城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年七月四日              関根弘興牧師
                 創世記一一章一節ー九節
 
 創世記1ー11章連続説教8
    「バベルの塔」 
 
 1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(新改訳聖書第三版)
 
 創世記1章から11章までを続けて学んできました。今日は最終回です。
 前回は、ノアの箱舟についてお話ししましたね。
 神様は、愛をもってこの世界を創造されました。創造されたばかりの世界は「非常に良かった」のです。しかし、人は、神様のもとを離れ、自分が神のようになってすべてを支配することを求めるようになりました。その結果、先週読んだノアの時代には、地は暴虐に満ち、人々は、自ら滅びを招くような生活をするようになっていたのです。そこで神様は、人々を大洪水で滅ぼすことになさいました。ただ、神様を信頼していたノアとその家族には救いの道を用意してくださったのです。神様は、ノアに大きな箱舟を造らせました。箱舟が完成し、ノアとその家族と動物たちが乗り込むと、雨が降り始め、大洪水が地を覆いました。そして、ノアたちは、地が乾くまでの約一年間、箱舟の中で生活したのです。ノアたちは、箱舟から下りると、まず祭壇を築いて神様を礼拝し、新しい生活をスタートしました。
 そのノアたちに、神様は、永遠の契約をお与えになりました。「これからは、もはや大洪水で人を滅ぼすことはしない」という契約です。この契約は、二つのことを表していました。
 一つは、「大洪水によっては、本当の救いをもたらすことはできない」ということです。罪人をその罪の故に罰して滅ぼすことをいくら繰り返しても、人の罪の性質は変えることはできません。大洪水を何度起こしても、いつまでたっても根本的な罪の問題は解決できず、本当の救いはないのです。つまり、神様が「もはや大洪水で滅ぼすことはしない」と言われたのは、「ただ人を罪のゆえに罰するだけでは、決して本当の救いは成就しない」ということを教えておられるわけです。そして、神様は、人の罪の問題を根本的に解決して救いを与えるために、別の道を備えてくださいました。それは、神のひとり子、救い主イエス・キリストを信じるという道です。イエス・キリストが私たちの代わりに十字架ですべての罪の罰を受けてくださり、復活によって私たちに新しいいのちを与えてくださる、そのことを信じるなら、私たちは誰でも罪を赦され、永遠のいのちをもって神様とともに生きていくことができる、つまり、本当の救いを得ることができるのです。神様の「わたしは、あなたを滅ぼさない」という約束は、イエス・キリストによって成就されるのです。
 神様の「もはや大洪水で人を滅ぼすことはしない」という契約が表しているもう一つのことは、「神様がさばきのために大洪水を起こすことは、もう二度とない」ということです。神様は、「これからは、種蒔く時も、刈り入れの時も、暑さも寒さも、夏も冬も、昼も夜もやむことはない」という約束してくださいました。「自然界は規則正しく季節を繰り返していきますよ」という約束です。時には、地域的な洪水や氾濫が起こりますが、それは季節の巡りであって、さばきのしるしではないということなのです。
 そして、神様は、「虹は、わたしと地との間の契約のしるしとなる」と言われました。虹は、雨が上がり、光が差し込むときに現れます。つまり、虹は、嵐の後の平和と安息の象徴です。神様は、それは、これから大水が襲ってきても、必ず雨はやみ、光が差し込み、平和が、憩いが、安息が訪れるという約束なのです。虹は、私たちが決して失望に終わることがないという約束のしるしです。暗くたれ込めた雨雲があっても、人生に暗闇や困難があっても、やがて光りが差し込んでくるという希望の契約のしるしなのです。
 さて、今日は、その続きです。
 ノアには、セム、ハム、ヤペテという三人の息子がいました。10章には、この息子たちから生まれた諸民族の名前が記されています。この系図は、正確さを目的としているというよりは、七十の民族を紹介することによってすべての人類を表そうとしているのだ、と考えることができます。つまり、すべての民族は一つのルーツから出ているのですよ、ということを伝えたいわけですね。つまり、聖書を読んで、「これは私とは全く関係ないことだ」と言える人は誰一人いないということなのです。
 ところで、10章には、ノアの息子たち三人の子孫が紹介されていますが、11章10節からは、特にセムの子孫の系図だけが改めて詳しく記されています。なぜなら、このセムの子孫から、有名なアブラハム、モーセ、ダビデ、そして、救い主イエス・キリストが誕生するからです。つまり、11章10節以降は、聖書は、もっぱらセムの子孫に焦点を当てて、救い主に至るまでの歴史を記しているのです。ですから、11章9節と10節の間に大きな区切りがあるわけですね。
 この区切りの直前に記されているのが、今日読んだ「バベルの塔」の出来事です。この出来事がいつ起こったのかは、はっきりと書かれていませんが、いくつかの説があります。
 一つは、10章8節ー12節に登場するニムロデという人物の時代ではないかという説です。ニムロデがつくった町の一つがバベルという名前でした。ニムロデは、「地上で最初の権力者となった」と書かれています。また、「主のおかげで力ある猟師にになった」と書かれていますが、彼は、神様の支えによって力を得たのにもかかわらず、自分自身が神の力を手に入れたと思い上がっていたのかもしれません。
 もう一つの説は、10章25節に名前が記されているペレグの時代にバベルの塔の出来事が起こったのではないかというものです。こう書かれています。「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。」ペレグとは「分ける」という意味の言葉に由来する名前です。この「地が分けられた」というのが、人々が全地に散らされたバベルの塔の出来事ではなかったかと考えるのです。
 しかし、いつの時代に起こったにせよ、バベルの塔の出来事は、10章1節の「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である」という大見出しの後に記されているのですわけですから、セム、ハム、ヤペテの子孫である私たちすべての人間と関係のある出来事であったことに違いありません。
 それでは、どんなことが起こったのでしょう。
 
1 一つのことば
 
 人々は、一つのことばを使って生活していました。
 言葉が統一されているということは、国を統治していくためにはとても大切です。歴史の中で大帝国を築いた人たちは皆、言語の統一を考えました。たとえば、ギリシャ帝国を築いたアレキサンダー大王は、ギリシャ兵同士が、それぞれの出身地のギリシャ語の方言が強くてコミュニケーションがとれず、命令系統がうまく機能しなかったことに危機感を覚えて、ギリシャ語の学者を動員し、ギリシャ語の共通語を作らせたといわれています。それが「コイネー・ギリシャ語」といいまして、後のローマ帝国の時代に公用語として利用されました。新約聖書もコイネー・ギリシャ語で書かれたのです。
 言葉は、コミュニケーションの大切な手段です。それとともに、物事の本質や考え方を伝えるために非常に大切なものです。私もこうして毎週説教をしていますが、言葉を用いているわけです。毎週の説教が言葉なしなら、説教者は楽ですが、皆さんは、いったい聖書が何を伝えてようとしているのかまったくわからないと思います。ですから、言葉を大切にするわけです。 しかし、言葉というものはその使い方を間違うと大変です。言葉によって正しいことも伝わりますが、間違ったこともすぐに伝わるからです。ですから誰かが巧みな言葉によって誤った思想を植え付け、人々をコントロールすることも容易にできてしまうのです。そういうことを考えると、私たちは何を語るかということを、いつも注意しなければなりません。言葉の持つ力が人に真の自由を与えることもあれば、逆に、人を縛り付けてしまうこともあるからです。
 今日の箇所は、言葉が人々を危険な生き方に誘う大きな原動力となっていたことを教えています。
 
2 塔の建設 
 
 当時の人たちは、言葉が一つだっただけでなく、考え方も同じであったようです。彼らは互いに「さあ、町を建て、頂が天に届く塔を建てよう」と呼びかけて、一致団結したからです。彼らは、れんがや瀝青を使って高い塔を建てる技術を持っていました。協力して熱心に塔の建設を進めていきました。
 もちろん、仕事に精を出すことは悪いことではありません。一つ心になって何かをするのは悪いことではありません。大きな成果をあげることができるでしょう。
 しかし、動機が間違っていました。間違った目的のために、心を一つにしていたというのです。彼らの目的は、「頂が天に届く塔を建てる」ということでした。つまり、「神の住まい」「神のみもと」に達しようとすることであり、それは自分たちが神と同じようになろうとすることでした。
 以前にもお話ししましたように、人は、アダム以来、みな罪の性質を引き継いでいます。エデンの園での出来事を思い出してください。アダムとエバは、神様から禁じられていたのにもかかわらず、「善悪を知る知識の木」から実を取って食べてしまいました。なぜでしょうか。「その実を取って食べると神のようになれる」と誘惑されたからです。しかし、実を食べた彼らは神のようになれたでしょうか。なれませんでした。かえって惨めな自分の姿に気づき、神様のもとを離れてしまうことになったのです。それ以来、人は、「神のようになろう」とする愚かな失敗を何度も繰り返していきました。今日の箇所でも、「自分たちの力と技術を用いれば神の世界にまで達することができる」という思い上がった姿を見ることができますね。
 そして、彼らが塔を建てるもう一つの目的は、「名をあげる」ということでした。彼らは、自分たちの名をあげるために塔を建てようとしたのです。
 私たちは、毎週の礼拝で「主の祈り」を祈ります。その中に「御名があがめられますように」いう祈りがありますね。どんな場所や状況の中でも神様の御名があがめられていきますように、と祈るわけです。でも、バベルの塔を建てている人々は、神様の御名があがめられる、などということは眼中にありません。ただ、自分たちの力で頂きが天に届く塔を建て、自分たちの名をあげようとしたのです。そして、その快感の上にいつまでも留まり、力を誇示しようと考えていたわけです。
 神様は、人をお造りになったとき、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と命令なさいました。「与えられたこの世界を有効に用い、ふえ広がっていきなさい」と祝福をもってお命じになったのです。しかし、人は、自分たちが神のようになり、名をあげることによって、全地に散らされることがないようにしようと考えたのです。神様の命令を無視し、神様にまるで肩を並べるかような振る舞いをしていこうとしたわけです。しかし、そういう生き方は、どこかでほころびが出て躓いてしまいます。
 
3 神様の介入
 
 この出来事に対して、神様はどのように介入されたのでしょう。5節に「そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた」と書かれています。なんと皮肉な表現でしょう。人は、一生懸命、天に届く塔を建てているんです。しかし、神様はそれを見て、降りて来られた、というのです。想像してみてください。シヌアルの平野で彼らは高い塔を建てるために煉瓦を積み上げていくわけです。人から見れば、ずいぶん高く積み上げたように見えたでしょう。しかし、神様がご覧になると、まるで米粒ほどの小さな突起のようなものにすぎません。神様が降りて来なければ見えないような、小さな、小さな物に過ぎないのです。人間が神のようになろうとすることも、天に届く塔を建てようとする試みも、神様の目から見れば、滑稽な姿です。しかし、人は、そのことに気づかず、その手の働きをやめようとはしませんでした。
 6節で、神様は、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない」と言っておられますね。もちろん神様はどんなことでも止めることができるお方です。しかし、人が一つとなって何かを行おうとするなら、とんでもない力を発揮し、考えられないようなことができるということを神様はご存じです。神様が人に優れた知性とは大きな可能性をお与えになったからです。多くの発明がなされ、技術が進み、様々なものが次々と生み出されていきました。しかし、人が間違った動機で一つとなって力を発揮していくなら、それは大変な悲劇につながることを、今までの歴史が繰り返し証明していますね。
 そこで、神様は、7節で 「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」と言われました。
 「ことばが混乱し、互いにことばが通じなくなる」とは、どういうことでしょうか。それまでの発音やアクセントが瞬時に変わって外国語のようになってしまったということもあるかもしれませんが、それよりも、互いの意思の疎通が出来なくなってしまった、心が通じ合わなくなってしまったということですね。これまで、心一つにしてレンガを積み上げていた人々が、互いに耳を貸さなくなり、分裂が起こってきたのでしょう。「名をあげよう」と頑張っていたけれど、なんであの人の名前が一番最初にくるのだ、というような不平不満も出てきたのでしょう。いつしか、互いの言葉を聞こうとしない、耳を傾けることも、耳を貸すこともできない、そのような状態になってしまったのです。そして、結局、彼らの「神のようになるために天にも届く塔を建てる」という壮大な事業は頓挫し、団結心も失われ、彼らは地の全面に散っていってしまったのです。
 これは、遙か昔の出来事ですが、今日でも同じようなことが日常的に起こっているように思いますね。人間の高慢さがコミュニケーションを破壊し、結局、混乱や分裂しかもたらさなかったというのは、よくあることです。また、お互いに理解できない、心を通わせることができない、という経験もたくさんありますね。バベルの塔の出来事は、罪の中にいる人の典型的な姿を示しているのです。
 
4 神の門
 
 9節に、「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから」とあります。ここでは、言葉の語呂合わせがなされています。「その町の名は、『バベル』と呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱『バラル』させたから」と書かれているのです。
 「バベル」とは「神の門」という意味です。人々は、自分たちが築いた町を、この場所は「神の門」だ、神が出入りする特別な場所だという意味で「バベル」と名付けたわけです。ところが、聖書は、その町の名前は「混乱」を意味しているのだと教えているのです。
 人々が「神の門」と呼んだ町は、まことの神の門ではありませんでした。人がいくら頑張って神のようになろうとして高い塔を建てても、自分で神の門を開くことなどできないのです。
 では、本当の神の門とは何でしょうか。まことの神様にお会いできる門、神様のみもとに通じる門はどこにあるのでしょうか。それは、聖書にはっきりと書かれています。ヨハネ10章9節で、イエス様はこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」また、ヨハネ14章6節では、イエス様はこう言っておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
 何と幸いなことでしょう。私たちは、神様のもとに上るために自分で頑張って天に届く何かを作る必要はありません。なぜなら、神様御自身が天から私たちのもとに下って来てくださったからです。それが神の御子イエス・キリストです。私たちは、イエス様を通して神様を見、神様を知り、神様のみもとに近づき、神様の救いを受け取ることができるのです。イエス・キリストこそ、「神の門」そのものなる方なのです。この門は、私たちの目の前にいつも開かれていて、信じる人は誰でも入ることができます。
 また、ガラテヤ3章26節ー28節には、こう書いてあります。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」キリストを信じて神様のもとに集められた人はみな、互いを隔てる壁が取り除かれて、一つとされているというのです。それは、皆が同じような人間になるという意味ではありません。いろいろな違いはあるけれども、同じ主に信頼し、同じ主の愛と恵みを受け、同じ希望を持ち、同じ神の家族に属する者として、互いを尊重し、補い合いながら一つとされているということなのです。
 そして、イエス様は、マタイ28章19節-20節で、こう命じておられます。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」また、使徒の働き1章8節では、こう約束されています。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」主にあって一つとされた人々は、神様に支えられて世界中に広がっていくというのです。
 バベルの塔を作ろうとした人々は、神様の命令に逆らい、自分たちが散らされないように、天に届く塔を建て、自分たちの名をあげようとしました。しかし、その結果は、混乱と分裂と離散でした。
 それとは逆に、私たちは、天から下って来られた救い主イエス様を信じるなら、キリストにあって一つとされ、神様の御名があがめられることを喜ぶ同じ思いをもって、世界中に神様の恵みを運ぶ者とされるのです。
 そのことについて書かれているのが、新約聖書の「使徒の働き」です。ですから、来週から「使徒の働き」を読んでいくことにしましょう。そして、まことの神の門であるキリストを通して与えられる素晴らしい恵みを味わっていきましょう。