも、イエス様の福音をよく理解していました。福音の内容はどのようなものでしょうか。「人が自分の力で神様の律法を守って救いを得ようとしても、それは不可能だ。なぜなら、人は律法を完全に守ることなど絶対にできないからだ。律法を守ろうとしても守れない状態で苦しんでいる人々を救うために、神様は救い主イエス様を送ってくださった。このイエス様が律法に違反した私たちの罪の罰を受けて下さったので、私たちはイエス様を信じるだけで罪を赦され、罪のない聖なる者と認められて、神様のみもとに自由に近づくことができるようになる。また、よみがえられたイエス様が私たちに新しいいのちを与えてくださり、聖霊が内に住んでくださるので、私たちは、律法の神髄である『神を愛し、自分と同じように人を愛しなさい』という教えを実践することができる者へと内側から変えられていくのだ」ということです。
 だから、パウロは、ガラテヤ2章16節にあるように「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められるのです」と各地を回りながら力強く語り伝えていったのです。つまり、パウロは、「律法の戒めや儀式を表面的に守っていても決して救われない。律法の最も大切な戒めを本当に実現するためにはイエス・キリストを信じることが必要なのだ」と教えていたのです。
 しかし、ユダヤ人クリスチャンの中には、それを聞いて、「パウロは律法を軽視して、律法など守る必要はないと教えている」と反発する人々がいました。彼らは、生まれてからずっと旧約聖書の律法と伝統的な戒めを守る生活をしてきました。律法や戒めを守ることが当たり前のように日常生活に溶け込んでいて、守らないことなど考えられなかったのです。
 例えば、神の民として選ばれた証拠として、男性は全員割礼を受けていました。しかし、パウロは、「肉体の割礼を受けているかどうかは重要ではない。心の割礼、つまり、心が開かれて救い主を受け入れることが大切だ」と教えていました。
 また、律法にはきよい食べ物と汚れた食べ物の規定があります。これは、神様が「きよい」と「きよくない」の意味を具体的に教えるために定められた規定で、イエス・キリストを信じてきよめられた人々にとっては、もはや必要のない規定です。 しかし、ユダヤ人たちは幼い頃から食物規定を守る習慣が身についているので、豚肉や血の付いた肉やうろこのない魚を食べることには大きな抵抗がありました。
 そのため、ユダヤ人クリスチャンの中には、「キリストを信じるだけでは十分ではない。律法の戒めも守らなければならない。異邦人も律法の戒めを守らなければ、神様は愛してくださらない」と主張する者がいたのです。
 このことは、ずっと教会内の最大の問題の一つでした。そこで、以前、15章で、パウロや長老たちがエルサレムでこの問題について会議をしました。そして、「異邦人クリスチャンに律法を押しつけるのはやめよう。ただし、律法を大切にしているユダヤ人クリスチャンへの配慮として、異邦人クリスチャンは偶像の神に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきである」という教会全体の方針が決められたのです。
 このように教会全体の共通認識ができたこともあって、パウロは「異邦人に律法を強制すべきではない。イエス・キリストの救いだけで十分なのだ」とますますはっきり主張することができたのです。
 でも、だからといって、パウロは「律法などくだらない。無視していい」と言ったわけではありません。「律法は神様が私たちの罪を示し、救い主が必要であることを教えるために与えてくださった大切なものだ。律法の精神を尊重しなければならない」と教えていたのです。
 しかし、パウロの言うことを誤解した人たちが「パウロはモーセの律法や聖書の教えを軽んじている」という噂を流し、それを信じ込んでパウロに反発するユダヤ人クリスチャンたちがエルサレムにも大勢いました。パウロが彼らのために各地の教会から支援金を募って持って来たのにもかかわらずです。
 
4 長老たちの提案
 
 そのユダヤ人たちの誤解を解くために、長老たちはパウロにこう提案しました。「私たちの中に誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて、あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。」この誓願というのは、旧約聖書に出てくるナジル人の誓願というもので、誓願を果たし終えた時に頭をそり、ささげ物をささげる儀式がありました。そこで、長老たちは、パウロが誓願を立てた人々と共にその儀式を行えば、パウロが律法を大切に思っていることの証になるだろうと提案したわけです。
 パウロは、その提案を躊躇なく受け入れました。なぜでしょうか。彼は、第一コリント9章19節-23節にこう書いています。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。・・・それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。」
 ユダヤ人たちにもキリストの福音を正しく理解してもらいたいからこそ、パウロはユダヤ人のように振る舞うことを躊躇しませんでした。もし、ユダヤ人が生活の中で当たり前のように大切にしてきたことを頭ごなしに否定したら、大きな反発や分裂を招いてしまうかもしれません。ですから、パウロは、彼らに配慮して律法の儀式を行うことにしたのです。
 
5 パウロの原則
 
 パウロは、いつも次のような原則に立って行動していました。
 
(1)救いに必要なのはイエス・キリストを信じる信仰のみである。
 
 この福音の原則は決して変えてはなりません。「キリストを信じるだけでは不十分だ。律法を守ることも必要だ」という人々に対しては、パウロは断固として反論しました。私たちも、もし誰かが「イエス・キリストを信じるだけでは十分ではない」と言い出したら、即座に対応し、はっきり否定しなければなりません。
 
(2)すべてのことは個人の自由に任されている。
 
 キリストを信じる信仰によってのみ救われるという大前提がしっかりしていれば、あとのことは、それぞれの自由に任されています。パウロは、ローマ14章5節ー8節でこう書いています。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。」
 それぞれが自分で判断し選び取りながら主のために生きていくことが大切なのです。ですから、互いに比べたり、さばいたり、強制したりしないようにする必要がありますね。
 聖書がはっきり禁じていることもありますが、私たちの自由な判断に任されていることもたくさんあるのです。善でも悪でもなく、してもしなくてもどちらでもいいことがある、ということを理解しておくことはとても大切ですね。
 
(3)配慮が必要である。
 
 ただ、私たちは、そのような善でも悪でもなく、どちらでもいいことについて、判断し選ばなければならない場面に数多く遭遇しますね。しかも、やっかいなことに、捉え方や考え方は人それぞれで迷ってしまうわけです。そんなときの判断基準として、パウロは、第一コリント10章23節ー24節でこう書いています。「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」
 当時、コリントやローマの市場では、偶像に献げられた肉のお下がりが数多く売られていました。その肉を食べていいかどうか、クリスチャンの間に様々な意見がありました。「神様に感謝して食べれば問題ない」と考える人もいれば、偶像にささげた肉を食べることに抵抗を感じる人もいました。もちろん食べるのは自由ですが、偶像に献げた肉を平気で食べる人を見て、つまずいてしまう人がいるかもしれません。だから、「相手につまずきを与える可能性がある場合は、食べないようにする配慮が必要だ」とパウロは教えているのです。
 主にある自由とは、自分勝手な放縦とは違います。私たちには、神様が喜ばれないことや自分や人を傷つけることを「しない自由」があることを忘れないようにしましょう。
 
 パウロは、福音の真理がゆがめられそうになったときには断固として拒否しました。しかし、そうでないかぎり、福音の扉が開かれていくために、人々への配慮を忘れず、臨機応変に対応していったのです。
 私たちは日本に住んでいますので、日本固有の文化的な背景や考え方に直面します。
 しかし、イエス様の御名の他に救いはないこと、そして、その救いは神様からの一方的な恵みであることをしっかりと心にとめましょう。
 また、それと同時に、何事においてもそれぞれが自由に判断して行っていくことの大切さを覚えて、お互いに自分の基準を押しつけたり、さばき合ったりすることのないよう気をつけましょう。そして、一人でも多くの人がキリストの福音を知ることができるように、配慮をもって接していきましょう。
 いつも、神様に感謝し、主のために生きていることを覚えつつ歩んでいきましょう。