城山キリスト教会夕拝説教
二〇二二年一〇月二日           豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ12「アブラハム4−戦士アブラハム−」
創世記一四章一節〜二四節
 
 1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。
5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。
7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。
9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。
10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
 13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
19 彼はアブラムを祝福して言った。
  「祝福を受けよ。アブラム。
  天と地を造られた方、いと高き神より。
20 あなたの手に、あなたの敵を渡された
  いと高き神に、誉れあれ。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。
23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
 
 人類の歴史は、ある面において戦争の歴史とも言えます。戦争をなくすための戦争が絶え間なく登場します。私たちは、「どうして同じ過ちを繰り返してしまうのだろうか」と、諦めてしまいそうな現実の中に生きています。どうして戦争はなくならないのでしょうか。
 新約聖書ヤコブの手紙にはこのように書かれています。
 「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4・1−2)
 聖書は人間の持つ罪が原因だとはっきりと教えています。だから、戦争が完全になくなるのは、イエス様が再びこの地上に来られる時まで、天の御国が完成される時まで待たなければいけないのでしょう。しかし、同時に、イエス様を信じる一人一人を通して平和がつくられていくこともまた事実です。再臨を待ち望みつつ、平和をつくり出す人として私たちは生かされているのです。
 
 最初にどうしてこのような話をしたかというと、実は、今日の箇所は聖書に記されている「最初の戦争の記録」だからです。
 チグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミヤ地方を支配していたエラムの王ケドルラオメルを中心とした国々と、死海沿岸の町、ソドムとゴモラを中心とした国々との戦いが起こったのです。
 ソドムとゴモラと言えば、前回、お話したアブラハムの甥ロトが住んでいた場所です。つまり、この戦いにはロトが巻き込まれました。そして、アブラハムも関係していくのです。
 
1 王たちの戦い
 
 創世記14章1節から3節を見るとこう書かれています。
 1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
 
 いろいろな国と王の名前が出てきてわかりづらいですね。少し整理しますね。
 
 (1)東軍
 
 まず、ケドラオメル、アムラフェル、アルヨク、ティデアルの四人です。メソポタミヤ地方を支配していたケドルラオメル王が中心の東軍です。
 
 (2)西軍
 
 そして、西軍は、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルジャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王の5人です。
 
 (3)戦いの原因
 
 この戦いの原因は何だったのかというと、14章4節にこう書かれています。
 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。(創14・4)
 つまり、もともと東軍のケドラオメルに従っていたソドムとゴモラが反旗を翻したのです。12年間、支配されていたのですが、「もう、我慢ならない」と抵抗したのです。怒ったケドラオメルが周辺諸国を連れて攻めて来たわけです。
 
 (4)戦いの過程
 
 ケドラオメルを中心とした東軍は、破竹の勢いで諸国を倒しながら、ソドムとゴモラのある地域まで攻めてきました。連戦連勝、向かうところ敵無しの勢いです。
 
 (5)戦いの結果
 
 戦いの結果はソドムとゴモラを中心とした西軍の完敗です。打ちのめされた西軍の王たちは、穴に落ちるわ、山に隠れるわ、散々な結果でした。大勝利した東軍は再び遠路メソポタミヤまでもどらなければなりません。当然、食糧も資金も必要ですから、根こそぎ略奪していきました。運搬要員として多くの住民たちも連行したのです。
 その中にソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトの家族も含まれていました。
「そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。」(創14・11-12)
 
2 アブラハムの追撃
 
 さて、この頃、アブラハムはヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに住んでいました。そこに戦争のニュースが飛び込んできたのです。
 ひとりの逃亡者がやってきました。「アブラハムさん、大変です。東のケドラオメル連合軍が、ソドムゴモラの王たちをやつけて、財産やら捕虜やら根こそぎ連れていってしまいました。あなたの甥ロトも連れていかれました。」(創14・13)
 知らせを聞いたアブラハムはどうしたと思いますか。思い出してください。ロトがどんな経緯でアブラハムのもとをさったのかを。私だったら「もう知らない。自分で選んだ場所なのだから、自業自得だ。」と思ったかもしれません。
 でも、アブラハムは違ったのです。知らせを聞くやいなや、自分のしもべ、よく訓練された380人を連れて追いかけていったのです。「寛容なアブラハム」が「勇敢な戦士アブラハム」となって出発しました。
 ヘブロンからダンまで追いかけて行き東軍に追いつきました。でも、たった380人の手勢です。相手は大軍ですから戦略は一つ、奇襲しかありません。相手が油断している夜に奇襲攻撃を仕掛けて一気に捕虜や財産を取り返したのです。そして、逃げていく東軍をダマスコまで追いかけて奪われたものをすべて取り返したのです。
 アブラハムの作戦勝ちでした。しかも、彼は奪われた人々や財産を取り返したら、それ以上深追いしませずに、すぐに引き返しました。目的が争いではなく救出だったからです。不必要な血は流さなかったのです。アブラハムの戦いの動機は侵略や略奪ではなく、あくまでも自分の親類、祈り続けた仲間ロトたちを救出することだけでした。他の王たちとは違いました。
 
3 アブラハムを迎えた二人
 
 さて、戦いを終えたアブラハムを二人の人が迎えました。
 
 (1)メルキゼデク
 
 シャレム(サレム)の王メルキゼデクという人です。この人は、旧約聖書でこの箇所にしかできませんし、突然、登場するのでどういう人はあまり詳しくはわかりません。(新約聖書のへブル書では、王であり大祭司であるイエス様の予型として紹介されています。詳しくは、へブル書から説教する時に…)
 彼は、アブラハムと同じように天地の創造者なる神様を信じる王であり、祭司でもありました。パンとぶどう酒を持ってきてアブラハムを出迎えて労をねぎらい祝福したのです。
「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」(創14・19-20)
 メルキゼデクは戦いに勝利したアブラハムを誉め讃えたのではなくて、「アブラハム、あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ!」と彼に勝利を与えた神様に栄光を帰したのです。アブラハムもすべての物の十分の一をメルキゼデクに与えたと書かれています。
 つまり、祭司であるメルキゼデクを通して、アブラハムは神様に感謝を献げたのです。最初にアブラハムを迎えたメルキゼデクは「神に栄光を帰す人」でした。アブラハムも祭司である彼を通して、神様からの祝福を受けとり、勝利を与えてくださった神様に感謝を献げたのです。
 
 (2)ソドムの王
 
 そして、もう一人、アブラハムを迎えた人物がいました。助けてもらったソドムの王です。ちなみに、このソドムの王ですが戦いの時は穴の中に落ちてしっぽをまいて逃げたのに、ほとぼりが冷めたと思ったら、アブラハムのところに来て言いました。
「アブラハムさん、ありがとうございます。助かりました。人々は私に返してくだされば結構です。財産はもっていってもらって結構ですから。」(創14・21)
 お礼を言っているようで、「国はなんとか自分の物にしたい。王位を守りたい。金で問題を解決したい。」そんな思いが見え隠れします。口では感謝を伝えているようでいて、彼はアブラハムに対して心から感謝していませんでした。同然、アブラハムの背後に折られる神様の存在も認めていませんでした。どこまでいっても自己中心な姿です。ご存じのようにソドムは後に神様によって滅ぼされてしまいます。
 そんなソドムの王に対してアブラハムはこう答えました。
「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。(創14・23-24)
 そもそも、この戦いはロトを救うためでした。それに勝利を与えてくださったのは神様ですから「報酬は何もいらない」と断ったのです。それは、後々ソドムの王に『アブラムを富ませたのは私だ』と言わせないためです。「私を守り、助けてくだったのは神様のみ」という信仰です。アブラハムは神様の栄光が人にとってかえられることがないようにと考えたのです。
 でも、同時にアブラハムは一緒に戦った仲間に対する配慮は忘れませんでした。続けてこう言いました。
「ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」(創14・23-24)
 一緒に戦った仲間が食べた分として、その実費だけいただきます。ついて来てくれた仲間への思いやりは忘れなかったのです。アブラハムの信仰者としてのバランス感覚を見ることができますね。
 
 さて、皆さんは今日のアブラハムの姿を見てどう思われたでしょうか。エジプトで妻サラを妹と偽った時とは印象が違いますね。今回のアブラハムはかっこいいです。
 自分勝手に去っていった甥のロトが危険だと聞くやいなや風を巻いて殺到し、ケドラオメル率いる東軍を襲って勝利しました。「人情深い戦士アブラハム」。
 しかも、勝利のあとは「勝たせてくださったのは神様、あなたです。」「ただ主よ、あなたに栄光がありますように」と感謝をささげた「礼拝の人アブラハム」。
 ソドムの王から「財産は持っていってください」と言われても、「あなたの所有物から私は何一つ取らない。」と言って、人からの報酬ではなく「私を富ませてくださるお方は天地を造られた神様のみです」と「天に宝を積むアブラハム」でした。
 これまでアブラハムには失敗がありました。自分の弱さを痛感していたことでしょう。でも、その中でアブラハムは何度も神様に立ち返って祭壇を築き、礼拝の生活を送るようになりました。きっと、自分のもとをさったロトのためにも祈っていたことでしょう。
 そのような日々の中で、必要な時に神様はアブラハムを立ち上がらせ、主の戦士として力で満たし、勝利を与えてくださったのです。
 このアブラハムの姿に、私たちクリスチャンの姿も重なります。私たちもまたアブラハムと同じように弱さや足りなさがありますけれども、天地を造られた神様、そして、イエス様によって強くされているのが私たちです。
 パウロは言いました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4・13)
 もちろん、「どんなことでも」といっても、なんでもかんでも自分の思う通りや願い通りのことができるという意味ではありませんね。イエス様を信じ、イエス様と一緒に歩む中で、自分のなすべきことが教えられます。困難や試練もあるかもしれません。でも、その度に必要な力と助けが与えられるということです。
 イエス様もパウロにこう言われました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント12・9)
 私たちそれぞれの人生の中にも、突然、立ち上がらなければならない時があるかもしれません。いろんな出来事が起こります。でも、イエス様は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と語ってくださっています。そのイエス様を信頼し、天の父なる神様をアブラハムのように礼拝しつつ、この週も歩んでゆきましょう。