城山キリスト教会 夕拝メッセージ    
二〇二二年六月二六日            豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ3「カインとアベル」四章一節〜一六節
 
 みなさん、こんばんは。聖書人物シリーズの第三回目「カインとアベル」です。少し長いですが、創世記4章1節から16節までをお読みします。
 
1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。
2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。
11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。(新改訳聖書第三版)
 
 この箇所は世界で最初の殺人事件です。みなさん、聖書が何章あるかご存じですか。旧約が929 章、新約が260 章、合わせて1189章あります。なんとすでにこの4章で「殺人」が起り、聖書はそれを隠すことなく記しています。ときどきこんな風におっしゃる方がいます。「聖書って『聖なる書』でしょ。自分には関係ないですよ。」いやいや、そんなことはありません。聖書は、創世記の始めから人間の愚かさや弱さを赤裸々に記しています。そして、人間の愚かさを記すと同時に、それを覆う神様の愛も記しています。
 
1 カインとアベルの誕生
 
 前回、アダムとエバがエデンの園から追放されたことをお話しました。神様の側から見れば、彼らを園から追放した(そうせざるえなかった)わけですが、人間の側からいえば、自ら神様に背を向けて自分の力で生きていく道を選び取っていったと言えます。しかし、神様は人を見捨てたわけではなく「皮の衣」を着せて保護してくださいました。それは、人の罪を覆ってくださる救い主イエス様を象徴するものでもありました。
 さて「エデンの園」を離れたアダムとエバは日々の現実に直面しました。「エデンの園」とは違い、毎日苦労して働かなわれば糧を得ることができません。困難も多かったことでしょう。そんな彼らに男の子が生まれました。エバはわざわざ「私は、主によってひとりの男子を得た」(創世記4・1)といっています。子どもの誕生を経験したとき、人のいのちは神様の御手の中にあると実感したのでしょう。その子を「カイン」と名付けました。「獲得する」という意味があります。
 みなさん、名前には親の思いが込められることがありますね。私の名前「臨太郎」は、牧師である父が名付けてくれました。「再臨を待ち望む男」また「主の臨在の中に生きる」そんな意味が込められているそうです。今は気に入っていますが、一時プレッシャーを感じたこともあります。
 創世記3章で、アダムとエバが、エデンの園を追い出される前に、神様は「将来、女の子孫の中からサタンの頭を踏み砕く救い主が生まれる」と約束されました。もしかしたら二人は「このカインこそ、神様が約束してくださった救い主ではないか」と思ったのかもしれません。カインはそんな親のプレッシャーを感じたかもしれませんね。でも、次の子供が生まれた時、アダムとエバはその子を「アベル」と名付けました。「アベル」は「ため息」とか「すぐ消えてしまうもの」「実体のないもの」「むなしさ」を意味する言葉です。カインが生まれたときには、「遂に(救い主を)獲得したぞ。」と思ったかもしれません。でも、その後、一向に変わることのない日々を送る中で、どうやらそうではないと思ったのかもしれません。「アベル」の名から、彼らのそのような空気をを感じとることもできます。
 
2 カインとアベルのささげ物
 
 さあ、二人の息子は成長しました。カインは土を耕す者、アベルは羊を飼う者になりました。それぞれに生きる為に手に職をつけて働いたのです。ある日、二人は神様にささげ物をささげました。おそらく、両親が「カイン、アベル、こうして生かされているのは、神様の支えがあってこそだよ。私たちの命は神様によってささえられているのです。だから、定期的に神様に感謝をささげるのですよ。」と教えていたのでしょう。
 カインは、自分が収穫した地の作物、アベルは自分が育てた羊の初子を献げました。二人とも自分の働きの背後に神様の支えがあることを認め、感謝を表すためにささげ物をもっていきました。ところが、その時のことが、こう書かれています。「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」(創世記4・4-5)
 みなさん、これを読んでどう思われますか。私はここを初めて読んだとき「なんで神様はえこひいきするのだろうか。二人ともそれぞれ自分の得たものから献げたじゃないか。」そんな風に思いました。でも、けして神様はえこひいきされたわけではないのです。また、ささげ物の種類によって差別されたわけでもありません。なぜなら、聖書にはこう書いてあるからです。
 「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(1サムエル15・22)
 「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サムエル16・17)
 つまり、神様は「何を」ささげるかではなく、「どのような心」でささげるかをご覧になるのです。人が心からの感謝をもってささげる姿を神様は喜ばれるのです。ですから、この時、神様がカインのささげ物に目を留められなかったのは、カインの「心に」問題があったからだと考えられます。創世記4章6-7節で、神様は「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」とおっしゃっていますね。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる」と言われているのです。
 おそらくカインは、神様に心から感謝していたからではなく、義務感でささげ物を持ってきたのでしょう。心の中では、こんな風に考えていたのではないかと思います。「なんで神様にささげる必要があるんだ。俺が汗水たらして働いたから作物ができたんだ。神様は何も手伝ってくれていないじゃないか。それでも、この忙しい中、わざわざ、ささげものを持ってきたのに、神様は、弟のささげものだけ受け取って、俺のささげ物は無視した。一体どういうことだ。」カインの間違いは、神様に心から感謝することができなかったということです。
 神様が望んでおられるのは、神様の恵みに感謝して、自分の心で決めたとおりにおささげすることです。2コリント9章7節には、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」と書いてあります。
 私たち人間は弱い存在ですね。人生には厳しさがあります。誰一人、自分の力だけで生きていける人はいません。神様はそれぞれに寝る場所を与え、仕事を与え、食べ物を与え、必要を満たしてくださるお方です。だから、私たちはその恵みを覚えて神様に感謝をささげます。でも、それはけして強いられるものではなくて、自分の心で決めたとおりささげすればよいと、聖書は教えているのです。
 
3 カインとアベルの殺人事件
 
 さあ、その後、カインはどうしたでしょうか。自分の過ちを指摘されたカインは「神様は自分を認めてくれなかった」と感じて怒りを覚えました。そして、怒りの矛先は弟アベルに向けられました。カインは、アベルを野に連れだして殺してしまったのです。人類最初の殺人が起こりました。
 その時、神様はどうされたでしょうか。カインにこうおっしゃったのです。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか?」神様は全知全能のお方です。カインのしたことを全部ご存じのはずなのに、それでもあえて「アベルはどこにいる」と聞かれたのです。つまり、ここで神様は、カインに「悔い改めのチャンス」を与えてくださったのです。彼が正直に「ごめんなさい」と言えるように、あえて神様は問いかけてくださいました。
 聖書の神様はそういうお方です。アダムとエバが神様との約束を破って「善悪の知識の木の実」を食べた時もそうでした。隠れた彼らに、神様の方から近づいてくださって「どこにいるのか。」と呼びかけてくださいました。神様は無理やり引きずり出して糾弾されるようなお方ではないのです。
 でも、残念ながらカインはこういいました。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」(創世記4・9)神様の問いかけに素直に応えることができず、自分の罪を認めることがきなかったのです。そして、その結果、大きな代償を支払わなければならなくなりました。
 神様は言われました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記4・10-12)土地を耕しても作物が出来ず、その土地に住めなくなり、さすらい人となってしまうのです。
 カインは言いました。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」(創世記4・13−14)自分が弟を殺した結果、今度は自分が殺されることを恐れるようになり、心の平安をうしなったのです。
 
4 カインを見捨てることのない神様
 
 しかし、それでも神様はカインを見捨てなかったのです。 「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」(創世記4・15-6)
 「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」これ以上、復讐の連鎖がおきないようということです。そして、「だれもカインを殺すことがないようにしるしを下さった」のです。このしるしが実際どのようなものだったのかはわかりませんが、神様は愚かなことをしたカインを守ってくださったのです。神様はアダムには「皮の衣」、そして、カインには「守りのしるし」を与えてくださったのです。神様はどこまでも人を愛し、どんな時も人を守り、人を諦めないお方なのです。
 今日の箇所を通して、私たちにもカインの姿と重なる部分がないでしょうか。
 @神様への感謝がいつのまにか心からではなく義務になり、形だけになりやすい者です。そんな弱さをもっています。
 A周囲の人と自分を比べて劣等感を感じたり、優越感を感じたりしてしまうこともあります。神様よりも人を見てしまうことがあります。
 B自分の怒りをおさめられない弱さもあります。カインのように実際に人を殺さなくても、心の中には同じような思いが湧いてくることがあります。
 しかし、神様はそんな私たちをけして見捨てないのです。神様の方から語りかけ、何度でも悔い改めのチャンスを与えてくださいます。そして、私たちは、救い主イエス様が十字架にかかって私たちのすべての罪を解決してくださり、永遠の救いの衣となってくださったことを知っていますね。
 エレミヤ31章34節には「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」とあります。イエス様によって、神様は私たちの罪を完全に赦してくださいました。それだけではありません。イエス様を信じるひとりひとりの内に聖霊なる神様が住んでくださり、新しい心を与え人生を導いてくださいます。エレミヤ31章33節には「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」とあります。つまり、聖霊なる神様ご自身が私たちの内側を変えてくださり、心から神様に従う者に少しずつ変えていってくださるのです。
 カインは「さすらい人」となりました。でも、今、イエス様を信じる私たちはこう祈ることができます。「イエス様、私にはカインと同じような心があります。けれども、あなたが十字架で贖ってくださいました。感謝します。そして、聖霊なる神様が内側から変え続けてくださっています。ありがとうございます。」ですから、私たちは「さすらい人」でなく、イエス様と共に「天の御国に向けて歩む旅人」とされているのです。その恵みに感謝しつつ、この週も歩んで参りましょう。