城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年七月三日               関根弘興牧師
               使徒の働き二二章一節〜二二節
 使徒の働き連続説教31
   「エルサレムでの弁明」
 
 1 「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。」2 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこでパウロは話し続けた。3 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。4 私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。5 このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。6 ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。7 私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞きました。8 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』と言われました。9 私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。10 私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。11 ところが、その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、いっしょにいた者たちに手を引かれてダマスコに入りました。12 すると、律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が、13 私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ。見えるようになりなさい』と言いました。すると、そのとき、私はその人が見えるようになりました。14 彼はこう言いました。『私たちの父祖たちの神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。15 あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。16 さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』17 こうして私がエルサレムに帰り、宮で祈っていますと、夢ごこちになり、18 主を見たのです。主は言われました。『急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです。』19 そこで私は答えました。『主よ。私がどの会堂ででも、あなたの信者を牢に入れたり、むち打ったりしていたことを、彼らはよく知っています。20 また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの着物の番をしていたのです。』21 すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす』と言われました。」22 人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言った。(新改訳聖書第三版)
 
パウロは第三回伝道旅行の時に各地の教会から集めた支援金を持ってエルサレムにやってきました。エルサレム教会の人々はパウロを歓迎しましたが、エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちの間に、パウロに対する間違った噂が広まっていました。ユダヤ人クリスチャンの中には、クリスチャンになった後も旧約聖書の律法や戒めを守ることを大切にしている人がたくさんいたのですが、パウロが「律法を完全に守って救いを得ることの出来る人は一人もいない。イエス・キリストへの信仰によってのみ救われる」と大胆に語っていたので、「パウロは律法の教えに背いている」と誤解する人が多かったのです。その誤解を解くために、教会の長老たちがある提案をしました。律法の中にある誓願の儀式にパウロも参加して費用を負担すれば、パウロが律法を尊重していることがわかるだろうというのです。ところが、誓願の儀式のためパウロが神殿にいくと、今度は、クリスチャンでないユダヤ人たちがパウロに対して騒動を起こしたのです。
 21章27節ー32節にこう書かれています。「ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼に手をかけて、こう叫んだ。『イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。』彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。」
 異邦人は神殿の内庭に入ることは律法で禁じられていました。もし入ったら死刑です。ですから、パウロがそのような軽率な行動をとるはずがありません。しかし、パウロが伝道旅行で回ったアジアから来たユダヤ人たちは、以前からパウロに対して苦々しく思っていたのでしょう。パウロが異邦人を宮に連れ込んだと思い込み、軍隊が出動する騒動を起こしたのです。
 大変皮肉なことですが、パウロはユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解くために神殿に行ったのですが、こんどは、クリスチャンでないユダヤ人たちの誤解によって、ローマの軍隊に逮捕されてしまったのです。千人隊長は、パウロを尋問するために兵営に連れて行くように命令しました。大ぜいの群衆が「彼を除け」と叫びながらついて来たので、群衆の暴行を避けるために、兵士たちが彼をかつぎ上げなければならなかったほどです。
 パウロは、兵営に連れ込まれようとしたとき、千人隊長にギリシヤ語で「この人々に話をさせてください」と頼みました。パウロが教養のあるきちんとした市民であることを知った千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振りました。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で話し始めました。その内容が今日の箇所に書かれているのです。
 
1 パウロの弁明
 
(1)以前の自分
 
 パウロは、まず、自分の過去を語り始めました。「私もユダヤ人として、皆さんと同じように、それどころか、皆さん以上に律法の教育を受け、律法を厳格に守り、神に熱心に仕えようとしていました。そして、イエスの教えは律法に逆らう神への冒涜だと考え、クリスチャンたちを投獄し処罰するのは、当然だと思っていました。そのことは、ユダヤの宗教指導者たちも証言してくれます」と語りました。つまり、「私も以前は、あなたがたと同じ立場、同じ考え方をしていたのですよ。そして、今、あなたがたが私を取り除こうとしているのと同じように、私は誰よりも熱心にクリスチャンたちを迫害していたのですよ」と語ったのです。
 パウロはユダヤ教の若手のリーダーで、一流の教育を受け、当時誰もが手にしたいと願っていたローマの市民権も持ていました。それなのに、イエス・キリストについて大きな誤解をしていたのです。
 以前、7章でステパノというクリスチャンの殉教の記事を読みましたね。ステパノは愛に満ち、謙遜で多くの人に慕われた指導者でした。しかし、ステパノは、神を冒涜したとしてユダヤ人たちに捕らえられ、石打の刑に処せられたのです。自分を殺そうと石を打ち付けてくる人たちのためにステパノは、天を見つめてこう祈りました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」このステパノの殉教のとき、パウロ(当時は、ユダヤ名のサウロ)は、すぐそばで眺めていました。人々は彼の足もとに上着を置いて石を投げつけたと書かれていますから、彼がステパノの死刑執行の監督者だったのかもしれません。その当時、彼の心はクリスチャンにたいする憎しみと冷酷さに満ちていたのです。
 
(2)イエス・キリストとの出会い
 そのパウロが、エルサレムから遠く離れたダマスコのクリスチャンたちを逮捕し、処罰するため、ユダヤ当局から正式に許可を受けてダマスコへと向かいました。
 しかし、その途中、突然、天からのまばゆいばかりの光に照らされ、パウロは、地に倒れてしまいました。そして、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。「主よ、あなたはどなたですか」とパウロが尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスだ」という答えがありました。
 彼は、光に打たれて何も見えなくなっていました。これは、とても象徴的な光景ですね。彼は、それまで、自分は何でも見える、知っている、キャリアがある、自信もあると思っていました。しかし、神の光に打たれたとき、本当は、何も見えていない、弱く、一人では生きていくことができない自分の姿をまざまざと思い知らされることになったのです。
 イエス様は、マルコ福音書 2章17節で「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言われました。 皆さん、私たちは、自分が健康だ、問題ないと思っているときには医者に行こうとは思いませんね。自分が病気だなと思ったときに行くのです。その時には、「自分の病状についてきちんと説明し、適切な治療をしてもらいたい」と思いますね。
 ところが、お医者さんにこう言われたらどうでしょう。「よくわからないけど、そのまま放っておけばいいじゃないですか。人間はどうせ死ぬのですから。まあ早いか遅いかの違いですよ。」あるいは、こう言われたらどうでしょう。「ここが悪いらしいけど、どうやって治療したらいいかわかりませんね。」こんな医者のところにはもう絶対に行かないぞと思いますね。
 でも、せっかく良いお医者さんに巡り会っても、今度は、あなたがこう言ったらどうでしょう。「先生は、私が胃癌で手術が必要だと言いますけど、検査した胃カメラの性能が悪いんじゃないですか。信じられません。手術なんか受けませんよ。」これでは、お医者さんは治療ができませんね。「ああ、そうですか。それでは、もう私は必要ありませんね。お帰りください」と言うしかありませんね。
 お医者さんに病気を直してもらうためには二つのことが必要です。一つは、病気を治す知識と技術のあるお医者さんのところに行くこと、そして、もう一つは、自分の状態を認め、お医者さんに治療をまかせることです。
 イエス様は、最高の医者です。私たちの根本的な罪の問題を解決できる唯一の方です。ですから、まず、イエス様のところに行くことが必要です。そして、もう一つは、イエス様に示された自分の状態を認めること、つまり、自分が神様との関係がずれた罪人の状態にあることを認めて、イエス様に治療をおまかせするということです。
 以前のパウロは、「私は神様の前で正しく模範的に生きている」と思い込んでいました。しかし、イエス様に出会ったパウロは、自分が根本的に間違っていたことに気づいたのです。そして、10節にあるように、正直に「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねるしかありませんでした。すると、主は、「起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」と言われました。パウロの治療が開始されたのですね。
 
(3)新しい出発
 
 パウロがダマスコに着くと、アナニヤという人が主に使わされてやってきました。アナニヤは「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良い」とわざわざ丁寧に書かれていますね。長い間律法の世界に生きてきたパウロにとって、アナニヤは、安心して心を開ける人だったに違いありません。
 アナニヤは、ます、パウロが経験した出来事の意味を説明しました。「私たちの父祖たちの神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。」そして、単純明快に勧めました。「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」と。「立ちなさい」とは、新しい出発の決意をするということです。「その御名を読んでバプテスマを受ける」とは、「イエス様を救い主として信じて呼び求め、罪の赦しと永遠のいのちが与えられた印として洗礼を受けなさい」ということです。つまり、アナニヤは、「過去にこだわってためらうのではなく、今、イエス様を救い主として信じ、新しい出発をしなさい」と勧めたのです。
 私たちは、物事を「たら・れば」で考えることがよくありますね。「もっと愛せるようになったら、変われると思います」「もう少し聖書のことがわかるようになったら、洗礼を受けます」「まわりの状況が変われば、イエス様を信じようと思います」「あの人が私を理解してくれれば、うまくやれると思います」など、など、皆さんも思い当たるのではないでしょうか。
 しかし、アナニヤは、勇気と決断を持って、すぐに新しい出発をするように励ましたのです。一歩踏み出せば、そこに神様がみわざを現してくださるからです。
 アナニヤの祈りによって、目が見えるようになったパウロは、すぐに洗礼を受け、新しい人生を出発しました。そして、イエスは神の子であると宣べ伝え始めたので、ダマスコの人々はびっくりしました。クリスチャンを迫害するために来たはずのパウロがクリスチャンになってしまったからです。パウロは、それまでに蓄えていた旧約聖書の知識を使って、イエスがキリストであることを力強く証明していきました。それを見て「ミイラ取りがミイラになった!」と非難する人や「裏切り者」とレッテルを貼る人もいました。そして、パウロ殺害を企む人々もいたのです。そこで、パウロはダマスコを脱出し、エルサレムに向かいました。
 
(4)新しい使命
 
 エルサレムの人々も百八十度変わったパウロを見て驚愕したことでしょう。教会の人々でさえ最初はパウロが本当にクリスチャンになったとは信じられませんでした。しかし、バルナバがパウロのダマスコでの様子を報告し取りなしたおかげでパウロは教会に受け入れられたのです。
 17節に「宮で祈っていますと」とありますが、パウロは、これからの導きを主に求めていたのかもしれません。すると、主が現れ、「急いでエルサレムを離れなさい。生きなさい。わたしは、あなたを遠く、異邦人に遣わす」と言われたのです。
 エルサレムのユダヤ人たちも裏切り者パウロを殺してしまおうと計画していたのでしょう。主は、パウロを守り、異邦人に福音を伝えるという使命をお与えになりました。
 使命に生きることができる人生は、幸いだと思いませんか。皆さんは、「あなたは何のために生きているのですか」と聞かれたら、何と答えますか。「私に使命があるかな」と、とまどってしまうかもしれませんね。
 でも、私たちクリスチャン一人一人に与えられている使命が1章8節に書かれていましたね。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」これは、使徒や一部の弟子たちだけに語られた言葉ではありません。イエス様を信じて生きている一人一人がキリストの証人とされているのです。証人とは、本来は、裁判所で証言する証言者という意味です。「イエス様は、まことの救い主です」と証言することが私たちの使命なのです。 といっても、自分で頑張って言い広めなければならないと言うことではありません。以前にもお話ししましたが、私たちの日常生活の些細な出来事の一つ一つに神様の恵みと支えを見いだして感謝していくときに、その生活を通して神様の栄光が現れていくのです。イエス様御自身が、あなたの人生を通して御自分が救い主であることを現し続けてくださるのです。それも、永遠の天の御国に至るまでです。
 詩篇34篇8節に「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」と書かれています。主のうちにとどまり、主のすばらしさを味わい、見つめていくときに、主の証人とされていくのです。
 でも、こういう方がおられるかもしれませんね。「先生、そんなこと言っても、思うように事が進まないし、辛いことばかりで、主のすばらしさを味わえないのですよ」と。そういう時は、まずは正直に主に打ち明けてください。パウロも目が見えなくなったとき、「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか」と主に尋ねましたね。私たちも同じです。主よ、どうしたらよいのでしょうか、と正直に尋ねればいいのです。そうすれば、主が行くべき道を開いてくださいます。
 そして、主の素晴らしさを味わうことができたら、すぐにあたりかまわず語るのではなく、まずは、そのすばらしい恵みをよく味わい、自分の中に蓄えていきましょう。そして、主に導かれたときに、必要な人に対して、必要なことを語れるように備えていくのです。主は、様々な経験を通して、御自身の豊かな愛と恵みを味わわせてくださり、私たちをイエス・キリストの証人として成長させてくださるのです。
 
2 群衆の反応
 
 さて、パウロは群衆に向かって、自分の生涯に起こったことを丁寧に話しました。しかし、残念ながら、彼らは聞こうとしませんでした。パウロの話の途中で、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と叫び暴徒化し始めたのです。パウロは、ユダヤ人たちの共感を得るために、ヘブル語で話しましたが、彼らは理解しようとしませんでした。これまで、パウロの説教を聞いた多くの人が主イエス様を信じ、大きな喜びが沸き起こったことが何度もありました。しかし、ここでは、パウロの説教は全否定されてしまったのです。
 そこで、千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れ、むち打って取り調べようとしましたが、パウロがローマ市民権も持っていることを知って大変驚きました。ローマ市民権を持つ者を裁判にもかけずに不当に逮捕したり罰したりしたら、千人隊長が責任を取らされるからです。千人隊長は、すぐにパウロの鎖を時、丁寧に対処することにしました。
 その結果、この後、パウロは、ユダヤ議会の中で、また、ローマ総督や王の前で、福音を語る機会を与えられていくことになります。そして、最終的には、ローマで裁判を受けるために、兵隊たちに護衛されてローマに行く道が開かれていくのです。
 神様の方法は、素晴らしいですね。パウロは、人間の知恵によって神殿に行きましたが、予期せぬ結果となってしまいました。しかし、この予期せぬ出来事によって、普段は会うことのできないような人々にまで福音を語り、さらには、ローマに行くことができるようになったのです。