城山キリスト教会夕拝説教
二〇二二年九月四日             豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ9「アブラハム1−天幕と祭壇−」
創世記一二章一節〜九節
 
1 主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」
4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
 
 聖書人物シリーズの第9回目です。今日からしばらくの間、「アブラム」のちの「アブラハム」を紹介します。彼の生涯は創世記の11章から25章まで15章に渡って書かれています。
 以前、彼の父テラを紹介しました。テラはノアの息子セムの子孫です。大洪水の後、ノアの息子、セム、ハム、ヤペテから人類は再び増広がっていくのですが、神様はご自分を信じて歩む素晴らしさを証するようにとセム族を選ばれました。
 しかし、そのセム族も増え広がっていくにつれて神様に背を向けて歩むようになります。そんな中で神様はセム族の中から更に一人の人物、アブラム(後のアブラハム)を選び、彼を通してすべての民が祝福を受けると約束されて、彼の歩みを守り導かれます。ですから、アブラムの生涯には、神様が人間を愛し救おうとされる熱心さが反映されているのです。
 また新約聖書の最初マタイの福音書の系図に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ…」(マタイ1・1−2)とあるように、救い主イエス・キリストの系図の最初にアブラハムが登場します。アブラハムの家系を通して、イエス・キリストは人となって生まれ、救い主として十字架で死なれ、復活さまれました。
 さらにローマ書には「アブラハムの信仰にならう人々」(ローマ4・16)という表現がでてきます。ガラテヤ書には、「信仰による人々こそアブラハムの子孫です」(ガラテヤ3・7)とあります。
 つまり、新約聖書においてアブラハムは「信仰によって義とされる」、言い換えるならイエス・キリストを信じることで、神様の前に正しい者とされる、そのことの模範として紹介されているのです。だから、「信仰の父」と呼ばれるのです。
 私たちは「信仰の父」と聞くと、「アブラハムはさぞかし立派な人物だったのだろう」と思うかもしれませんね。しかし、アブラムも完璧な人間ではありませんでした。弱さをもっていました。愚かな失敗もしました。「信仰の父」と呼ばれる存在であるのですが、同時に私たちと同じ人としての弱さを抱え、神様の赦しとあわれみを受けながら一歩一歩その生涯を歩んだのです。
 これから、何回かに分けてアブラハムの生涯を見ていきますが、今日はまず、アブラハムがハランの地から再出発した出来事から見ていきましょう。
 
1 再出発のことば
 
 さて、アブラムの父テラを紹介したときのことを思い出してください。アブラムはカルデヤのウルにいたときに神様から「この地をされ、わたしの示す地へゆきなさい」と言われ、父テラを説得し旅立ちました。でも、その途中、ハランにとどまることになりました。父テラが「これ以上は勧めない。ここにとどまりたい」と望んだからです。そして、テラはハランでなくなりました。
 父テラを見取ったあとアブラムに、もう一度、神様は語りかけられました。再出発の命令です。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創12・1
 この再出発はアブラムにとって、いくつかの点で勇気が必要なことでした。
 @「生まれ故郷」を離れるというのは、「放浪生活に入る」ということを意味します。自分に与えられている法的な権利を持たずに放浪者となることです。法の守りから外れることを意味していたのです。
 A「父の家を出る」といのは親族から離れることです。当時は警察などありません。自分たちを守る役割は親族がになっていました。お互いの財産を守りあっていたのです。そこから離れるのは、自分を保護し守ってくれる者から離れるということを意味していました。
 Bまた、もう一つ「父の家を離れる」ことの意味には、先祖代々伝わっている宗教から離れるということでもありました。父テラは、「月の神ナンナール」を信じて仕えていました。アブラムは、父の宗教からも完全に離れたのです。
 つまり、アブラムは、当時、自分を守ってくれると考えられていた全てから離れて、聖書のまことの神様のみに依り頼み進んで行く決断をしたのです。
 もちろん、私たちクリスチャンはけして世捨て人になるわけではなりません。あたえられた環境、人脈、市民権、行政サービスなどを神様からのものとして感謝して生きています。でも、忘れてはいけないのは、私たちの生活の根底に、天地を想像された真の神様がおられることです。私たちの守り、助け、人生を導いてくださる神様がおられるのです。
 
2 祝福の約束
 
 アブラムは、神様から再出発の命令を聞きました。しかし、神様はただ無慈悲に命令をくだされたわけではありません。「わたしが示す地へいきなさい」の後にこうおっしゃいました。
 「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創12・2-3)
 神様は「あなたを祝福する」「あなたの名は祝福となる」「あなたを祝福するものを祝福する」「すべての民族は、あなたによって祝福される」と、4回も念をしてくださっています。
 「祝福」とは何でしょうか。それは、神様の愛によって恵みが与えられることです。神様の愛を、赦しを実感し心に安らぎや喜びがあたえられることもそうです。私たちが生きるために必要な物が備えられることもそうです。私たちの生きる使命や目的が与えられることもです。それは、他の人に神様の恵みを分け与えることも含まれます。聖書が語る祝福とはそのような豊かな内容があります。そして、それは単に自己満足や個人的なものを意味するのでなくて周囲へと広がっていくものなのですね。
 これまで創世記のアダムからいろんな人物をみてきました。本来、人は神様の愛と祝福を流す存在としてつくられました。ところが、人間の罪によってその祝福はとどめられてしまいました。そして、神様はすべてのものを洪水によって滅ぼしてノアを通してリセットされました。でも、人間の心の中にある罪の力は再び増して神様に背く勢力を作っていきます。
 だから、神様は再びアブラムを通して、救いのご計画を立てられました。アブラムが神様の救いの祝福の担い手として選ばれたのです。それは、やがてイスラエルに引き継がれ、最終的にはイエス・キリストによる祝福へとつながります。そして、イエス様を信じる私たちもその祝福にあずかる一人一人なのです。
 さあ、神様から再出発の命令と祝福の約束を聞いたアブラムはハランからカナンへと旅立ちます。
 
3 カナンへ
 
「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。」(創12・4ー5)
 創世記には、さらっとかいてありますが、この時のアブラムはすでに75歳です。人生も半分近くまできていました。もしかしたら、彼もここで落ち着きたい気持ちもあったかもしれません。それでも、神様のことばに従ったアブラムは、妻サライを説得し甥のロトと相談し、家を片付け旅立ちました。人生半ばの再出発でした。しかも、まだ行き先が分からない状態です。一日旅したら天幕をはって、朝になったらまた天幕をたたみ、家畜のための牧草をもとめて少しずつ少しずつ南へ進んでいったのです。神様のことばに信頼して足を進める中で、道が示されていきました。
 そして、アブラムはカナンの地に入って、ど真ん中の「シェケム」というところにきたのです。そこは、カナン人の偶像礼拝の祭りの場でした。神様がアブラムに現れて、こう言われました。「そのころ、主がアブラムに現れ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える』と仰せられた。」(創12・7)神様は、再度、祝福の念押しをしてくださったのです。
 その時、アブラムは何をしたでしょう。
 
 @祭壇を築いた
 
 約束の地に入ったアブラムは、これから先、旅のところどころで「祭壇」を築いて、神様に祈り礼拝するのです。つまり、自分の人生の歩みを神様におゆだねする生き方です。その中心が礼拝でした。
 私たちのクリスチャン生活というのは礼拝の生活です。与えられた地上の人生を歩みながら、人生を楽しみ、時に苦労しながら、いつも礼拝を重ねていくのです。そして、もう一つアブラムが続けていくのは天幕生活でした。
 
 A天幕をはった。
 
 アブラムは生涯、天幕で過ごしました。テント生活で一生涯を終えたのです。地上にあってはずっと旅人だったのです。ヘブル書には、アブラムについてこう言われています。
 「これらの人々はみな、…地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11・13)
 イエス様を信じる私たちクリスチャンは、みんな地上では旅人です。でも、それはけして地上を空しくさまよう旅人ではありません。
 ピリピ人への手紙3章20節にはこう書かれています。「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3・20)つまり、私たちは、天国に国籍をもち、天国を目指す旅人なのです。
 私たちは、聖書を通して、私たちにいのちを与え、必要を備え、人生を守ってくださる父なる神様がおられることを知っています。私たちの為に十字架で死んでくださり、罪を完全に解決してくださった、神様との関係を回復してくださった救い主イエス様を信じています。また、信じる一人一人の内に聖霊が住んでくださり、いつも共にいて天の御国に入る日まで守り導いてくださることを知っています。この三位一体の神様と共に歩む私たちは、けして地上をさまよう虚しい「さすらい人」ではなく、天に国籍を持ち、天の御国へと歩む旅人なのです。
 だから、私たちも、アブラムが旅の所々で祭壇を築いたように、礼拝を大切にしながら歩んで行きたいですね。繰り返しになりますが、クリスチャン生活の中心は礼拝です。それは、日曜だけでなく日々の生活の中でも、それぞれの場所や方法で、主に祈り、賛美し、みことばを読む、神様を礼拝する心をもって歩むこともそうです。私たちの国籍がすでに天にあること、そこへ向かって、神様の祝福の中を歩ませていただいていることに感謝しながら、この週も歩んで参りましょう。