城山キリスト教会夕拝説教
二〇二二年七月三一日            豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ7「セム、ハム、ヤペテ」
創世記九章一八節〜二七節
 
 18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
 20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。
21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
25 言った。
  「のろわれよ。カナン。
  兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」
26 また言った。
  「ほめたたえよ。
  セムの神、【主】を。
  カナンは彼らのしもべとなれ。
27 神がヤペテを広げ、
  セムの天幕に住まわせるように。
  カナンは彼らのしもべとなれ。」
 
 聖書人物シリーズの第7回目、今日は「セム、ハム、ヤペテ」を紹介します。「ノア」の三人の息子たちです。
 大洪水の後に、創世記9章から10章を読むと、「ノア」の三人の息子「セム、ハム、ヤペテ」から、人類が再び全世界に増え広がっていったことがわかります。ちなみに、長男が「セム」で、次男が「ヤペテ」、末っ子が「ハム」だと思われます。
 大洪水の後、「ノア」たち家族が降り立った地はアララテ山というところでした。現在のトルコあたりだと考えられています。そこから「セム、ヤペテ、ハム」がどう増え広がったのかというと、地図をご覧ください。
 長男「セム」は、ユーフラテス川流域からパレスチナ地方に広がり、セム語族と呼ばれるようになります。彼の一族から、やがて、アブラハムが生まれ、イサク、ヤコブ、イスラエル民族へとつながっていきます。「セム」から、救い主イエス・キリストへと繋がる救いの計画が成就されることになります。
 次男「ヤペテ」は、名前には「広い」という意味がありますが、北方に向かって広がっていきます。小アジア、カスピ海、黒海周辺、地中海北部に広がり、ヨーロッパに広がっていきます。インド・ヨーロッパ語族と呼ばれるようになります。
 三男「ハム」は、南に広がっていきます。アラビヤ北部、アフリカ方面です。エチオピア、エジプト、そして、「ハムは、カナンの父」と呼ばれているように、聖書の中心的な舞台となる「カナン」の地域も含まれます。「ハム」の子「カナン」の子ども達は、後にシドン人、ヘテ人、エブス人、エモリ人、ギルガシ人など、旧約聖書ではお馴染みの部族に繋がっていきます。イスラエルと対立する部族が「ハム」から出てくるのです。
 ですから、「ノア」の三兄弟、それぞれ異なった歩みを始め、ある者は、神の民「イスラエル」へとつながり、あるものは神に反逆し、イスラエルに敵対する民につながっていくのです。今日は、その発端となった出来事を紹介します。
 
1 酒に酔ったノア
 
 大洪水のあと、何もかもが一変した大地に立ったノアは働きはじめます。干上がった大地を削り、耕して農業を始めました。幸い神様は洪水後も、種蒔き時、収穫時、春夏秋冬の季節を与えてくださいましたら、安心して農作業に従事することができました。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった」(創9・20)とあるとおり、ぶどう作りに励んだのです。
 考えてみれば、「ノア」は働き者ですね。経験したことのない「船大工」になり、そして、「船乗り」になったかと思えば、船の中では「動物園長」そして、今は「ブドウ園の農夫」です。ノアは神様から祝福を受けましたが、自分で何もしなかったのではありません。祝福の約束があるからこそ、彼は一生懸命に働きました。神様とともに歩み、その時、その時、与えられた環境と状況の中で、自分に出来ることに取り組んでいたのです。
 土地を耕しぶどうを植えて、一生懸命に手入れをして、いよいよ収穫の時がやってきました。
「おお、いい感じにぶどうができたぞ。どれどれ、うまい、うまい。」
 おいしいぶどうに満足したのでしょう。さらに、ノアはぶどう酒を造りました。おいしいワインですね。あるソムリエが「ワインは人生を豊かにする」と言ったそうですが、(ちなみに私はワインも含めアルコールが飲めません)とにかく、ノアは一生懸命に働き、豊かな実りを得て、おいしいワインを飲んだのです。でも、どうやらノアはアルコールが弱かったようです。大失敗をしてしまいます。
「ノアは、ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」(創9・21)
 酔って裸になったのか、裸で飲んで酔ってしまったのか。とにかく、ノア自身、おもわぬ失態を犯してしまったのです。
 ちなみに、聖書には「お酒を飲むな」とは書かれていません。パウロはテモテに「胃のために…少量のぶどう酒を用いなさい」(1テモテ5・23)と勧めています。でも、時にお酒が理性を眠らせ、良心をおかしくさせる、罪を誘発すると警告しています。パウロは、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからす。」(エペソ5・18)とも注意しています。
 また、旧約聖書の箴言には、こんな箇所があります。
「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真ん中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」(箴23・29-35)
 聖書は、何千年も昔に書かれたものですが、今にも時代を超えて通じることばですね。
 
2 息子たちの対応
 
 さて、酔っぱらった父ノアの姿を見た息子たちはどうしたでしょうか。最初に三男ハムが発見しました。
「親父、酔っ払ってるよ。情けないな。それにしても素っ裸になって。腹もたぷたぷだな。」って思ったかどうかは分かりませんが、彼は「父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」(創9・22)のです。
「兄さんたち、見てよ。おやじが酔っぱらって裸で寝てるよ。」
 すると、それを聞いた長男のセムと次男のヤペテはどうしたでしょうか。彼らは、「着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。」のです。(創世記9・22-23)彼らは、決して父の裸をみなかったのです。
 ハムは父の醜態を見た時、そのことを暴露しました。ところがセムとヤペテは父の醜態を覆い隠すということをしました。
 
 @ハムの問題点
 
 ハムは「父の裸を見た」とありますが、この「見た」というヘブル語は「じっくりと見た。凝視した」という意味です。そこからは、彼が父親を「見下した」「馬鹿にした」ということを読み取ることができます。
 息子たちにとってノアは父親であるともに、神様のことばを教え、洪水から救ってくれた命の恩人です。その感謝を忘れて、欠点をみて侮ったのです。父の失敗や弱さを言いふらして、心理的な快感を味わったともとれます。
 もちろん、ノアも一人の人間ですし完全ではありません。この時も酒によって失敗しています。でも、たとえ人間的な弱さがあったとしても、神様がノアを選び、神様のことばを取り次ぐものとしてお立てになった事実はかわりません。ノアには神様の代理者としての権威があったのです。ハムはそれをないがしろにしてしまったとも言えます。
 
 Aセムとヤペテの姿
 
 一方、兄たちセムとヤペテの行動は違いました。ノアの裸をみることなく、人に見せることもせず、それを覆いました。「愛は多くの罪をおおう」(1ペテロ4・8)という言葉にあるように、彼らは父の弱さや恥を愛をもって覆ったのです。同時に、それは父を敬う行為でもありまました。自分たちに救いを与え、祝福を流す存在、神様の代理者としてのノアを敬ったということです。それは、ノアをお立てになった神様を認め、神様を敬う姿でもありますね。
 「この父さんを与えてくださったのは神様だ。弱さもあるし、欠点もあるけど、神様が父さんを通して、私たちを救い祝福してくださった。」
 そのように、神様のご支配(愛と支え)の中に、自分たちが生かされているのだという自覚を感じることもできます。
 
3 ノアの呪いと祝福
 
 @ハムへの呪い
 
 酔いからさめたノアは、息子たちが自分にしたことを知ってこう言いました。まず、裸を見て兄たちに暴露したハムに対して次のように言いました。
 「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべとなれ。」(創9・25)
 「カナン」は、ハムの子どもです。おそらく、カナンも父ハムと一緒になって祖父ノアを馬鹿にしたのかもしれません。いずれにせよハムの子孫が呪われました。
 実際、聖書を読み進めるとわかりますが、ハムの子カナンから出た子孫の一部は、あの罪に堕落した町「ソドムとゴモラ」に住みます。後にその不法な行いのゆえに神様に滅ぼされててしまいます。
 さらに、その後、カナン人はイスラエルに敵対するのですが、当時のカナン人は、自分の子ども偶像の神々にささげて火で焼くとううような恐ろしいことをするようにまります。不法と悪行に満ち、とことん堕落してしまったカナン人に対して、後に神様はイスラエルの民を通してさばきをおこなわれます。ノアの呪いのとおり、やがて、ハムの子カナンの子孫は、セムの子孫イスラエル民によって征服されるのです。
 
 Aセムとヤペテへの祝福
 
 そして、ノアはセムとヤペテに対しては、「ほめたたえよ。セムの神、主を。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」(創9・26-27)と、祝福しました。
 「セム」とうへブル語には「しるし、名前」という意味があります。セムは神の民としてのしるしとなり、この後、セムの子孫からアブラハムが生まれます。そして、神様の祝福を受けるイスラエルが起こされ、そこから「救い主イエス・キリスト」へとつながって行くのです。
 また、「ヤペテ」には「広げる、解き放つ」という意味がありますが、その名前の通り、領土、人口、経済においても、世界中に増え広がっていきます。ヤペテの子孫は、ヨーロッパという広い領土を支配するようになりました。宗教的にはキリスト教国が多いですね。
 そのように、セムとヤペテの受けた神様の恵みは子孫へと受け継がれてゆきました。
 ただ、ここで注意が必要なのは、このノアの言葉が歴史を通して全面的に決定的なものとなったわけではありません。このノアの預言的な祝福と呪いが、すべての民の運命を決めたというわけではありません。
 「ヤペテ」系のヨーロッパ人の中にもクリスチャンでない人はいますし、「セム」系のイスラエルの中にも、神様に背き偶像に傾く人もいました。「ハム」の子孫カナンの中でも、ラハブに代表されるような敬虔な人もいたからです。
 パウロも、「外見上のユダヤ人がユダヤ人でない」(ローマ2・28)といいました。イエス・キリストの十字架はすべての呪いを取り去ります。だから、今、イエス・キリストを信じるものは、どんな人でも神様の祝福を受けることができます。
 
 今日の出来事から私たちはいくつかのことを学ぶことができますね。
 まず、ノアの失敗を見てそれを暴露した「ハム」の態度は正しくありませんでした。ノアは、父であり、大洪水から救ってくれた命の恩人であり、神のことばを告げる預言者でした。それなのに、ハムは父を見下げました。逆に、セムとヤペテは失敗した父を笑うことなく、その弱さと恥を覆い不名誉を取り除きました。
 私たち人間は誰にでも失敗があります。罪も犯します。恥をさらしてしまうこともあります。その時、それを暴露したり、笑いものにするのでなく、愛をもって覆い合うものでありたいですね。
 パウロは、ガラテヤ書3章27節で、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」といいました。
 イエス様は、私たちの全ての罪を負い、私たちが受けるべき恥をその身に受けてくださいました。十字架で流された血によって、私たちのすべての汚れを覆ってくださったのです。
 だから、赦された覆われた私たちは、人の失敗を裁くのでなくて、覆い、補い、助けることができたら、なんと幸いでしょうか。
 そして、もう一つ心に留めたいことは、実はノアの生涯は洪水の後、350年続くのですが、その中で洪水以降に記録されているノアについての記録はこの「泥酔事件」だけなのです。
 ノアにしてみれば汚点ですね。でも、聖書は、赤裸々にノアの失敗と息子たちの姿を記しています。もしかしたら、洪水後に人々から「第二の人類の祖」などと祭り挙げられないためだったのかもしれません。
 そこから私たちは、「義人はいない、一人もいない」という言葉の通り、誰一人完璧な人はなく、みんな弱さがあり足りなさがあるということを知ります。
 聖書を読むと、人は、何度も神様に背を向けてしまうような存在です。それでもなお、人をどこまでも愛し、あきらめず、イエス・キリストという「救いの道」を用意してくださった神様の愛と熱心を覚えることができます。今、私たちは、その父なる神様の愛の中に、そして、神様が送って下さったイエス・キリストというお方に覆われています。その恵み中に生かされていることを感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。