城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年七月一〇日             関根弘興牧師
          使徒の働き二二章三〇節〜二三章一一節 使徒の働き連続説教33
   「ユダヤ議会での弁明」
 
 30 その翌日、千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人に告訴されたのかを確かめたいと思って、パウロの鎖を解いてやり、祭司長たちと全議会の召集を命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせた。1 パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」2 すると大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。3 そのとき、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」4 するとそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか」と言ったので、5 パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書いてあります。」6 しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」7 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。8 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。9 騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかもしれない」と言った。10 論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。(新改訳聖書第三版)
 
パウロは、第3回伝道旅行を終えた後、主に示されてエルサレムにやって来ました。エルサレム教会の長老たちは歓迎してくれましたが、エルサレムのユダヤ人クリスチャンの中に、パウロについて誤解している人々がいました。パウロが「私たちは、律法の行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです」と教えているのを聞いて、「パウロは、律法に背くことを教えている。ユダヤ人が大切に守ってきた慣習を軽んじている」という間違った噂が広まっていたのです。その誤解を解くために、長老たちは、パウロに律法に従って誓願の儀式に参加するように勧めました。パウロは、その勧めに従いました。
 しかし、パウロが誓願の儀式のために神殿に入っていくと、今度は、クリスチャンでないユダヤ人たちが騒ぎ始めました。異邦人は神殿の内庭に入ることは律法で禁じられていたのですが、彼らは、パウロが神殿の中庭に異邦人を連れ込んでいると勘違いして騒ぎ始め、ローマの治安部隊が出動するほどの騒動になってしまったのです。
 ローマ軍の千人隊長は、パウロを暴徒の中から連れ出して兵営に連れ込もうとしましたが、パウロは千人隊長に頼んで、兵営の入り口に立って、ユダヤ人の群衆にヘブル語で語り始めました。その内容が前回の箇所に書かれていましたね。パウロはこう語りました。「私も、以前は、あなたがたと同じように、イエスは律法に背いて神を冒涜していると思っていました。そして、クリスチャンたちを激しく迫害していました。しかし、イエス・キリストに出会って、目が開かれ、自分の愚かさに気づいたのです。そして、主が私に新しい人生と使命を与えてくださったのです」と。しかし、群衆は、パウロの話を聞こうとしませんでした。パウロの話を途中で遮って、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と叫び始めたのです。そこで、千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れ、むち打って取り調べようとしましたが、パウロがローマ市民権を持っていることを知り、正式な裁判にかけることにしました。ただ、今回の騒動はユダヤ人の宗教に関することだったので、まず、ユダヤ人の最高議会を招集し、ユダヤ人たちがパウロを訴えている理由を確かめることにしたのです。
 
1 パウロの第一の弁明
 
 パウロは、議会に集まったユダヤの指導者たちに向かって、こう語り出しました。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」
 私たちは、こんなことをなかなか言えませんね。パウロは少し自信過剰なのではないかなと思ってしまいますね。「自分は完全で非の打ち所のない生活をしてきた」と言っているように聞こえるからです。この言葉は、新改訳二〇一七では「あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」と訳されています。パウロは、何を言おうとしていたのでしょうか。
 ここで使われている「生活する」という言葉は、名詞形では「国籍」と訳される言葉です。ピリピ3章20節に「私たちの国籍は天にあります」という有名な言葉がありますね。ですから、この「生活して来た」とは、「ある国に属している市民としてふさわしく生活してきた」という意味として解釈できます。
 パウロは、由緒ある家系の生まれで、律法を厳格に守るパリサイ派に属して生活していました。厳しい戒めを守ることこそ、神に喜ばれる正しいことだと考えていました。つまり、パウロは、「自分はこれまで、旧約聖書の教えを大切にするユダヤ人の一員としてふさわしく歩んできた」と語ったわけです。それは、神様の前でも、自分の良心に照らしても、はっきり言えることだというのです。
 ただ、いくら動機が純粋でも、自分が正しいと思っていても、どんなに熱心であっても、間違った行動を取ってしまうことがありますね。パウロも、以前は、クリスチャンたちが神様を冒涜していると考え、クリスチャンたちを熱心に迫害していました。それが、神様のみ前で、自分の良心に照らして、正しいことだと思い込んでいたのです。
 しかし、イエス・キリストに出会い、自分の間違いに気づいたパウロは、後に第一テモテ1章13節ー16節にこう書いています。「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。・・・『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」
 ユダヤの最高議会は、ユダヤ社会の最高議決機関で、祭司たちや律法学者たちなど神様に仕える人々が集まっていました。彼らは、ユダヤ社会の中で宗教的に正しいと思うことを教え、神様に喜ばれる道を人々に示そうとしていました。中には、私利私欲に走り、自分の為に権力を乱用する議員もいたでしょうが、パウロと同じように「きよい良心をもって、神の前に生活する」ことを心がけている議員も多かったはずです。そういう議員たちに向かってパウロは、こう言いたかったのではないでしょうか。「私は、今日まで、あなたがたと同じように、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。しかし、救い主についての正しい知識を持っていなかったために、大きな間違いを犯してしまいました。しかし、神様は、私が知らないで犯してしまった罪を赦してくださいました。神様に熱心に仕えたいという私の心を知っておられ、私に大きなあわれみを示してくださったのです。こんな罪人のかしらである私でさえ救ってくださる神様なのですから、あなたがたも必ず救ってくださいます」と。
 
2 大祭司アナニヤの反応
 
 しかし、パウロの最初の言葉を聞いた大祭司アナニヤは、激怒して、パウロのそばに立っている者たちに「彼の口を打て」と命じました。アナニヤにとって、パウロは、宮を汚し、エルサレムを混乱させた男にしか見えませんでした。それなのに、パウロが「私は、全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました」などとぬけぬけと語るものですから、我慢ならなかったのです。
 そのアナニヤに対して、パウロは言いました。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」
 旧約聖書エゼキエル書13章10節-12節にこう書かれています。「実に、彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。すると、壁が倒れ落ちる。人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか』と言わないだろうか。」
 また、イエス様は、マタイ23章27節で、当時の宗教家たちに対してこう言われましたね。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。」
 つまり、「白く塗った壁」とは、外側は白く綺麗に塗ってあるけれど、内側が腐っている壁のことです。パウロは、アナニヤに「あなたは偽善者だ。外側は立派に見せかけているけれど、内側は腐っている」と言い放ったわけですね。偽善者は、外側を取り繕うことばかりに熱心で、自分が罪人であることを認めようとしないので、救い主を求めようとしません。だから、パウロは、「神があなたを打たれる」と厳しく宣告したのです。
 ちなみに、この大祭司アナニヤは、当時、悪名高く、聖職者として最もふさわしくないと言われた人物だったそうです。当時はローマ政府の支配下にあったので、大祭司もローマ政府の意のままに任命されていたのですね。
 パウロがアナニヤを痛烈に批判すると、そばに立っている者たちが「あなたは神の大祭司をののしるのか」と非難しました。すると、パウロは、「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書いてあります」と答えました。パウロが引用したのは、出エジプト記22章28節の「神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない」と書かれている箇所です。大祭司を含め、民の指導者たちをのろってはいけないという命令です。ただし、この言葉には条件があります。それは、「その指導者が神様の前に正しく歩んでいるなら」という条件です。指導者だからといって、私利私欲に走って不正を行ったり、民を苦しめるなら、神様のさばきを受けることになるのです。
 ところで、パウロは「私は彼が大祭司だとは知らなかった」と言っていますが、本当に知らなかったのでしょうか。当時、ユダヤ議会の議長は大祭司が行うことになっていましたから、パウロが知らないということはなかったのではないかと思われます。パウロは、アナニヤが大祭司であることを知っていたけれど、皮肉を込めて、「あなたのような人が大祭司だなんて信じられませんね」という意味で「知らなかった」と言ったのではないでしょうか。それでも、パウロは、旧約聖書を引用して非礼を認め、自分も議員たちと同じように旧約聖書の律法を熟知し、尊重し、従う者であることを示したのです。
 
3 パウロの第二の弁明
 
 そして、パウロは、弁明を再開しました。しかし、それは、大変短いものでした。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」と叫んだのです。
 パウロは、議会でイエス・キリストの名前を出しませんでした。ただ「死者の復活という望みのこと」と言っただけです。また、「私はキリスト者です」と言わず、「私はパリサイ人です」と言いました。なぜでしょうか。
 議員たちは、皆、宗教の専門家で、ユダヤ社会の指導者ですから、イエス様が公の活動を開始された時からずっと、イエス様が何を教え、何を行っているかを調査し、監視していました。イエス様と激しい議論を戦わせたこともありました。また、以前、4章ではペテロとヨハネを捕らえて議会で尋問したことがありましたし、5章でもペテロや使徒たちを議会で尋問しました。そのいずれの時にも、ペテロがイエス・キリストの福音を大胆に語ったのです。そのときからはかなりの時間が経過していますが、議員たちの多くはクリスチャンたちが何を信じ、何を伝えようとしているかその内容を知っていたはずです。
 そこで、パウロは、単刀直入に福音の最も本質的な問題を提示しました。それが、「死者の復活」ということです。
 パウロは、第一コリント15章13節ー14節でこう書いています。「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
 「死者の復活」こそ、イエス・キリストの福音の土台となるものです。イエス様が復活されたからこそ、イエス様が本当に神から遣わされた救い主であること、そして、私たちの罪がイエス様の十字架によって完全に贖われたことが証明されました。また、イエス様が復活されたからこそ、イエス様のすべてのことばが真実であり、イエス様の約束が必ず実現すると確信することができます。また、イエス様が復活されたからこそ、私たちもいつか復活して永遠の御国で生きる希望を持つことができるのです。ですから、イエス・キリストの福音を受け入れるためには、まず、復活があることを認める必要があるわけです。
 ところで、議会には、サドカイ人とパリサイ人という二つの大きな宗教グループの人々がいました。
 サドカイ人は、エルサレム神殿を中心とする祭司家系の裕福な特権階級でした。彼らは旧約聖書のモーセの五書(創世記から申命記まで)を重んじ、死者の復活、死後の生命、御使いや霊の存在を否定していました。自分たちの政治的立場を守ることに熱心で、宗教的なことよりも世俗的なことに関心を持っており、クリスチャンたちが起こす騒動によって自分たちの立場が危うくなるのを恐れていました。
 一方のパリサイ人は、律法や戒めを厳格に守ることを大切にしていました。多くの律法学者を輩出し、各地の会堂や学校で教えていました。旧約聖書全体を尊重し、死者の復活を信じ、救い主の到来を期待していました。しかし、イエス様が「律法を完全に守ることによって救われることは不可能だ」と教え、また、表面的に律法を守っているだけのパリサイ人たちを批判なさっていたので、反感を持つパリサイ人も多かったのです。
 しかし、サドカイ人と違って、パリサイ人は、聖書の教えを尊重し、真剣に神様に仕えようとしている人々が多く、死者の復活を信じ、救い主の到来も信じていました。以前、議員の一人でパリサイ人のニコデモがイエス様のもとに教えを請いに来たことがありましたし、また、5章でペテロや使徒たちの取り扱いについて議会で議論したとき、律法学者でパリサイ人のガマリエルが「あの人たちを放っておきなさい。もしその計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼすことは出来ないし、あなたがたは神に敵対する者になってしまうかもしれません」と説得したこともありました。ですから、パウロは、パリサイ人の中に自分と同じように復活した救い主イエスを信じる人が起こされる可能性が高いと考えたかもしれません。それで「私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です」と言ったのかもしれませんね。そして、死者の復活のことで議論を引き起こすことによって、パリサイ人だけでなく一人でも多くの議員が永遠について真剣に考え、イエス・キリストに導かれるようにと願ったのかもしれません。
 パウロは、こう言いたかったのかもしれませんね。「私は、パリサイ人であり、以前から死者の復活を信じていましたが、実際に復活したイエス・キリストにお会いして救われたのです。あなたがたも死者の復活についてもっと真剣に考えてください。もしイエス様が本当に復活したなら、この方を神の御子として信じるべきではありませんか」と。
 さて、このパウロの放ったひと言で、議会は混乱状態になってしまいました。サドカイ派の人々は復活などないと主張し、パリサイ派の人たちは復活があると主張し始めました。そして、パリサイ派の中には、パウロを擁護しようとする人さえ出始めたのです。議会はもはや両者の論争のるつぼと化し、大混乱になってしまいました。そこで、千人隊長は、パウロをその場から力づくで引き出し兵営に連れて来るように命じたのです。
 
4 主のことをあかしする使命
 
 前回、パウロは群衆に語りかけましたが、彼らは聞こうとせず、大混乱になりました。今回は、パウロは議会で語りましたが、やはり大混乱で終わりました。
 ですから、エルサレムでのパウロの弁明は失敗だった、何の成果も生み出せなかったと言う人がいます。確かに、成果だけみたら、失敗としか思えないかもしれません。
 しかし、11節で、主はパウロにこう言われました。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」
 大切なのは、イエス様ご自身から「あなたはわたしのことをあかしした」と言っていただくことです。パウロは、議会ではイエス様のお名前すら口にしませんでしたが、主は「あなたはエルサレムでわたしのことをあかしした」と言われたのです。
 私たちは結果を求めるあまり、このイエス様の言葉を忘れてしまうことがありませんか。私たちは、いつも結果で判断する誘惑にかられます。結果がすべてだと言う人が多いですが、利益を追求する企業ならその通りでしょう。でも、教会の働きは少し違うのですね。例えば、集会で百人来たら大成功で、十人しか来なかったら失敗なのでしょうか。多くの人が信じたら大成功で、信じる人が起こらなかったら失敗なのでしょうか。良い準備をして備えることは大切ですが、一番大切なのは、イエス様から「わたしのことをよくあかししてくれた」と言っていただくことなのです。そう言っていただければ、それで十分ではありませんか。
 しばらく前ですが、ある教会の集会に呼ばれて説教をすることになりました。集会が始まる前に牧師が「今日は五人の決心者が起こされることを願って祈っています」と言われるのです。なぜ五人なのかわかりませんが、その先生の熱意は理解できました。しかし、誤解を生む表現だなと思いました。私が人を導くわけではありませんからね。大切なのは、その集会で語られる言葉や示される態度が主御自身から「わたしのことをよく証言してくれた」と言っていただけることです。結果がどのようなものであってもです。
 また、主は、パウロに「勇気を出しなさい」と言われました。思うようにいかず、全否定され続けているパウロにとって、この主の言葉はどれほどの慰めとなったことでしょう。
 そして、主はさらに、「あなたは、エルサレムであかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と告げられたのです。パウロにとってエルサレムに来るのは命がけのことでした。殉教も覚悟していたでしょう。しかし、主イエス様は、どんな混乱状態の中にあっても、新たな道を開き、導いてくださいます。いや、それどころか、混乱状態をも益に替えて、最善の道を用意してくださるのです。そのことを、次回からも見ていきましょう。