城山キリスト教会夕拝説教
二〇二二年一一月一三日          豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ14「アブラハム6−女奴隷ハガル−」
創世記一六章一節〜一六節
 
1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
4 彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。
5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
7 【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
 10 また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
11 さらに、【主】の使いは彼女に言った。
  「見よ。あなたはみごもっている。
  男の子を産もうとしている。
  その子をイシュマエルと名づけなさい。
  【主】があなたの苦しみを聞き入れられたから。
12 彼は野生のろばのような人となり、
  その手は、すべての人に逆らい、
  すべての人の手も、彼に逆らう。
  彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」
13 そこで、彼女は自分に語りかけられた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。
14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。
 15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。
16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
 
 創世記からアブラハムの生涯を見ていますけれども、前回は「信仰の父」としてのアブラハムの姿から学びました。恐れと不安の中で主なる神様のことばを聞き、アブラハムは「主を信じ」ました。そして、彼の単純な信仰によって「義」とされました。パウロは新約聖書の中で、そのような彼の信仰の姿が、「ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」(ローマ4・23−24)と教えています。
 さて、そんなアブラハムですが、今日の16章はとても暗い章です。アブラハムの失敗、過ちが記録されています。どのような失敗だったかというと、アブラハムが「あなたに子どもを与える」と言われた神様の約束を信じることができずに、女奴隷ハガルを通して子孫を得ようとするのです。しかも、それは妻サラの提案でした。彼女に説得されてそのような行動をとったのです。
 
1 アブラハムの過ち
 
 ことの成り行きはこうでした。ある日、妻のサラが夫アブラハムに言いました。
 「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」(創16・2)
 「あなた、主なる神様は私たちに跡継ぎの子を与えると約束してくださいました。でも、いつまでたっても私は子を産めません。年齢的に考えても無理です。このカナンに入ってからだって10年もたったのですよ。待って、待って、待ちくたびれました…。もう限界です。」おそらくサラは悩んで悩んで次のように考えたのだと思います。「確かに、神様は子を与えると約束してくださった。神様が嘘をつくはずがない。そうだ!神様は、夫のアブラハムに子どもが与えられると言われたけど、私から生まれるとは限らないわ。だから、別の女性によって子が与えられるということではないかしら。」そして、アブラハムに提案したのです。「私の一番のお気に入りの召使いハガルがいます。どうか彼女によって子をもうけてください。あの子なら健康だし、忠実だし、よく仕えてくれています。どうか彼女を召して、子を産ませて、その子を私たちの子として育てましょう。」
 当時の背景の中で、妻が子どもを産まない時、召使いによって子どもを得て、その子を正式に妻の子として後を継がせるということがあったようです。古代バビロンの「ハムラビ法典」やイラクで発掘された「ヌズ文書」などにもこの種の習慣が記録されています。
 もちろん、夫婦間では色々と話し合ったと思います。最初は、「そんなこと言っても…」「本当にそうだろうか…」でも、段々と考える内にアブラハムも「いや、そうかもしれん…」「そうか、そういうことか…」と思って、最終的にはサラの提案に納得し受け入れました。
 「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。」(創16・2−3)
 でも、皆さん、聖書は創世記の初めから、結婚は一人の夫と一人の妻によると教えています。創世記2章24節に「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創2・24)とあるとおり、聖書は人は神様によって造られた最初から一夫一妻の原則を教えています。
 残念ながら、人は、そうした本来の姿を忘れてしまいました。以前、「レメク」を紹介した時にもお話しましたが、人は自分の力を誇示する為に沢山の妻やそばめを持つようになりました。また、周諸国が当たり前のように一夫多妻であったため、何も考えず同じような習慣をまねてしまうこともあったのです。
 聖書には「一夫多妻」を禁止する、直接的な言葉は書かれていません。しかし、一夫多妻がもたらす家庭内の葛藤や悲劇が繰り返し記録されています。神様は、それによって一夫多妻がいかに愚かなことであるかをはっきりと示し教えておられるのです。ですから、この時のアブラハムの判断は明かな間違いでした。そして、家庭内に問題が起こります。家庭の不和です。
 
2 家庭の不和
 
 アブラハムによって身ごもったハガルがサラを見下すようになったのです。
 「彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。」(創16・4)
 家庭の秩序が崩れてしまいました。でも、考えてみれば自然なことですね。それまで召使いとして仕えていたハガルでしたが、主人のアブラハムの実質的には第二夫人の立場が与えられたのです。しかも、サラの計画通り子を宿すことができたのです。「私こそアブラハム様の世継ぎを宿している!」そのような喜びと同時にムクムクとサラを見下す思いが湧いてきたのでしょう。時が経つにつれて、ハガルが大きなお腹を見せつけながら横柄な態度をとっていく様子に、サラは我慢ができなくなりました。アブラハムに抗議します。
 「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」(創16・5)
 「確かにハガルを私が勧めましたよ。あなたに与えましたよ。でも、ハガルときたら、私の恩を忘れ、横柄になって…。これもあなたがいけないのですよ!あなたがちやほやするからでしょう。」
 この状態になってアブラハムは気づきました。「ああ、これは大変な間違いを犯してしまったのかもしれない」「神様の御思いとは違っていた…。」「でも、子どもができてしまった以上は、後戻りはできない…。」頭を悩ました末、アブラハムが出した結論はお粗末なものでした。
 「アブラムはサライに言った。『ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。』それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」(創16・6)
 アブラハムから突き放されたサラは、「だったら、私の思うままにさせていただきますわ!」とばかり、ハガルをいじめました。ハガルにしてみれば、アブラハムが少しは自分を擁護してくれると思ったかもしれません。泣く泣く家を出るしかありませんでした。もう、昼のドラマみたいな展開ですね。そうです。聖書は赤裸々な人間の愚かさを紹介しているのです。
 
3 泉のほとりで
 
 さあ、頼る人も居場所もなくなってしまったハガルはどこに向かったのでしょう。彼女はエジプト人でしたから故郷エジプトの方に向かうしかありません。しかし、そんなハガルを主なる神様は見捨てられなかったのです。
 
 (1)見つけてくださる神様
 
 主の使いが「荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ(創16・7)」られたのです。
 大きなお腹を抱えて、悲しみの涙、悔しい涙を流しながら辛い歩みを進んでいたハガルです。「故郷エジプトからご主人様についてきて一生懸命に仕えてきたのに…、子どもいないことから召し上げられて、妊娠すれば、いいだっしぺの女主人にいびられて、おいだされるなんて…」このまま行き倒れてしまうのかもしれません。本当に心細かったでしょう。でも、神様は、そのようなハガルを見捨てなかったのです。
 
 (2)語ってくださる神様
 
 そして、神様は彼女に語りかけてくださいました。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と。ハガルは「私の女主人サライのところから逃げているところです。」(創16・8)と答えました。彼女は、どこから来たのかは答えられましたが、これからどこにいくかは答えられませんでした。分からなかったからです。それが今の自分の現実だからです。
 でも、そんな彼女に神様は、主の使いによって行くべき場所を教えてくださいました。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そし、彼女のもとで身を低くしなさい。」(創16・9)「あなたが失敗した場所に戻りなさい。もう一度、やり直しなさい。わたしがあなたを守るから、あなたの子を大いにふやすから。あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」と神様はハガルを励ましてくださったのです。
 新約聖書のペテロの手紙第一には次のようなことばあります。
「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5・6−7)
 「ハガルよ、アブラハムとサラのもとに戻ることは、わたしの御手にあなたの全てをゆだねることだよ。大丈夫だから、わたしたがあなたのことを心配しているから。」と、神様は励ましてくださったのです。それだけなく神様は、やがてハガルに生まれてくる子どもの名前が教えてくださいました。
 「その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。(創16・11)「イシュマエル」という名前は「神が聞かれる」という意味のことばです。「ハガルよ、私は確かにあなたの苦しみを聞いた。だから、あなたもこの子も大丈夫だ」と神様は約束してくださったのです。実際、後になってからイシュマエルの子孫は12部族にも増えて、アラビヤ地方の遊牧民として増え広がっていくのです。神様の約束の通りになったのです。
 
 (3)ハガルの応答
 
 ハガルは自分を励ましてくださった神様に応答し、「あなたはエル・ロイ」と神様を呼びました。「エル・ロイ」は、「神が見てくださる」という意味です。「あなたは私を見てくださるお方です。」という信仰告白です。
 これまでハガルは自分の主人であるアブラハムが信じる神様を知っていました。でも、おそらく個人的には神様の認識はうすかったと思います。でも、サラに追い出されて逃げてきたこの時は、以前とは違い苦しみの中で「私の叫びを聞き」「私を見てくださる」神様がおられる。このお方と共に生きてゆこうと信じ告白したのです。この時から、ハガル自身が個人的に神様を信じ「信仰者」として、もときた道を引き返していくのです。
 アブラハムとサラはハガルを迎え入れました。戻ってきたハガルの変化も感じたと思います。また、ハガルがいない間、おそらく自分たちの判断や愚かな行動も反省していたことでしょう。そして、無事にアブラハムの家にもどったハガルは男の子を生みました。アブラハムも喜んでその男の子の名を主の使いがハガルに命じたように「イシュマエル」と名付けたのです。
「ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。」(創16・15)
 
 神様がハガルと出会ってくださった出来事は「泉のほとり」で起きました。創世記16章14節には「その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。」(創16・14)とあります。井戸と訳されていますが「ベエル」は泉です。「ラハイ・ロイ」は「生きて、見る」お方という意味です。
 今日の出来事を通して私たちは神様がどのようなお方であるのかを知ることができますね。
 
 @神様は、私たちのことを「見つめてくださるお方」です。
 A私たちの叫びを「聞いてくださるお方」です。
 B必要な時には「生きて」助けてくださるお方です。
 
 このお方の御手の中に生かされていることを覚えつつ、この週も歩んでまいりましょう。最後に詩篇139篇のことばをお読みしてお祈りします。
 
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139篇抜粋)