城山キリスト教会夕拝説教
二〇二二年七月三日            豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ4「レメクとセツ」
創世記四章一七節〜二六節
 
16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
 17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。
18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。
19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。
20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。
22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
23 さて、レメクはその妻たちに言った。
  「アダとツィラよ。私の声を聞け。
  レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
  私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
  私の受けた打ち傷のためには、
  ひとりの若者を殺した。
24 カインに七倍の復讐があれば、
  レメクには七十七倍。」
 25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。(新改訳聖書第三版)
 
 
 みなさん、こんばんは。聖書人物シリーズの第四回目、今日は「レメクとセツ」です。あんまり馴染みがない名前ですね。「レメク」は、カインの子孫です。カインの孫の孫(やしゃご)の子です。「セツ」は、アベルが死んだ後に、アダムとエバに生まれた子どもです。
 創世記4章の後半には、カインの家系である「レメク」と、アベルの後継者ともいえる「セツ」のことが対象的に紹介されています。一方は神様に背を向けた歩みを進めます。そして、もう一方からは神様を礼拝する歩みが始まります。今日はそのことをご一緒に見ていきましょう。
 
1 カインのその後
 
 少し前回を振り返りますが、カインとアベルは、ある時、神様にささげものをもっていきました。神様は、アベルのささげものには目をとめられました。しかし、カインのささげものには目をとめられなかったのです。聖書全体から分かることは、神様は決してささげられる品物にこだわる方ではありません。心をご覧になります。私たちが、神様に生かされて人生を歩んでいることを認め、神様に感謝の心を持ってささげるとき、神様はその心を喜んでくださいます。
 でも、この時のカインは違いました。おそらく彼はこう思ったのではないでしょうか。
 「なんで神様にささげる必要があるんだ。俺が汗水たらして働いたから作物ができたんだ。それでも、わざわざ、ささげものを持ってきたのに、神様は、弟のささげものだけ受け取って、俺のささげ物は無視した。一体どういうことだ。」
 カインは心から神様に感謝することができませんでした。そして、弟を殺してしまいました。その結果、住み慣れた土地から離れざるをえなくなり、今度は「誰かが自分を殺すのではないか」という恐れをいだきながら、地上をさまようさすらい人になってしまったのです。
 でも、神様はそんなカインを決して見捨てませんでした。これ以上、復讐の連鎖がおきないように、「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」(創4・15)と警告されました。さらに、「だれもカインを殺すことがないようにしるしをくださった」(創4・15)のです。このしるしがどんなものだったのかはわかりませんが、神様は愚かなことをしたカインを守ってくださったのです。
 その後、カインはどうなったでしょう。「神様ありがとうございます。」そう言って感謝し礼拝したでしょうか。「神様あなたを信頼していきます。」信仰の告白をしたでしょうか。いいえ。そうではありませんでした。残念ながら彼は、「主の前から去った」(創世記4・16)のです。「俺は神様に守られている」というお墨付きに満足して、足早にさっていったのです。そのカインから、神様に背を向けて生きる家系が始まっていきます。
 
2 レメクの誕生
 
 カインから子どもが生ました。「エノク」「イラデ」「メフヤエル」「メトシャエル」「レメク」です。
 「レメク」という名には「強い者」という意味があります。彼は名前の通り人間的な強さを誇る人でした。「頼れるのは自分の強さだ!力だ!」そんな風に考える人でした。
 聖書はレメクの三つの姿を記しています。
 
 @一夫多妻を実行
 
 彼は人類で初めて一夫多妻を実行した人でした。創世記2章14節に「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と記されているように、本来、結婚は一人の男性と一人の女性が結び合い、ふたりが一体となることだと、神様は定められました。でも、レメクは、「一夫多妻でどんどん子をもうけ増え広がっていこう。」と自分の力を増大させることにエネルギーを注いだのです。神様が定められた一人の夫と一人の妻の麗しい結婚の原理を壊してしまいました。
 
 A神様抜きの文明の広がり
 
 また、レメクからは神様抜きの文明が広がっていきました。彼の息子「トバル・カイン」からは、青銅器や金属産業が広がり都市文明の形成されていきました。また、「ユバル」からは、竪琴や笛など芸術も発展していきます。もちろん、文明の発展や芸術や文化が決して悪いものではありません。でも、神様抜きで発展していっても、それは人間の欲望中心の世界になっていきます。そこに本当の喜びがないことを私たちは知っていますね。パウロは、テモテへの手紙の中で、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6・17)といっているとおりです。
 
 B復讐の歌を歌う
 
 そして、レメクは二人の妻に象徴的な歌を歌いました。
 「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(創4・23-24)
 とんでもない内容ですね。ジャイアンの歌どころではありません。「俺の話を聞け〜。」とばかりに自慢話を歌できかしたのです。こんな内容です。」
 
「ある日、俺が道を歩いていたら、前から若造がぶつかった。俺としたことが、ちょっとした傷になっちまってよ。腹が立ってこう言ってやったんだ。『なんだ、お前、俺が誰だか知ってんのか!ノデの地にいるレメク様たぁ、俺のことだ。よくもまあ、俺様に傷を負わせてくれたな。野郎ども、こいつをやっちまえ!あのカイン様に七倍の復讐があるなら、俺には七十七倍ってことよ!』そういって、生意気な若者を殺してやったよ。ガハハハ!!」
 
 みなさん、実は、これが旧約聖書に出てくる最初の詩なのです。聖書にはいっぱい素敵な詩があるのに、最初の歌が復讐の歌、自分の力を自慢する歌だったのです。聖書は、カインの子孫であるレメクが自分の力により頼み、人を恐怖によって支配しようとする姿を記しています。
 しかし、4章終わりで創世記の記者はアダムとエバに新しい子が生まれたことを記します。
 
3 セツの誕生
 
 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」(創4・25)
 
 神様に背を向けたカインの子孫とは別の流れです。神様に感謝をささげた敬虔なアベル、最初の殉教者アベルの後継者「セツ」の誕生です。
 「セツ」の名前には「指定された」「備える」という意味があります。アダムとエバは「セツ」が誕生したとき、「神様が私たちにこの「セツ」を備えてくださった。この子をアベルの信仰を受け継ぐ者としてくださるように」と願ったのでしょう。
 そして、「セツ」には「エノシュ」という子が生まれました。「エノシュ」は「弱くもろいものとしての人間」を表すことばです。実際、彼は体が弱かったのかもしれませんし、このときセツは「人間は弱い者だ。脆い存在だ」と自覚していたのかもしれません。
 実はセツの家系を見るとき、聖書はこれという成功者の姿を記していません。産業や芸術に秀でたレメクの家系とは対照的です。ただ聖書は一言こう記しています。
「その時、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」(創4·25、26)
 「主の御名によって祈る」は、神様を礼拝したということです。神様によって、「アベルの信仰」を受け継ぐ者として備えられた「セツ」が、神様に感謝をささげながら生きる中で「エノシュ」が生まれました。そして、「人間というのは弱い存在なんだ」そのような告白をもって「エノシュ」と命名したとき、人々は主の御名によって祈ることをはじめたのです。つまり、礼拝がはじまったのです。
 聖書は全体を通して、人間は弱くもろい存在だということを教えていますね。私たちはどんなに自分の力を誇っても、皆、もろい土くれにすぎません。でも、そんな自分の存在のはかなさや弱さを自覚する時にこそ、私たちは神様に助けられ、神様の支えの中で生かされていることを知ることができます。
 そこから何が生まれるでしょう。祈りです。礼拝が生まれます。私たちが自分の弱さを知るとき、神様を見上げることへと繋がるのです。
 私たちはみんな、それぞれに弱さを抱えています。パウロも、2コリント11章29ー30節でこう言っています。
 「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」
 パウロも誰よりも自分の弱さを感じていたのです。その上で、2コリント12章9-10節で、彼は、イエス様が「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言ってくださった。だから、「私が弱いときにこそ、私は強い」と告白しています。「弱さ」を自覚することを通して、それを覆ってくださる大きなイエス様の恵み、神様の力を知るのです。そして、神様への祈りが、礼拝が生まれていくのですね。
 
 創世記4章には、カインの子孫「レメク」の家系から神様抜きの文明が起こっていったことが記されています。それは、人間の強さを誇る姿でした。道徳的な退廃へとつながり、人間はどんどん愚かな方向に進んでいきます。より豊かに、より強く、より美しくと、神様抜きの人間の欲望は歯止めをしりません。破滅に向かいます。でも、4章の最後に短く紹介される「セツ」の家系からは、人間本来の生き方がみえます。それは、たとえ自分には「弱さ」があっても、それゆえに神様を見上げて祈ることができる、強いお方である神様を礼拝し、神様と生きることができるという、姿です。そこに「本当の強さ」があります。
 私たちは、聖書を通して、日々の歩みの中でその素晴らしさを知っていますね。イエス様を信じる者は、すでにその祝福の中に生いかされています。その恵みに感謝しつつ、この週もともに歩んで参りましょう。