城山キリスト教会夕拝説教
二〇二二年一六月日           豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ13「アブラハム5−信仰による義−」
創世記一五章一節〜六節
 
 1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
  「アブラムよ。恐れるな。
  わたしはあなたの盾である。
  あなたの受ける報いは非常に大きい。」
2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。
4 すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
 
 アブラハムの生涯を学んでいますけれども、新約聖書の中でパウロはアブラハムについてこのように紹介しています。
 「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。』」(ローマ4・2−3)
 アブラハムは「信仰の父」と呼ばれていますが、そのゆえんは「アブラハムの行い」ではないというのです。彼が何か立派なことをしたとか、修練して悟りを開いた、多くのささげ物を献げたということではありません。彼が単純に神様を信じたこと、それが私たちの信仰のモデルなのです。
 このローマ書の箇所には「アブラハムは神を信じた、それが彼の義と認められた」と書いてありますが、パウロが引用したこの箇所は、今日の創世記15章1−6節に書かれている出来事からの引用です。
 
1 アブラハムの恐れと神様の語りかけ
 
 15章1節に「これらの出来事の後」とありますが、これは、前回お話した14章の戦いでの大勝利のことです。
 アブラハムは、ソドムに住んでいた甥のロトたちが、ケドラオメル王が率いる軍隊に拉致されたことを聞き、烈火のごとく立ち上がりました。そして、東軍を奇襲攻撃で打ち倒しロト一家を救出することができたのです。
 大勝利を収めた「戦士アブラハム」です。しかも、ソドムの王からは報酬をうけとらず、ただ神様に感謝の礼拝をささげたすがすがしい姿でした。
 しかし、今日の箇所を読むと、その後、アブラハムが恐れと不安に苛まれたというのです。
 
(1)アブラハムの恐れ
 
 絶好調の時にアブラハムはどんな恐れを感じたのでしょうか。
 
 @報復への恐れ
 
 「あのケドラオメル率いる連合軍がもう一度、大軍勢で襲って来たらどうしようか。一度目は、奇襲攻撃がうまくいったけれども、二度は通用しないのではないか。」彼は、そんな恐れと恐怖で頭を抱えはじめたのではないでしょうか。考え始めたら恐怖が迫ってきたようです。
 
 A心身のつかれ(燃え尽き)から来る恐れ
 
 人は何か大きな出来事やプレッシャーを感じる事柄に対処するとき、その最中は必死なのですがそれが過ぎ去った後、どっと疲れを感じるものです。受験、就職、結婚、引越などの跡に燃え尽きのような状態になりやすいですね。また、物事が順調な時ほど不安を感じることもあります。
 聖書にもそのような出来事が記されています。旧約聖書のエリヤです。カルメル山でバアルの預言者を打ち倒しました。大勝利です。でも、その後、バアルの偶像礼拝を擁護していた当時の王妃イゼベルのことばで震え上がってしまったのです。そして、イザヤは塞ぎ混みました。
 
 B順調であるがゆえの恐れ
 
 人は上手くいっている時に、ふと恐れを感じることがありますね。新約聖書のパウロもそうです。使徒の働き18章を読むと、第二回伝道旅行の最中、パウロの働きはアテネでは全然上手くいきませんでした。意気消沈したパウロでしたが、その後、コリントで良き同労者があたえられました。そして、そこでは多くの人がキリストを信じたのです。でも、その最中、パウロは恐れたのです。
 この時のアブラハムは神様の祝福によって、しもべや財産が増えました。生活は順調でした。でも、それにともなってきがかりなことも浮かんできたのです。それは、いまだ子どもが与えられていないということです。「神様は、私を多くの国民の父にすると言われたけれど、いまだ子どもが与えられていない。私はもう年寄りだ。今さら子どもなんか生まれるはずがない。神様はいろいろ約束されたが、結局その約束は駄目になってしまうのではないか。」そんな不安や恐れを感じるようになっていたのです。
 でも、そんなアブラハムに神様は次のように語りかけてくださいました。
 
(2)主なる神の語りかけ
 
「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15・1)
 
 @「恐れるな」
 
 聖書の中には「恐れるな」ということばが沢山でてきます。旧約聖書では70回以上、新約聖書では30回弱、合計100回以上です。つまりそれだけ人は恐れるということです。しかも、神様はそのことをご存じで、恐れなくていいと語りかけてくださるのです。
 
 A「わたしはあなたの盾」
 
 これは戦いにおける守りを意味します。「アブラハムよ、思い出せ。直近の戦いはどうだったか。あなたの知恵によるのか。あなたの力が強かったからか。そうではないでしょう。わたしの力と知恵によって勝利することができたのではないか。エジプトでもわたしがあなたを守ったのだ。ここまでの長い道のりを思い出しなさい。私があなたを守ってきたでしょう。これからもわたしはあなたを守る」という守りの約束です。
 聖書に「神、その道は完全。 主のことばは純粋。 主は、すべて主に身を避ける者の盾。」(2サムエル22・31)とあるとおりです。
 
 B「あなたの受ける報いは非常に大きい」
 
 このことばは、「主ご自身こそが、アブラハムが受ける大きな報いである」とも訳すことができるのです。
 この時のアブラハムは恐れていました。主があたえてくださったものに目を留めて、しだいに不安になったのです。「神様の祝福は感謝なことだけど、これをいったいだれが守りひきついでいくのか。」そんな彼に神様は、「わたしこそがあなたが受けるむくいではないか。わたしに目をとめなさい」と語られたのです。
 アブラハムは神様の語りかけを聞いて思ったでしょう。「確かに、神様、あなたのおっしゃる通りです。でもね…」彼は反論するのです。このあたりが親近感をもてますね。
 
2 アブラハムの反論と神様のはげまし
 
(1)アブラハムの反論
 
 「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。…ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」(創15・2−3)
 
 「神様、あなたがおっしゃることもわかりますが、でも、子どもがいないじゃないですか。私のしもべを相続人にするしかないのでしょうか。」
 しかも、アブラハムはちょっと神様のせいにしています。「あなたが子孫をくださらないから」「約束を実行して下さらないから」と言っていますね。いいですね。この正直な感じが励まされます。
 さあ、神様はどうされたでしょうか。それでもアブラハムを励ましてくださるのです。
 
(2)神様の励まし
 
 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(創15・4)
 
 @ことばによる励まし
 
 神様は「奴隷からではない。わたしが約束したとおり、あなた自身から生まれ子が跡をつがないといけない。」と語り、約束を確認してくださいました。でも、アブラハムはきっと思ったでしょう「そんなこといったって、神様、私も妻ももう年ですし、さすがに無理じゃないでしょうか…。」
 すると神様は、語るだけではなくて、彼を外に連れ出しました。
 
 A行動による励まし
 
 あたりはもう夜でした。神様はアブラハムに言われました。「天を見上げなさい」。夜空には満天の星が見えました。神様が造られた創造の御業を見せてくださったのです。アブラハムは、「綺麗だな」「大きいな」そんな風に思ったでしょう。
 詩篇には、「天は神の栄光を語り告げ  大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19・1)とありますけれども、満天の星をみたとき、アブラハムは神様の大きさを感じたはずです。
 また、神様は「星を数えることができるか」と言われました。できっこありませんね。
 あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。 あなたが心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。(詩8・3−4)
 この言葉にあるように、アブラハムは満天の星空を見上げることを通して、人の小ささや自分の限界を実感させられたはずです。そして、それ以上に大きな神様の存在を改めて確認させられたのですね。
 神様の励ましは、ことばと行動によるものでした。そして、「わたしはあなたが考えるよるもずっと大きいのですよ、あなたは限界があるが、わたしにはありません。そのわたしを信じなさい」とアブラハムを励ましてくださったのです。
 アブラハムは大変落ち込んでいましたけれど、満天の星を見上げているうち、神様に信頼する思いが与えられたのです。
 
3 信仰による義
 
 そして、アブラハムはどうしたと書かれていますか。
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15・6)
 彼は恐れと落ち込みのどん底にあった時に「神様。信じます」と告白したのです。まだ目にはみえないけど、神様の約束のことばに応答して信じたのです。アブラハムが絶好調の時ではないのです。彼が疲れ、おびえ、希望を持てない弱い状況にあったときにです。
 その時、神様が「恐れるな。わたしがあなたの盾になって、あなたを守ってあげるのだから」「そして、この空の星のようにふやすから」とおっしゃいました。その大前提が語られたときに、アブラハムは「神様、分かりました。あなたを信じます」と応答したのです。
 信仰は、どこから始まるのでしょう。聖書にはこう書いてあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10・14)信仰は神様の語りかけから始まります。聖書のことばをききことからスタートするのです。
 今、私たちには「聖書」が与えられていますね。そこには神様がどれほど私たちを愛してくださっているのかが記されています。そして、イエス・キリストについて証されています。その聖書のことばを読み、聞くことから信仰が始まるのです。
 そして、アブラハムは「神様、あなたを信じます」と応答しました。それが彼の義とみなされたのです。「義とされる」とういうのは、「全き者される」「罪のない者される」という意味です。アブラハムは、不安、恐れ、弱さの中で、神様の励ましを受けて応答しました。その神様に信頼し生きる姿を、神様は喜んでくださり良しとされたのです。全き者とよんでくださったのです。
 ローマ書4章5節には、こう書かれています。
「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」(ローマ4・5)
 さらにパウロは、アブラハムの姿こそが、私たちの信仰の見本だといっています。「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(ローマ4・23−24)
 私たちは、自分自身を見つめやすい存在です。でも、自分の内側だけを見つめていても、そこから信仰は生まれてきません。むしろ、弱さ、疑い、不安、恐れのほうがでてきやすいものです。
 でも、そのような中で神様の語りかけである聖書を開き、そこに証されているイエス様を信じることによって「義とされている」「神様の前に正しい者とされている」のです。その恵みの中に生かされていることを味わいつつ、この週も歩んでまいりましょう。