城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年六月一九日            豊村臨太郎牧師
           マルコの福音書一四章三二節〜四二節
                  
 マルコの福音書連続説教19
 「ゲッセマネの祈り」
 
 32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。
38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。
41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(新改訳聖書)
 
 マルコの福音書からイエス様の生涯を学んでいます。特に、地上での最後の一週間に起こった出来事です。前回は、イエス様と弟子たちの「最後の晩餐」を読みました。そこで、イエス様は、パンを割き、「これはわたしのからだです」と言って、弟子たちに配られました。パンは、イエス様がかけられる十字架を指し示すものでした。イエス様が与えてくださる、十字架の救いを信じて、受け取りなさいというメッセージでした。また、パンだけではなく、イエス様はぶどう酒の入った杯をおとりなり、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために、多くの人のために流されるものです」と言われました。ぶどう酒は、イエス様が十字架で流される血が、全ての人の罪を完全に赦すものであるということを、象徴するものでした。そして、「最後の晩餐」の、このときから、イエス様の十字架による救いを記念する「聖餐式」が始まったということも学びました。
 さて、「最後の晩餐」の後、イエス様一行は、エルサレムの町から郊外へと出て行かれました。もう、夜も更けて、あたりは暗くなっていました。エルサレムの、すぐ東側にはオリーブ山という山がありました。その傾斜には、当時、裕福な人たちが作ったいくつもの園がありました。その中の一つに、「ゲッセマネ」と呼ばれる園がありました。「ゲッセマネ」には「油絞り」という意味があります。オリーブ山には、沢山のオリーブの木が植えらえていました。そして、その実から、油を搾り取る場所、それがゲッセマネの園でした。一説によると、ゲッセマネの園は、この福音書を書いたマルコの母、マリヤが持っていた園だったのではないかと言われています。あるいはエルサレムに住んでいたイエス様の支援者のものだったかもしれません。いずれにせよ、イエス様たちは、この場所を自由に出入りすることができました。
 
 イエス様一行がゲッセマネの園に到着すると、あたりはもう真っ暗です。弟子たちは、「これから、一体何が始まるのだろう」と思ったかもしれません。するとイエス様は、弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」と命じられました。それから、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて、さらに園の奥の方にはいっていかれました。イエス様は、彼らにこうおっしゃったのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここ離れないで、目をさましていなさい。祈っていなさい。」そして、少し離れた所で祈り始められたのです。そこでペテロとヤコブとヨハネは、これまで見たこともないイエス様の姿を目の当たりにしたのです。
 
1 恐れもだえられたイエス様
 
 イエス様の表情は恐れもだえ、すさまじい形相へと変わり、岩のそばで、倒れるようにしゃがみ込みました。普通、イスラエルの習慣では、男性は、祈る時は必ず立って手を上げて祈りました。でも、イエス様は、この時、地面にたたきつけられるようにして伏して、悲痛な声で叫ばれたのです。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14・36)
 ペテロとヤコブとヨハネは驚いたでしょう。彼らは、これまでイエス様の数多くの奇蹟をみていました。時には嵐を静め、病の人を癒し、悪霊を追い出されました。また、ヘルモン山で、イエス様が栄光に輝く姿になられたことも目の当たりにしていました。ですから、彼らは、「このイエス様についていけば、どんなことだって怖くないと思っていたのです。」でも、この時、彼らが見た、イエス様の姿は、これまでとは全く違うものでした。力ある栄光の姿どころか、恐れもだえ苦痛に満ちたイエス様だったのです。
 ルカの福音書には、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22・44)と、記されています。福音書の中で、これほどまで、イエス様が恐れ、苦しまれた姿は、他にありません。イエス様の額からは汗が血のようにしたたって、「アバ、父よ、おできなるなら、どうぞ、この苦しみを取りのけてくだい。」と祈られたのです。みなさん、イエス様は、どうしてこれほどまでに苦しまれたのでしょうか。イエス様の苦しみ、私たちにはとうてい理解できないですね。イエス様にしかわからない苦しみです。 でも、確かに聖書の中で一番苦しまれたイエス様の姿がここに記されているのです。どんな苦しみがそこにあったのでしょうか。
 
 @「罪を自ら引き受ける苦しみ」
 
 イエス様の苦しみ、それは、すべての人間の「罪を自ら引き受ける苦しみ」でした。新約聖書ローマ人への手紙の中で、パウロは「罪からくる報酬は死です。」といっています。罪は必ず死をもたらします。それは、人間の罪に対する神様の怒りであり、「罪」を憎む神様の呪いです。創世記のはじめ、アダムから始まる罪、アベルを殺したカインの罪、ノアの時代の暴虐の罪、ソドム、ゴモラの罪、聖書を読めば、人間の歴史が始まって以来の数え切れないほどの罪が記されています。そして、この後、イエス様を裏切る弟子たちの罪、祭司長たち、ピラト、イエス様を十字架に付けようとするすべての人々の罪、そして、私たちの罪が、それら全ての呪いが、イエス様の上に重く重くのしかかっているのです。
 罪のないお方、イエス様が罪とされ、死という呪いを受ける、それは矛盾、以外のなにものでもありません。イエス様は、罪のないきよいお方ですから、その方が十字架につくなど、決して受け入れることのできない、大きな矛盾であり、壮絶な苦しみだったのです。だから、イエス様は、「おできなるなら、この苦しみを取りのけてくだい。」と、苦痛に満ちて祈られたのです。
 
 A「神と断絶される苦しみ」
 
 そして、また聖書が教える「死」というのは、「神様との断絶」を意味します。「神から断絶される苦しみ」です。マルコ1章で、父なる神様はイエス様に「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけられました。イエス様は、神の一人子なるお方です。イエス様は、父なる神様に「アバ、父よ」と呼びかけられました。三位一体なる神様の親しい愛の関係です。罪とその呪いである死を引き受けることは、本来、イエス様が持っておられた、神様との愛の関係が破壊されるということです。どれほどの苦しみでしょうか。私たち人間ですら、親や兄弟、親しい友人との関係が壊れたら苦しいですね。でも、それとは比べものにならないほどの苦しみです。愛と調和に満ちた三位一体の神であるイエス様と父なる神様との関係が断絶される、これは私たちには想像できない苦しみです。イエス様は、その苦しみを一心に受け、血のような汗を流して、祈られたのです。
 そんなイエス様の姿を見て、ペテロとヤコブとヨハネはびっくりしました。イエス様が「祈っていなさい」と言われたので、「なんで、こんなにイエス様は苦しんでいるのかわからないけど、でもイエス様がこれ以上落ち込まないように」と、一生懸命に祈っていたと思います。でも、祈っているうちに弟子たちは、眠ってしまったのです。
 
2 眠ってしまった弟子たち
 
 イエス様に「目を覚まして、祈っていなさい。」と言われたのに、彼らは三回も繰り返し眠り込んでしまいました。もう夜も更けていたし、一日中活動して疲れていたのかもしれません。あるいは、ある学者によると、人は極度の緊張と恐れを経験すると、それを和らげるために、眠ってしまうということがあるそうです。彼らは、これまで見たことのないイエス様の姿を目の当たりにして、恐れと不安を感じ、極度の緊張で眠ってしまったのかもしれません。いずれにせよ弟子たちは、イエス様の苦しむ姿をみて驚きながらも、「よし自分も祈ろう」「イエス様を支えよう」と思っていたと思います。ペテロは特に、人情派でしたから「何とかイエス様を助けたい、なんとかしたい」そう思ったはずです。でも、起きて祈ろうとしても、それ以上の睡魔が襲ってきて眠ってしまったのです。
 イエス様は、そんな彼らに言われました。「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14・38)
 ここから私たちは何を教えられるのでしょうか。人は、どんなに燃える思いがあっても、結局、イエス様が進もうとされる十字架の道に、何も手助けできないということです。私たちは、ペテロのように「神様のためにお手伝いします」と、心に燃える思いを持つことはありますし、それは決して悪いことではありません。でも、「救い」に関しては、私たち人間は、何のお手伝いもできません。無力です。イエス様の十字架「救いのみわざ」は、誰もそこに何も付け加えることができないということです。そんな無力で弱い私たちの為に、イエス様は、お一人で、この壮絶な祈りをしてくださったのです。
 みなさん、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」そうです。その通りです。私たちは自分の救いをみずから達成しようとしても、燃えるような思いがあってもできません。つまり、救いというのは、100%イエス様からくる恵み意外にないのです。
 
3 イエス様の祈りのこたえ
 
 さあ、イエス様が祈られた「ゲッセマネの祈り」のこたえは、最終的に何だったのでしょうか。この祈りを通して、イエス様は何を握られたもの、それは「父なる神様のみこころ」です。 イエス様は、「わが父よ、おできになるなら、この苦しみを取りのけてくだい。」と祈られました。「神よ、十字架以外に人を救う道はないのでしょうか。願わくは、この杯を取り除けてください。」 でも、イエス様の祈りはそこで終わりませんでした。続けてこう祈られたのです。「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14・36)
 もし、このイエス様の「しかし」がなければ、今、私たちに救いはありません。イエス様が、「父なる神様、やはり無理です。十字架でなく、もっと別の方法にしてください。」そう言って十字架を放棄されたなら、私たちに今与えられている「救いの道」は閉ざされていました。今こうやって、罪赦され、神様に礼拝をささげることもできませんでした。でも、イエス様は、「しかし、父よ、あなたのみこころのままをなさってください」と祈られたのです。
 ここで、イエス様が言われた「あなたのみこころ」、それは人が救われること、ただその一点です。旧約聖書イザヤ書53章には、こう記されています。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」(イザヤ53:10)つまり、「イエス様が、十字架でご自分のいのちをささげることによって、罪から救われて永遠のいのちを持って生きる人々が起こされていく」、それが神様のみこころです。その「みこころがなりますように」「すべての人の救いがなりますように」と、イエス様は血のような汗を流して祈ってくださったのです。
 新約聖書ヘブル人への手紙5章7節には、イエス様の「ゲッセマネの祈り」の姿が書かれていますね。「キリストは…自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」イエス様の「祈り」の何が聞き入れたのでしょうか。「苦しみをとりのけてださい」という願いでしょうか。いいえ、確かにイエス様は、「この苦しみをとりのけてください。」と大声で叫び、涙を流して願われましたけれども、「苦しみがとりさられる」という願いは聞き入れられませんでした。でも、イエス様は、同時に「あなたのみこころがなりますように」と祈り、その祈りが聞き入れられたのです。「十字架にかかることが、わたしがなすべき唯一の救いの方法なら、そのみこころに従います。」と祈られた、イエス様のその祈りが聞き入れられたのです。もちろん、イエス様は、この地上に来られた始めから、ご自分が十字架に付けられることをご存じでした。その使命を明確に理解しておられました。けれども、十字架を前にしたとき、罪の重さ、死の呪いの恐ろしさ、その壮絶な苦しみの故に、恐れもだえ祈らざるえなかったのです。
 そして、イエス様は「ゲッセマネの祈り」を通して、十字架の苦しみが取り去られることではなく、十字架を背負うことこそが、人に救いをもたらす唯一の方法で、それが神様のみこころであり、わたしの使命なのだと、はっきりと確信し、苦い杯を飲むことを決意されたのです。
 
 このゲッセマネの祈りを終えた、イエス様は立ち上がって弟子たちに言われました。「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。」(マルコ14・41-42)ここにはもう、恐れもだえたイエス様の姿は、ありません。少しの疑いも、迷いも、不安もありません。ただ、ご自分の前に置かれた十字架へと確信をもって、まっすぐにぶれずに歩んでゆかれます。人は、何かの課題や困難に直面すると、恐れたり、ひるんだり、葛藤します。でも、苦しんで、苦しんで、結論が出て、覚悟が出来ると、その後は、その課題や困難に、立ち向かっていくことできるようになります。イエス様も、ゲッセマネの祈りの後、驚くほど自信に満ちた態度を示されるようになりました。この直後、弟子のユダの裏切りにより捕らえられます。他の弟子たちは、みんな逃げ去ってしまいます。一人孤独に裁判にかけられ、十字架を宣告されます。でも、イエス様は、ご自分の前に置かれた十字架への道を、大胆に確信を持って進んでいかれます。それは、全ての人の救いの為に、私たちを愛し、私たちの罪を解決するためです。イエス様は、十字架という苦しみの杯を飲み干してくださるのです。
 「ゲッセマネの祈り」の中で、イエス様は、苦しまれました。「あなたのみこころがなりますように」と祈られました。そして、確信をもって、十字架に向かって進まれたのです。そのイエス様のお姿に、私を愛してくださったイエス様の大きな愛を、確かに見ることが出来ます。その愛の中に生きる者とされていることを覚えながら、その恵みに感謝しつつ、この週もともに歩んでゆきましょう。